02
――ここはどこ?
という問いは馬鹿だと言われても仕方がない。
どこと問えば、十人中十人が「森の中だ」と答えるだろう。わたしもそう答える。
鬱蒼と生い茂る木々。
わたしはそんな木々たちに囲まれるような隙間におさまっていた。
立ち上がることはおろか、顔の向きさえ変えるのが大変な状態だというのに、わたしは周囲の状況を判断せざるを得ない環境へと放り出されてしまったようだ。
「…………、…………っ」
必死に骨と皮と血管だけの腕を地面につき、身体の向きを変える――つもりが、横向きから仰向けに変えるのが精一杯だった。
木々がわたしを見下ろすように天に伸びていた。
乾いた眼球は左右に動かすだけで、ゾリッゾリッ、と奇妙な感触が耳奥から響いてくる。
きっと……硬質化した眼球と眼窩を擦る音なんだろうけど……外から見てどういう風になっているかは想像したくない。
今の姿で夜道を歩けば、わたしと出会う誰もが悲鳴を上げることだろう。でも驚かれてもいいから、今は出歩く程度の筋力と体力が欲しい。
仰向けになって初めて、わたしは自分が何処にいるのか理解した。
少し遠目に、森林の高さよりも上に伸びる白い壁が見えた。
あれは王都の外壁だ。
等間隔に、大きな国家の紋様が刻まれているので、間違いない。
つまり……ここは、王都の外の大森林。
そこまで考えが及べば、自然とわたしは自分がどういう状況なのか理解できた。
(そっか…………わたし、捨てられちゃったんだ)
涙はでない。
出したいけど、この乾ききった体に涙を流すほどの僅かな水分も体力も残っていない。何もかもが出涸らし状態なのだ。
いっそのこと、あまりにも惨めな自分を嗤ってやりたかったけど、やっぱりそれすらも出来なかった。
誰も声をかけてくれない、誰も気にかけてくれない、誰も慰めてくれない、風にそよがれた葉の擦れる音だけが歓迎してくれるこの場所で、わたしの心はじくじくと融解していくような感覚だけが流れていった。
(このまま、死ねる、のかな……)
痛みは常にわたしの神経を責め立てる。
まるで神経の一本一本を丁寧にナイフで切られているような鋭利な痛みの後に、その切った神経を鈍器で潰すかのような激しい鈍痛が交互にやってくる。
頭がどうにかなりそうだ。
精神は擦り切れ、身体は既に朽ち果てるのを待つ老木のようだ。
だというのに、わたしはまだ死んでいない。
崩王病は罹患後、最大でも四日目で死に至る重病だ。
どのくらいこの森で気を失っていたか分からないけど、もう死んでもおかしくない時間は経っていると思う。
それに……たぶん、四日まで持った人はきっと親しい人の献身的な介護や激励があったからこそ、そこまで耐えられたのではないかと思う。
だって発症して一日目で既に、わたしは絶望と激痛がないまぜになり、死んで楽になりたいと思ってしまえるほどの状態だったからだ。一人でいたら……縋るものが何もなければ、間違いなく、すぐにその命を手放したくなるだろう。
わたしは……死んで楽になりたい、と思う気持ちと同じくらい、なんでだろうか……生きたいという気持ちがあったためか、何とか堪えたのかもしれない。
(でも……わたしの最期は誰にも看取られずに終わる、のね……。せめて、野生の動物さんでもいいから、わたしの最期を看取ってほしい……。わたしはちゃんと……今、この時を、生きていたんだよ、ってことを……誰かに知ってほしい)
呼吸は浅く、肺がきちんと空気を循環しているかどうかも怪しい。
木々の合間から見える空は晴天だけど、もしこれが雨だったら、わたしは崩王病で死ぬよりも先に、雨水を避けることも吐き出すこともできずに、溺れ死んでいたかもしれない。
それを不幸中の幸い、とは思えない。
