14.奥手な天狗は悪役幽令嬢を祓えない
【風雅】
目の前の事態に、肝が潰れるかと思った。八手に乗ったおりゅうが、物凄い勢いで空から降ってくるなど誰が予想できようか。ワシも野分も呆気にとられたまま、地面に倒れ伏しているおりゅうを眺めていた。
驚きからだろうか、それともまさか、痛みでもあったのだろうか。さめざめと泣き出したおりゅうに、野分が駆け寄る。
「オイどうした、何があった?どこか痛めたのか?」
野分の声に、おりゅうががばりと体を起こした。お互いに顔を合わせて、二人して即座に顔を逸らせている。野分は鬼の衝動を抑えるため、おりゅうは悪霊になるのを恐れているから、だろうか。他人事とて見ていると、こう、何とももどかしいものだな……。
「……大事ないかい?」
『ええ、痛みは特に……』
そうかい、そりゃアよかった、と野分がそっぽを向いて言う。おりゅうの顔が寂しそうに歪んだ。ああ、可哀想に。横から誤解だと言ってやりたい。
「何が、あったんだィ?」
だが、野分には短くはあるが伝えるべきことを伝えてある。これ以上、ワシが手を出すべきではない。おりゅうが恐れを乗り越えるも、野分が誰を選ぶも、本人に任すべきだ。……む、いや、友として口出しくらいはしてもいいだろうか……?
『天狗の、お爺様が……』
「爺様?……アア、確かにコリャ爺様の葉だ」
『あ、のっ……、ち、近い……』
野分が長の八手の葉を見ようと体を寄せた。おりゅうは縮こまるように俯いている。ぐ、と野分の喉が動いた。こちらから見ていると丸分かりなのだが、おりゅうは耳まで赤い。元より肌が白いから、顔から首から赤くなっているのがよく分かった。
ああ、おりゅうはそれほどまでに野分に惚れていてくれたのか。ワシは左手に置いていた香を握り潰した。ここは屋外で風もある。すぐに香りはなくなるだろう。
野分がワシを睨んだ。ワシは首を振る。それから、視線でおりゅうを示した。お前が見るべきはワシじゃないぞ。
野分は一度きつく目を瞑ると、唸るように息を吐いた。びくりとおりゅうが肩を跳ねさせる。
「おりゅう、よォく聞け。俺ァ、…………」
野分の拳が締まる音が、ここまで聞こえそうだ。
「俺ァ、お前サンに惚れッちまった。……アンタを喰いたくて喰いたくて仕様がねェ」
『えっ……』
おりゅうが目を見開く。真か偽りか、探るように野分を見ていた。
「頼む、今すぐに俺から逃げてくんな。俺ァ俺を抑えておける自信がねェ。無理矢理にでもお前サンを組み伏せて、否だと泣き喚いても放しちゃアやれねェ……!」
溢れ出でんとする衝動を捻じ伏せるように、野分は自分の体を抱く。がちりと牙が鳴った。吐く息は、震えている。
『でも、わたくしは死んで、幽霊で……』
か細いおりゅうの声に、野分が首を振った。
「霊魂でも喰えるんだヨ……。俺ァ、おりゅうにとっちゃア、真の鬼サ」
何よりも鬼であることを嫌っていた野分がそれを認めねばならぬなど、どれほどの苦痛だろうか。がり、と野分の爪が己の腕を掻いた。おりゅうは、傷付いた野分の腕に触れるよう、手を伸ばす。
しかし、野分はその手を払うかのように腕を振った。ずるずると尻もちをついたまま後退る。おりゅうの瞳が、涙に歪んだ。ぽたりと、すり抜けて落ちる。
零れ落ちる雫から逃げて、野分は顔を上げてワシを見た。牙を剥いた野分が、血反吐を吐くように叫ぶ。
「風雅ァ!俺を殺せェ!」
「!」
「抑えきれねェんだ……!このまんまじゃア俺ァ、おりゅうを喰っちまう!頼む、俺を殺してくれェ!」
はあ、全くどこまでも頑固な奴よな。野分の血の叫びに、ワシは一歩踏み出した。
『駄目!』
それを遮るように、おりゅうが野分を背に庇う。ワシはおりゅうを見下ろした。おりゅうの先、野分が驚いて目を見開いている。おりゅうは必死に首を振った。
『やめて、くださいまし……!わたくしはっ……、お願い、この方を、殺さないで……!』
「おりゅう」
ワシはおりゅうに問う。
「まだワシに祓われたいか」
はらはらと零れ落ちたおりゅうの涙が、宙に溶けた。金色の髪の穂が、おりゅうに合わせて横へと揺れる。
摩訶不思議なものよな。首がもげる外つ国の幽霊だと、ワシの嫁取りを手伝うと、漬物やら刺身やらが美味いと、鬼が意地悪だと、お主が無邪気に笑ってからまだ幾日も経たぬというに。
おりゅう。もう泣くでない。野分と幸せにな。
「鬼の嫁取りは、魂を交えて分かつものだ。想い合っておれば痛みはない」
『!』
おりゅうは晴れた空のような青い瞳を、溢さんばかりに見開いた。
「安心して野分に喰われい、おりゅう」
おりゅうは、恐る恐る野分へと向く。怯えて逃げようとする野分は、しかしおりゅうの表情を見て動きを止めた。おりゅうは触れられぬその手を、野分の手に重ねる。
野分は幾度か躊躇うように視線を彷徨わせて、やがて観念したようにおりゅうを見た。
「……いいのかイ?」
おりゅうは何も言わず、ただこっくりと頷く。
喰おうとしてか口を開いてから、野分がワシを見上げた。その口元は、普段のように笑みで歪んでいる。
「見てんじゃアねェヨ、野暮天狗」
すっかり調子を取り戻した野分に、ワシは思わず笑う。大口開けて腹で笑いながら、寄り添う二人に背を向けた。
「はーやれやれ全く、世話の焼ける鬼殿だなあ」
うるせェやい、と野分の悪態がワシの背に投げられる。ワシは森の方へと歩き出しながら、がしがしと頭を掻いた。心を満たすのは何よりも、安堵の気持ちだ。ああ、よかったよかった。
ふと見れば、木陰に長とお絹がいる。手招きする長に近付くと、よくやったと背を叩かれた。ち、力の加減が下手なお方よ。
「さあ、お次はお主らよなあ」
長がにんまりと笑った。ワシはお絹と顔を見合わせて……、……なんと!?
