第五十話 侵入者、狂気の道化師
休息をとるという行為は肉体的、精神的な疲れを取る為に心身を休める事である。シモン達がいるアストラル界では肉体という枷がなく疲れるという事がない。つまり永続的に行動する事が可能なのである。昼は形意拳、夜は魔術の修行とほぼ修行漬けになったとしても全く疲れる事がない。それ故一ヵ月という期間で―――
三体式の構えを取るルーナの傍らに立つシモンが声を上げる。
「劈拳!!」
ルーナは前に伸ばしている左腕を翻し真上に突き上げる。その時右拳は左肘に添える。次につきあがた左拳を腰に引き右拳突き上げ拳を開き掌を下に向け振り下ろす。体の各所の動きが連動し収束した力が右掌に集まり風を起こす。それを見てシモンは満足げに頷き次の動作を促した。
「鑚拳!!」
ルーナは再度三体式の構えを取り鑚拳を行い……。
形意拳の基本である五行拳を一通り行いルーナは三体式の構えを解き、シモンを見る。
「どうかな……?」
ルーナは不安げに聞く。ここ一ヵ月、形意拳の修行は五行拳のみだったのだ。シモンが満足するレベルに行かなければまた、延々と五行拳だけを行わされてしまう。それは変化というものがなく苦痛としか言いようがなかった。それ故の不安だった。
シモンはしばらく目を閉じ考え込む。黙り込まれると不安が増長されルーナは息をするのも忘れシモンが答えるのを待つ。
シモンが目を開くと右拳を前に突き出し親指を立てる。
「イイネッ!!」
ルーナの表情がパァッと明るくなる。
「体の連動に淀みがなく拳にキチンと力が乗っている。五行拳に関しては言う事ない」
シモンのお墨付きにルーナは安堵の息を吐く。
「……これで延々と五行拳行う事は無くなる」
「これから十二形拳を学び多角面的な攻撃方法を学ぶ訳だけど……五行拳でも十分に戦う事が出来る。初期の形意拳は五行拳しかなく十二形拳は後に発展して出来たものなんだ。十二形拳を学ぶ前に少し散打でもやって五行拳の有用性をみせようか。ルーナ、いいかな?」
それに対しルーナは首を傾げる。
「散打って何?」
散打とは中国武術における組手、スパーリング、試合にあたる行為をさす言葉であることを説明する。それを聞いてルーナは大きく頷く。
「ウン、やろう! やってみよう!」
ルーナは子供のように喜び、三体式の構えを取った。自分の学んだ技を試すチャンスなのだ。これを喜ばない筈がない。
ルーナの喜びようにシモンは呆れた様に溜め息をつきつつも三体式の構えを取る。その構えを見たルーナは微かに身震いした。この一ヵ月、三体式は最も多く取った構えなのだ。だからこそ自分とシモンの三体式の構えが同じようで違う事がよく分かる。力みがなく重心がすとんと安定した感じ。空気すらも変わったような感じる。とても十歳の少年が出せる空気ではなかった。
「? どうしたの、ルーナ?」
シモンは自分が醸し出す雰囲気にルーナが飲まれている事に気がついていなかった。その呑気さにルーナは少し腹が立った。それで体の力が抜け動けるようになったルーナは三体式の構えから崩拳を放つ。体全身が連動したその崩拳は風の如く最速の物だった。だがルーナの疾風はシモンの流水に押し流される。シモンは慌てることなく前に伸ばしていた左手でルーナの拳を下方に叩き落とし下から捩じり上げるように右拳を突き上げルーナの顎にあたる直前で止める。ルーナの崩拳を鑚拳で返したのだ。
五行拳はその名の通り火木土金水、五行の属性を有しており崩拳は風、鑚拳は水の属性である。
顎に突き付けられたシモンの右拳に息を飲むルーナを尻目にシモンが後方に下がり距離を取り再び三体式の構えを取る。
「さあ、ドンドンやろう。出ないと五行拳の有用性が分からないよ」
ルーナは両頬を叩いて気合を入れると三体式の構えを取りシモンに再び立ち向かうが……。
数分後、ルーナは大の字で倒れ荒い息を吐く。
「ルーナ、この世界では疲れたというのは気のせいというか気の持ちようだよ。ほら、立って」
シモンが立つように即すがルーナは寝っ転がったまま起き上がろうとしない。
「お兄ちゃんから学んだ技がまったく通用しなかった……」
ルーナが繰り出す技はことごとくシモンに防がれ、同時に反撃される。防御と攻撃が一対になっており無駄が全くない。こうやって見ると自分が今だ形意拳の入り口に立っているだけなのだと思い知らされ落ち込んでしまう。
「当たり前だよ。こちとら形意拳を学んで二十年、三十年選手なんだ。それを僅かひと月で追いつかれたらこっちが落ち込むよ」
「ん? 二十年、三十年? 年齢と合ってなくない?」
シモンは思わず口を押える。
(前世と今世の年数を合わせて行ってしまった)
ルーナは上半身を起こし、疑惑の目でシモンを見る。気まずい沈黙が続く事数秒、ルーナが口を開く。
「お兄ちゃん……昔からこの世界で修行してたんでしょう。便利だとは思うけど何というか……不健康だよ」
「へっ?」
「こういう世界に入り浸ると精神の成長に肉体が追い付かなくなるんじゃないかな?」
「えっ?」
「お兄ちゃんって見た目子供だけど中身は成熟してるとは思ってたけどそういう事だったんだね」
ルーナは自分で勝手に納得してくれたのでシモンはあえて何も言わなかった。自分がある神の手で転生してきた存在であるという事は誰にも、特にカルヴァンには絶対にばれてはならない。彼には無駄な思考というものは一切しない。僅かでも狂神側に寝返る可能性があると分かれば即首を狩られる。その光景にシモンはゾッとする。
「お兄ちゃん?」
「いや、大丈夫。それより……」
ルーナを立ち上がらせて修行の再開を始めようとした時だった。
―――ドンッ!!!
と空間が大地が激しく振動した。
「ヒッ!? なっ何、お兄ちゃん!?」
ルーナは揺れる中何とか立ち上がりシモンを見る。シモンには驚愕の表情が浮かんでいる。今いるこのアストラル界の主はシモンである。環境の制御もシモンが行っておりそう思わなければ地震など起こるはずもない。それが起こるという事は……。
「……ルーナ、注意して。敵が来る!」
「敵!?」
警戒する二人の目の前の空間に変化が起こった。空間に縦線が走ったのだ。縦線の内側から二本の手が伸び縁を掴み押し広げる。空間の穴からそれが現れシモンは驚愕した。現れたのはこの世界では存在するはずがない、その文化がこの世界には存在しない為、誰もその扮装をするはずがないのである。なのにその扮装をして現れたという事は……。
「何者だ……答えろ、道化師!!」
眼の前に現れた存在―――道化師は口角を吊り上げニィッと笑う。道化師とは元々滑稽な恰好や言動、行動で他人を楽しませる者なのだが目の前にいる者はそんな存在ではない。目の前にいるこの存在は形のない狂気人の形に押し込めた、まさに狂気の道化師だった。
狂気の道化師から放たれる狂気と己のうちから湧き上がる恐怖を押し込める為にシモンは三体式の構えを取る。シモンの三体期の構えを見た狂気の道化師は更に笑みを深める。右手に闇が集中が形を成す。出来たのはよく切れそうな肉切り包丁―――ファルシオンだった。狂気の道化師は道化師らしく滑稽な動作でシモンに接近しファルシオンを振り下ろした。




