01 ドMといえど人生を振り返ることはあるから
この現代社会に生きていく上で何が一番必要か? と問われたならば。
ーー耐える力
真っ先にそう答えるだろう。なんせ世の中は理不尽に満ちているのだから。耐える力がなければとても生きていけるとは思えない。単純な理由だ。
上司から自分が悪くないはずなのに罵られることもあるだろう。同僚の陰湿な悪戯のターゲットにされることもあるだろう。友達を装った外道からお金を盗まれることもあるだろう。
とある研究所が出した統計では世界の9割が理不尽に満ちていると発表した。俺はこの発表を見てその通りだなと思う。と同時にこんな世の中に軽くない絶望を抱いた。
だがそれでも生きていかなければならないのが人生だ。この理不尽から完全に逃げたいのならば死ぬ以外に方法はないだろう。無論、そんな度胸はないので実行など出来はしない。
ならどうすればいいのか?
こんな理不尽な世の中の方を変えるか?
答えはNOだ。
冷静に考えてみれば分かるだろう? いくらこの理不尽な世の中を変えようと声を上げて行動しても何も変わりはしないんだ。所詮は俺はその辺にいるちっぽけな人間、世の中を変えるなんてことは到底不可能。それは今の社会全体が存分に証明していることじゃないか。
平等とか平和とか居心地の良いとかいう言葉だけのものは信じてはならない。そんな口先から出ただけの言葉に期待しても意味がないことは経験上理解している。あんなのはタチの悪いだけの紛い物、世間を欺くためだけに用意された言葉だ。
結論ーー世の中は変えらない。悲しいかな、これが現実というもの。そんな事実にようやく気がついた時、ふと頭をよぎった。
ーーなら俺が世の中に対応できるように変わればいいのではないか、と。
変わらないものを変えることは不可能だ。なら逆転の発想をしようじゃないか。そう、変わることが出来そうな自分自身を変えてしまえばいいと考えたゆえの結論だ。そのために具体的に何をすればいいかを必死に考えてた結果がこれ。
ーーそうだ、ドMになろう
否、たどり着いてしまったと言うべきか。
Mーーそれは身体的精神的苦痛に気持ち良さを見い出す異常者。Mという字面はマゾヒストの頭文字だ。意外と社会のどこにでもコッソリと生息している存在である。
ドMーーそれはMを超えた先にある領域に住まう者の称号。俺はそう思っている。ノーマルなMと比べてその全体数は少ないだろう。ノーマルなMよりも遥かに苦痛への耐性が高く、更にその苦痛を過度な快感へと変換できる極地にいる者だ。いや、もはや歴戦の猛者と言うべき存在である。まあ簡単にまとめるなら。
ーー過剰に歪んだ性癖を持つ本当にやべえ奴。
こうなる。
自分で言うのも如何なものかと思うけど、冷静に考えてやべえ奴認定は否定できない。だって否定できる要素が皆無だし。Mへと足を踏み入れる前の俺なら間違いなくそう思うだろう。そんなやべえ奴ではあるが圧倒的な耐性ーーいわゆる『耐える力』は得た形になるだろ?
それすなわちーーどんな理不尽だって怖くない‼︎
なんせ常人からしたら苦痛だろうがドMからしたら快感でしかないんだ。こんなの無敵すぎだろ。逆に何を恐れることがあるんだ?
例え、会社のクソッタレ上司だろうと陰湿な悪戯をしてくるクソッタレな同僚だろうと友達を名乗る外道も恐れることなかれ。それに病気だって怖くないんじゃないか。病気は普通の人なら苦痛以外の何物でもないが、ドMにとっては常に快感に身を包まれているようなもの。
まあ気持ち良すぎて悶え死ぬ可能性はあるけど。それはそれで幸せそうだからいいんじゃない? 満ち足りた気分で往生できるなら言うことはないさ、多分。
とまあドMについて長々と考えたけど、結局何が言いたいかを一言で言うと。
ーードM最強じゃね?
