03
ブックマーク、ありがとうございます(*´▽`*)
身体を起こすと、景色も違って見える。
横たわっていた時、仰向けだった時に比べて、より一層、わたしが今、森の中にいることを実感できた。
「……」
さて、長い時間戦ってようやく上体を起こすことに成功した。とはいえ、両手をついた状態でやっと……なのである。このまま両手のどちらかの力を抜いたり、抜けたりするようなら、背中から倒れて仰向け状態に逆戻りしてしまうことだろう。
肘が折れてしまわぬよう気をつけつつ、わたしは上体を捻られるか試してみる。
瞬間――、なんだか脇腹のあたりが少し暖かくなった気がした。
(え、なに……?)
何故だろう。
捻ろうと思ったわたしの意志に付随するように――脇腹がほんの少しだけだけど……軽くなった気がした。痛覚が僅かに遠くなり、代わりにそこがわたしの身体の一部であると分かる程度に感覚が戻ってきた。
疑問に思いつつも、その感覚に従ってわたしは身を半身だけ捩る。
痛みはある。あるけど……マシだ。それに力もちゃんと入った。見た目はそこら辺に転がっている枯れ枝に擬態できそうなぐらいしわがれているというのに、それでも微かに残る神経、骨、筋肉がわたしの指示に従って動いてくれた。
さっきまでは、わたしの神経は全て痛覚に支配されていて、正直「力を入れる」という日常的な感覚すら覚束ない。さっき上体を起こした際だって、視界の中に「地面について踏ん張る腕」が映ったからこそ「ああ、今わたしは力を入れてるんだ」と認識できただけで、感覚としては痛みしかなかったのだ。
だけど、今の脇腹は違う。
確かに、わたしの「支配下」に置かれていることを実感できた。
ほんの僅かだけれども……健康に体を動かせていたころみたいに、わたしの思い通りに動いてくれるような――そんな感覚が。
(よ、良く分からないけど……、これな、らっ!)
わたしは完全に身を捩って、身体を反転させた。
さっきまでは腕を背中よりの地面につけていた状態だったけど、今度は四つん這いに近い体勢へと持ってこれた。
(や、やったわ! こ、これなら……這いながら前に進める!)
反転した際に強く片腕を地面についたため、嫌な鈍痛が再び走ったが、今はそんなことよりも喜びの方が勝っていた。
健常体なら、一秒足らずで意識もせずにできる動作一つが、ここまで時間と労力、痛みを伴ってしまうとは……我ながら、本当に今の自分は悲惨な状態であると再認識できた。
匍匐前進でとりあえず、近くの樹木の根元まで移動しようと肘に力を入れる。
生まれて初めての匍匐前進だ。家庭教師から教わった騎士や軍に関わる話の中で、こうやって戦時中は移動することがあるって話は聞いたことがあるけど、まさか自分が実践するような日が来るとは思わなかった。
伯爵家に住まう令嬢として、こんなはしたない格好は叱責モノだけど……今は親から棄てられたただの廃棄令嬢だもの。別に気することはないと思うと同時に、令嬢としての生活と無意識に比較する自分は、まだあの生活に未練でもあるのかと、思わず自嘲してしまった。
もっとも自嘲、といっても顔の皮膚や筋肉は彫刻のようにピクリとも動かないので、心の中で、ということになってしまうけれど。
何度か、ズリズリッと肘を動かしはするものの、わたしの体は微塵も前に進まなかった。
「……」
まず上体を起こすことに全精力を使い果たしたのか、枝のような腕はプルプル震えるだけで、激痛と共に動かすことは可能であっても、そこにうつ伏せに近いわたしを這わせるだけの力は残っていなかった。
同時に、地面は木々から離れて地に溜まっている、落ち葉の絨毯だ。わたしの肘の動きに合わせて、地面に積もる落ち葉がずれるだけで、滑る一方だった。
つまり、今のわたしがこの場を移動する手立ては……無くなったということ。
(が、頑張って……体の向きを、変えたのに……)
気付けば機能を失いかけている両目は、色を失っていた。さっきまでは口にした葉の瑞々しさを視認できる程度には色があったというのに、今はほぼ白黒風景だ。そんなわたしの視界を、さらに絶望と言う暗い色が上塗りされていくようだった。
古ぼけて、ひび割れた硝子を通して視ているような視界に辛うじて映る落ち葉を見下ろしながら、わたしは大きく項垂れた。項垂れるだけで後頭部から背骨を通って全身に痛みが入るものだから、もう本当にこの身体はどうにもならない。
「…………、……?」
ふと。
わたしの煤けた視界に、一つの色が見えた。
橙色の温かい色。
遠くにも薄っすらと見え、それはわたしの手元にも落ちていた。
顎を落とし、わたしはまじまじとその正体を確認する。
(…………葉っぱ? ただの……落ち葉だと、思うけど……)
いや、良く見たら……これは、さっきわたしが口にした葉だ。
景色が色あせてしまったため、一瞬、同一な物と脳が理解できなかったが、この形や葉脈は同じだと今なら分かる。
(でも……何で、色が……?)