「つ、つ、つっ、次!?わ、わわ、ワシは、お絹とは、友であって……!」
「そそそったら恐れ多いこと!お、お、おら、とっ、友ってだけでひぇえ!」
同時に首を振ったワシらに、長は頭を振りながら大きく溜め息を吐くのだった。
◆◇◆◇◆◇
【リューディア】
ゆっくりと瞼を持ち上げる。映ったのは、心配そうにわたくしを覗き込むノワの顔だった。そうっと、ノワの手がわたくしの髪を撫でる。
「痛みはないかい?」
「ぁ……」
音が出しにくくて、わたくしはただ頷くだけにした。ノワはわたくしの様子に、あの丸い瘤の入れ物を差し出してくる。これはお酒が入っている、のよね……?
「飲めるモンがこれしかねェ。ちィと喉に流すだけでいいから」
わたくしは言われるがまま、お酒を飲んでみた。鼻の奥に広がるアルコールの匂いに、けれど前のように噎せる感じはしない。こくこくと何度か飲むと、ノワは安心したように微笑んだ。
「アア、お前サンも鬼になっちまったナ」
「んん……、だって、わたくしがそう望みましたもの」
「……そうかい」
お酒のお陰か、声がきちんと出るようになった。ノワから視線を外して自分の体を見る。これは、ノワが羽織っていた着物?
「アー、ちィとそれで我慢してくんな。女物の着物なんざ持ってねェのヨ」
わたくしから露骨に視線を逸らすノワに、さあっと血の気が引いた。
「ま、まさか……」
「しっ、仕様がねェだろう。俺だってまさかっ……、素っ裸で生まれるモンだなんざ知らなかったんだヨ!」
やっぱり!この下は何も纏っておりませんのね!は、恥ずかしい!
体を隠すつもりで着物を抱き締めると、ふわっとノワの匂いが舞う。破れるんじゃないかというくらいに、心臓が跳ね上がった。これではノワに全身を抱き締められているようだ。でも、脱ぐわけにもいかない。もう幽霊じゃないから飛んで逃げることもできない。こ、こんなの拷問ですわ!
「……コリャ、何の苦行だイ……」
もぞもぞとノワが呟いた。視線をノワに戻すと、彼はぐっと息を飲んだように見える。それから、わたくしの頭に手を乗せた。あら?頭の上に何か硬い感触が……。
「あ、角……」
そうだ。ノワから分けられた角があるのでしたわね。触ってみようとして頭の上に手を向けると、角の前にあたたかい肌に触れる。
目の前に座っているノワと目が合った。
な、何をしているのかしら。ノワがわたくしの角を触っているのだから、今手を向ければノワの手に触れてしまうのは当然のことなのに!
ノワの手が、わたくしの手を掴む。ああ、熱い。これはノワの熱?それともわたくしの熱?引き寄せる力は強くなんてないのに、抵抗できない。細身に見えたのに、ノワはわたくしの知らない、硬い男性の体だった。
そうっと身を寄せて、わたくしはノワの胸に触れる。ノワは笑ったのか、耳元を熱い息が流れていった。恥ずかしいけれど、心臓が壊れてしまいそうだけれど、でもここは、とても心地がいい。
段々と恥ずかしさが増してきた頃、ノワも同じだったのか咳払いをしてから呟いた。
「……明日朝一番で、お前サンの着物をこさえてくるヨ」
「ふふふ、お願いいたしますわ」
わたくしはノワの肩に頬を寄せて、瞼を下ろす。胸を満たすのはとてもとても暖かな、幸せな気持ちだった。