だって今に勝る不幸は無いし、この不幸の最中にそれ以下の幸せがいくら積もろうと、結果は変わらないんだから。
「……」
しばらく、ぼうっと空を眺めた。
時折、鳥の黒い影が上空を通り過ぎる。
風に揺らされる木々の囁きが聞こえる。
死体と勘違いしたのか、羽虫が頬に止まることもあったが、わたしが存命であると分かったのか、舌打ちの幻聴が聞こえるかのように、すぐに飛び立っていった。
そんな時間がただ過ぎていく。
普段のわたしなら取り乱したり、怖がったりと……忙しく感情が揺れ動いていたはずだ。
でも、今は何も感じない。
全てが他人事のように、わたしという通過点に触れては通り過ぎていく事象に過ぎなかった。
ふと――ちょうどわたしの口元に、一枚の葉が落ちてきた。
綺麗な葉脈に、瑞々しい緑、虫食いもないような形の整った葉だった。
人の生存本能とは恐ろしいもので、文明化した人間社会では「食べ物」として認識しないそれすらも、栄養を求める体は求めようとするようだ。
わたしは気づけば――無意識に、その葉を咀嚼していた。
顎や舌がまだ動いたことにもビックリだけど、その反射とも言える行為に驚いた。
(に、にがっ……お、美味しくない……)
味覚もとうに壊れたと思っていたのに、その葉の苦みは正確にわたしの舌から脳へと伝達された。
同時に、じわり、と何かがわたしの中で広がるのを感じた。
(……なに?)
それが何なのかは分からない。
けれども……わたしにとって「大事な何か」ということだけは理解できた。
言葉では形容できない、本能に奔る訴えだ。
もう何を信じたらいいか分からないこの世界。
この後、どう死を迎えるまで過ごし、気持ちを整理したらいいかも分からない現状。
このまま横たわって呆然としても、心は晴れないし、最後の瞬間まで絶望を頂き続けるだけの無為な時間になってしまうだろう。
だったら……この良く分からない衝動に従ってみるのも、悪くないのかもしれない。
少なくとも、目標を持って動く方が気晴らしになりそうだ。その過程でぽっくり死んでしまっても、ここでジッとしたまま死ぬよりはマシかもしれない。
わたしは全力で細い枝のような手を落ち葉が積もる地面につけ、起き上がろうとする。
骨が折れたんじゃないかと思うほど、腕に激痛が走り、何度も力が抜けてわたしは地面に頬をつける。
そんなわたしを嘲笑うかのように、しわがれた手の甲の上を蟻が行進していく。うん、嘲笑じゃなくて、応援してくれてるんだと思うことにしよう。
「……! ……! っ…………っ」
縮んだ肺に残っていた空気を断続的に吐き出しながら、それでも諦めずに、まずは上半身を持ちあげることを目標に、何度も何度も……力を入れては、倒れ込む行為を繰り返す。
(ぐぅ…………い、痛いっ……でも、ぁ……ま、負けないんだもんっ!)
絶望するなら、前のめりで倒れ込んでから。
自分の末路に自棄になるのも、後ろ向きより前向きの方がやる気になるってものだ。そのぐらいの気概で挑んでやる、と痩せ我慢と仮初の強気を盾に、わたしは踏ん張る。
ミシミシ、と腕から嫌な音が聞こえる。
その度に元々気絶するほどの激痛をまとう全身に、新たな刺激を与えてくる。
いっそのこと、神経が麻痺してくれればいいのだが、なぜかそこはわたしの身体も譲らず、今も痛覚全開でわたしを苦しませてくれる。
地道に同じ行動を繰り返し……どのくらい時間が経ったか分からないけど、太陽が真上に移動したことを考えるに、朝から昼まで、わたしは「上体を起き上がらせる」だけの行為に挑戦していたようだ。
健康だった日々を思い返すと、本当に……悲しくなってくる。
でも、頑張った甲斐は実り、わたしはようやく地面に手をつきながらも上体を起こすことに成功したのだった。