本能だった。
わたしは疑問に感じる思考とは裏腹に、気づけばその葉を再び口にしていた。
虫食いがあるかなとか、鳥の糞が付着してないかなとか、ありきたりな確認すらせずに、わたしは一心不乱に口に葉を押し込んだ。
そうしながらも……わたしの頭の中は疑問だらけだ。
なんでこんなことをしているのか、さっぱり分からない。まるで脳と体が切り離されたかのような、不思議な感覚。いっそのこと痛覚もどっかに切り離してほしいぐらいだけど、それは律儀に未だにわたしを苦しめている。
同じ葉は至る所に落ちているようで、それらは揃って橙色の光をうっすらと放っていた。
きっと、わたしはこの葉の元である大樹の下にいるのだろう。
ぎこちない動きながらも、わたしは手が届く範囲の同じ葉をかき集め、それを口に運ぶ。
「……ぁ……ぎ、ぁ…………ぁ」
喉奥から意味を持たない空気音が漏れるが、気にせずに葉を咀嚼する。
唾液がわかず、舌は乾燥し、咽頭から食道にかけても水分が抜け、狭くなっている。
咀嚼はできても、それを嚥下するだけの力がこの体に残っていないのだろう。最初の一枚を喉奥まで飲み込めたのは、仰向けだったからなのかもしれない。うつ伏せになり、嚥下機能が著しく低下しているわたしは何度も口からボロボロと葉の残骸を零しながらも、何とかして少量でも取り込もうと、再び口の中に指ごと押し込む。
(……今のわたしって……外から見たら、化け物みたい、なんだろうなぁ……)
人も寄りつかなさそうな木々の中で、老木のような存在が葉をかき集めて食す様子なんて……想像しただけで身震いしてしまいそうだ。
それでも止めない。
まるで、これが……わたしの生きるために、残された道なのだと――そう、本能が囁くから。
気付けば、視界に映り、手が届く範囲にある同様の葉は全て回収してしまったようだ。
顎下には零した葉の残骸がたくさん落ちていると思うけど、不思議とそれらは既に色を失っており、地面に同化しているので、わたしの目にはどれが残骸なのか見極めができない状態だった。
(………………?)
なんだろう。
身体が温かい。
まるで……まるで、先ほどの脇腹に起きた現象のように――今度はそれが全身に対して起こっている……そんな気がした。
「……ぁー……ぁぁ、ぁ……」
不気味な声を吐き出しながら、わたしは右腕を動かした。
……痛みはある。
でも、数分前に比べれば……断然、痛みは引いていた。
それでも普段のわたしであれば、もんどりうつレベルの痛みだと思うけれど……先刻までの激痛と絶望のセットと並べてみてみれば――今のわたしの状態は、我慢できる痛みと……そして微かに輝く希望の光を見た気がした。
(まさか……この、葉は)
わたしは、匍匐前進した。
先ほどまで地面に積もった葉を掻き分けることしかできなかった脆弱な存在だったというのに、今はきちんと土に手をつけ、グッと力を込めて前に進んでいる。
そして少し先にある、やはり橙色の光を放つ葉を掴み、迷いなく口にする。
――分かる。
誰に教えられたでもなく、わたしの中にある「何か」が教えてくれる。
――これは痛み止めだ。
正確に言えば、痛み止めの成分にあたる要素が、この葉には含まれている。
わたしはそれを食し、この身体が「理解」したのだ。
故に……この割れた硝子球のような両目でも、しっかりとその存在を「色」として見極めることができた。
(これは……なに? わたしは……どうしちゃったの……?)
それは愚問、なのだろう。
常識という枠に囚われたわたしの「理性」が、無意識に非現実を拒もうとするために生じた疑問。
でも、その疑問を愚問として捨ててしまえば、きっとわたしは本能だけで生きる獣になってしまうだろう。
だから、わたしは答えが出ないと分かっている疑問を自分に投げかける。わたし、という個性を見失わないように。同時に――本能が教えてくれる、この特異な現象を理解しようと努力する。未知も定義づけしてしまえば、既知となる。既知となれば、それはわたしの常識の一部となり、受け入れることができる。
――咀嚼する。
とりあえず……わたしは口にすることで、その薬効を理解し、色で判別することができる。そして、体内に取り込んだ成分を自身に適応することが可能……ということにしておく。
――咀嚼する。
他の植物も……そうなんだろうか。試してみたい気持ちはあるけれど、今は何よりもこの状況を打破することが先決だ。
――咀嚼する。
痛みさえある程度引けば、活動範囲が広がるのは間違いない。
まず、動けるようになること。
それが何よりも大事だ。
動けなければ、何も始まらない。
始まったところで、その先には絶望しかないのかもしれないけれど……動かなければ、始まりすらしないのだから、やっぱりわたしは動かなくてはならない。
「………………ぁー……」
そして、何枚の葉をこの喉に通したか分からなくなるころには、わたしは何とか立ち上がることに成功していたのであった。