これに尽きる。
この究極と言っても過言ではない最強理論を提唱した俺は即座に行動を開始した。
手始めにドM関連の著書を読み漁る。ドMの心得や心理。大変意義のあるものばかりだ。元々インドアな性格だったので本を読むのは好きだったので、深い沼にハマったかのようにどんどん読み進め、気がつけばドMとは言えないもののノーマルなMを名乗っても許されるくらいにはなっていた。いや、進化を遂げていたというべきだろう。
あらかた著書を読んだおかげである程度の知識は付いたと自負している。軽めだが自分を痛めつける行為にも手を出した。流石にリストカットなんて死ぬ可能性のあるやべえものには手を出していない。
Mになろうがその程度の常識が消えたわけじゃない。まあ逆にそれ以外の行為は結構やっちゃったけど。最初は痛いだけで辛かったし何度か普通に戻ろうと思ったけど、自分を変えたいという一心で頑張り抜いた。
で、その結果。
今では快感とまでは言わないがほんのりと気持ち良さを感じるようになっていた。いやあ成長したもんだ。それとノーマルなMと進化してから俺の生活は大きく変わった。それが躊躇に表れたのは会社に関してかな。
あれだけ理不尽な物言いをしていた上司に対して、常にストレスを溜めていたが気づけば何も感じなくなっていた。最近ではむしろ居心地が良いくらいに思えてくる。いつか絶対に殺してやろうと物騒な思いを抱いていたのにね……自分で言うのも変な話だけど、Mになってからの心情の変化には驚くばかりだ。勿論、良い意味で。
今ならパワハラ、セクハラ、モラハラなんて怖くない。どんなハラスメント行為でもドンと来い‼︎ いやむしろ来てくださいグヘヘェ。
とまで思う始末。
最近はそんな自分が偶に恐ろしくなってしまう。だがもう誰にも俺を止められはしない。恋煩いを発症した少年少女のように、ドMへの階段を駆け上がることに全力な俺を止めるなんてことは決して出来ないのだ‼︎
ん? そんな甘酸っぱい青春とおまえの歪んだ性癖を一緒にすんなって? いや、俺からしたら同じようなもんだよ。価値観の相違ってやつかな。まあそんなことは置いて。
この時点で会社で俺が抱えていた問題はなくなったと見ていい。なんせ仕事が遅くて怒鳴られようが陰湿な悪戯をされようが無駄なサービス残業を入れられようが皆の前で公開処刑されようが心は雲一つない青天のように晴れやかなまま。ストレスフリーとはまさにこのこと。この調子で自分を改造していこうと改めて思えた。
とはいえ俺はまだノーマルなMに足を踏み入れた程度の若輩者に変わりない。むしろようやくスタートラインに立ったばかり。目指すはさらなる高みだ。
だがここから先の領域に踏み込むには、そろそろ著書の力や独学だけじゃ無理に思えてきた。最近は伸び悩んで焦りが生じるばかりだし。まあその歯痒い感情も自分を気持ちよくさせるスパイスみたいなものに昇華してるから別にいいんだけどさ。
とはいえMへ進化したことにより芽生えたプライドが、この成長の停滞を許してくれないらしい。おまえはもっと上へ行ける! いや、行け‼︎ と強く語りかけてくるんだ。こんなところで立ち止まっているんじゃないぞ、と。
どうにか良い方法がないかと思考を巡らし、次の段階に進むため夜の街に飛び出すことにした。目的地は『ドエムズ倶楽部』と言う一部の界隈では知らない者がいないほどの超有名なアダルトなお店。まあ有り体に言ってしまうとSMクラブである。
そこは本場の環境と言うべき場所であり、俺のMレベルを段違いに上げてくれた。ドMとしての心得、隠れドSの見抜き方、激しいプレイに耐えられる苦痛耐性と苦痛変換などなど様々なことを学んだ。
そして時が経ち。
いつしか俺のことを世界一のドMや最強すぎるマゾヒストなんて呼ばれるようになっていた。そんな並ぶことのないドMな俺の順風満帆な人生だったが突然終わりが来た。
それは、いつものようにお気に入りのSMクラブに向かおうとした横断歩道での出来事だった。
サラっと言うけど信号を無視したトラックが突っ込んできたんだ。だがその時は俺は避けられる位置にいたので全く問題はなかったわけだが……トラックに腰を抜かした小さな女の子が視界に入ってしまった。気づけば身体が動いていたよ。その女の子を全力で突き飛ばしてトラックの直線上から外しーーまああとはお察しの通り。
まさか自分がこんなことを行動に出るとは思いもしなかった。決してトラックにぶっ飛ばされたらどれほどの苦痛を得られるのだろうかと思って飛び出したわけじゃない。子供の命より、自分の性癖を優先するほど腐っちゃいない。ドMといえど良心ってやつが僅かながら存在する。俺ーー板井野喜望のドM秩序にかけてそれだけは言っておく。
とまあそんな感じで死んだーー
「な、なんでこんな雪山に赤ん坊が……⁉︎ とにかく助けないと‼︎」
ーーはずなんだけど……。
なんか分からないけど俺生きてるっぽい。しかもなぜか赤ちゃんになってるっていうおまけ付きで。
とりあえず言わせてもらうと。
ここ寒すぎて死にそう。手足ヤバい、カチンコチンで凍傷半端ない。吹き荒れる吹雪が身体全体を攻撃してくるみたいで相当しんどいし、めちゃ痛い……まあでもめちゃ気持ちいい、いいぞもっとやれ雪山ーー
あ、でももう限界かも……。
と、ドMを発揮させたのを最後に意識が落ちるのであった。
ありがとうございましたー