あちらとこちら
目の前で人間が死んでいる所……ましてや、殺された所など、そうは見たことが無いだろう。 彼の思考停止は誰にも糾弾出来るモノでは無い。
頭を正常な状態にする時間すら無い。何故なら今、彼の目の前には人殺しが立っているのだから。
「お兄様? どうかされましたか? 長年研究の為にこちら側にいたせいで私を忘れてしまったのですか?」
「俺は……どうなるんだ?」
次は自分の番ではないのだろうか? 目の前で人が殺されたら、誰でも知りたくはなるだろう。
「どうなるとは? 帰るのですよね? お兄様が迎えに来いと仰ったのではないですかぁ」
彼の心当たり……これは人が人なら妄想の類と思われても仕方ない程度の心当たり。
だが彼はこのつたない心当たりを信じて生きてきた。ソレが今、目の前の出来事と関係していると確定は出来ないが、永利は自分の真っ白な髪の毛を引っこ抜き、それを見て少し考えた後、少女の目を見て言った。
「そ……そうか……なら連れて行ってくれ」
「はーいもちろんでーす! まぁ実際あんまり時間が無いので速攻でやっちゃいまーす」
少女は軽く返事をすると、小ぶりな胸元から紙のような物を取り出して、それを入念に確認する。
そして、人差し指で空中に何かを書くような動作を始める。否、文字通り空中に何かを書いていた。
まるで長い数式のように見えるが、その羅列は見た事もない文字で構成されていく。
そして指が止まる。書き終えたのだろうか、少女は空中に書かれた文字を入念に見つめる。するとその文字は、まるでガラスのように細かく砕けて消えていった。
永利が文字が砕けるのを視認した瞬間だった。
永利の前に闇。例えるならブラックホールのような物体が現れた。
「ささ、行きますよお兄様! 中では別々になりますが、出る所は……失礼しました。お兄様には必要ありませんでしたねぇ!」
その言葉と同時に永利の体は闇に飲まれた。
―――――――――――――
「何だ……ここは?」
一瞬だけ途切れた意識が回復すると、真っ白な空間に永利は佇んでいた。
すると何処からか声が聞こえた……聞こえたと言うよりは頭の中に響く感覚に近い、その声を探すように永利が振り返ると、その空間に黒い球体の様な物が浮いていた。
「あー……多分問題は無いと思うんだけど、言葉はわかっているかな? と言っても返事は必要ない、どうせ僕には聞こえないからね。
君が疑問に思うであろう事に今、答える事は出来ないけど、おそらく君は望んでここにいるんだよね? 僕達が予想し、君の助けになる事は出来る限りしたつもりだ」
「何を言っているかさっぱりわからな――」
「そして現時点で僕達が出来る事はもう何も無い。悪いけど説明する時間も無いんだ。だから1つだけ言っておく事にするよ……知りたいのならカナスティアに向かえ」
永利の言葉を無視するように話す男の声「カナスティアに向かえ」その言葉を最後に球体は永利の胸に吸い込まれ、永利の意識は再び途絶えた。
「――様――お兄様!」
その声に覚醒を促され永利は目を開ける。
「ここは……?」
「お忘れですか? ここはお兄様が旅立った部屋ですよ」
目の前には先程叔母を殺した女が立っている、そして永利は部屋を見回す。豪華なベッドに高級そうな絨毯、見渡す限り豪華な部屋に当然、永利は心当たりなど無かった。
「ここは?」
「ここはとは……? 御自分の部屋ではないですかぁ」
「ん? ああ……」
この殺人鬼に自分が兄ではないと知られたらどうなる事か……永利はどうにか殺人鬼の兄を演じなければならないと思うが、何も分からない状況で自分の嘘が通用する自信もない。
「それでこの後はどうするんですかぁ? できればお母様にもお父様にも私が協力した事は内緒にして下さいよぉ!」
「ちょっと待ってくれ」
「どうかしましたかぁ?」
この状況で自分の嘘が通用しないと思った永利は意を決して殺人鬼の言葉を遮る。
「実は俺は君を覚えていないんだ……さっきは、君を知っているみたいに振る舞ったけど、俺は君の記憶も……ここが何処なのかすら分からないんだ」
「……うーん、でも、お兄様はそれも想定していたでしょう! ですが心配はいりませんよぉ! お兄様がお兄様なのは疑いようのない事実ですから! そりゃあまだ小さかったとはいえ見た目も完全に別人になってますけど、中身は間違いなくお兄様ですから!」
「それも何を言われているか分からない……説明してくれないか? どうしてこうなったのかを」
「んー? そんなの私は知らないですよぉ! 私にお兄様の考えなんて理解出来る筈ないじゃないですかぁ、いえ……お兄様の考えを理解出来るモノなんてお兄様以外にはいませんねぇ」
永利に記憶が無いと知っても動揺すらしない、それどころか永利が兄だと疑いもしない殺人鬼の女。
「じゃあ君の分かる範囲でいい……俺が今どういう理由でここにいるのか教えてほしい」
「お兄様……私の事はシャルと呼んで下さいよぉ……記憶がないんでしたね! ご自分の名前も?」
記憶が無い訳では無い、寧ろ記憶は完璧に存在しているのだ。ただし永利の記憶は姫崎永利としての記憶であり、このシャルと名乗る女が言う、兄としての記憶ではない。
永利は考える……自分の状況を何処まで伝えるべきなのか……目の前の殺人鬼相手にありのまま伝えていいのかを。
「ああ……俺はあちら側にいた記憶しか無い……こちら側での事は全部覚えていないんだ」
永利はシャルの言葉を思い出し最善であろう言い回しをする。
「それもお兄様の計算なんですかねぇ? 私にはさっぱりわかりませんけどぉ……では、お兄様の名前を教えますねぇ! お兄様の名前はエレイン・セラフィスです! そして私は妹のシャルアド・セラフィスです!」
「エレイン・セラフィス……聞いてもピンと来ない」
「大丈夫ですよぉ! お兄様なら記憶が無くても完璧です! 寧ろお兄様が記憶を失くされたならそれがお兄様の考えなんです! 私の敬愛するお兄様が失敗などする筈ないですから!」
どうやらこの殺人鬼は永利を兄だと思い、絶対の信用を置いているようだ。
それならばと永利は考えついた言葉を口にする。
「シャル……俺は記憶が無い事を出来ればシャル以外に知られるたくない……だからシャルの知っている俺を全て教えてくれないか?」
「誰にもですかぁ? お父様やお母様にもですかぁ? サイルお兄様も? エイミーお姉様にもですかぁ?」
何やら兄弟姉妹が多いようだが、当然どの名前も永利には聞き覚えが無い。
「そうだ、親兄弟誰にもだ……だから俺が記憶を失っている事が悟られないように、シャルが知っている限りの情報を俺に教えてほしい」
「シャルだけですかぁ……ウフフ……シャルだけ……分かりましたぁ! シャルが誠心誠意お兄様のお力になります!」
どうにか永利の試みは成功した、シャルは兄のエレインを絶対だと思っている、永利はそれを利用したのだ。
この時永利は素直にありがたいと感じつつも、恐らくシャルアドも自分の敵であると、そう感じていた。