第百四十六話 狂神からの解放、同調開始
ルーナ・ノワと偽ルーナ・ノワは全く同じ三体式の構えを取る。鏡映しのように同じ構えを取る二体の右拳には正反対の力が収束していた。魔術力と狂神の力、収束された力が打ち込まれれば必滅は必然。お互いの敵を倒す未来を実現すべく距離を縮めお互いの攻撃が入る間合い入ると同時に呼気を吐き右拳―――崩拳を繰り出した。
全てを清め浄化する白き流星となったルーナ・ノワの右拳、全てを穢し飲み込む黒き流星となった偽ルーナ・ノワの右拳。互いの拳がぶつかりせめぎ合う。そしてルーナ・ノワの右拳が外側に軌道が逸れ、偽ルーナ・ノワの拳が内側に入り込む。その先にあるのはルーナ・ノワの肉体。全ての力を収束した拳が逸らされたとなるとルーナ・ノワの敗北は必然となった。魔術力と狂神の力、互いの力が互角であるのなら勝負を決めるのは技量の差。シモンの技術を再現出来る狂神に軍配が上がった。
自分が滅ぼされる未来を覆すべくルーナ・ノワは抵抗する。ルーナ・ノワは崩拳を受ける場所に対し局所的に障壁を展開する。鉄壁の防御力を誇る不可視の障壁はいともたやすく突破されてしまう。全てを穢し飲み込む闇に対し障壁など紙にも等しいものだった。直接肉体を直接守る鉄の装甲など紙以下、偽ルーナ・ノワの放つ崩拳には何の意味をなさない。最早なす術がないその状態でルーナ・ノワの精神は研ぎ澄まされた。迫りくる偽ルーナ・ノワの右拳が緩慢になり目で追う事が出来た。
(……どうしよう。あの崩拳を受ければ今のこの体でも自己修復が間に合わない。魔術を行うにしても時間がない。今は精神が特殊な状態になっているだけで体がついてこない、避ける事が出来ない、成す術無し、どうすればいい?)
ルーナ・ノワは必死に考えを巡らせるが打開できるアイディアは出なかった。回避する事は出来ない。
(……これはダメだ、避けられない……お兄ちゃん、ゴメン……)
偽ルーナ・ノワの中にいるであろう狂神に憑りつかれ敵となっているシモンに謝りながら体の力を抜いた。攻撃、防御、回避全てを放棄したルーナ・ノワに杭が如く偽ルーナ・ノワの崩拳が腹部に打ち込まれた。装甲は一瞬で破壊されその下の肉体に右拳が届き威力が浸透する。その威力はルーナ・ノワの全身に浸透し体も仮面の中の聖霊石も破壊されるはずだった。そうなる未来を見えてしまっただけに自分の体を徹った奇妙な感触に困惑し自分の体が今だあり続けている事に驚愕し戦いを忘れ動きを止めてしまった。
偽ルーナ・ノワもまた困惑していた。憑りついた個体名シモンの技術を完璧に模倣、それに己の力を乗せた崩拳は自分たちを模倣した偽の神を完璧に滅ぼすはずだったのに今だにその存在を維持している。その事実と右拳に残る奇妙な感触、これは何だという疑問が頭を満たし戦いを忘れ動きを止めてしまった。
偽ルーナ・ノワの崩拳を受けたというのに何故ルーナ・ノワが生存しているのか? それには理由がある。それが体の力を抜いたという事である。自分に迫る攻撃に対し抗う事も耐える事もせずただ全身の力を抜いた。それが思いもよらない奇跡を生んだのだ。抗う事を止めた肉体に崩拳の威力は複雑怪奇に滑り込み、分散、透過し外へと排出されたのだ。力を抜いたという事が思いもよらない回避方法となったのだった。
お互いが思いもよらない結果に驚愕、困惑し心に空白が出来てしまい隙だらけだった。この空白から抜け出し動き出した者が勝者となる。心の空白から脱し動き出しだしたのは……。
「……ハァァァァァ」
ルーナ・ノワだった。動揺する事に慣れていない狂神に対し、人と感性が近いルーナ・ノワの方が回復が早かったのだ。体の周りに障壁を張りそれを広げて偽ルーナ・ノワを引きはがす。距離が取れたところで三体式の構えを取り矢の様な踏み込みで偽ルーナ・ノワに迫った。
障壁によって引きはがされた事で偽ルーナ・ノワは意識を取り戻したが意識がまだ戦闘に切り替わっていない。それではルーナ・ノワから逃げる事が出来ない。間合いに入ったルーナ・ノワは両拳を腹部で合わせた。そのまま捩じる様に突き上げ翻しつつ拳開き指先を突き立て突いた。強い踏み込み、拳を捩じる事による螺旋の力、突きの速さ、そして指先に集中させた魔術力、これらが合わさる事により偽ルーナ・ノワの装甲を破壊、肉体を穿ちその奥にいる狂魔人シモンを掴み引きずり出した。ルーナ・ノワは十二形拳の一つ虎形拳を放っていた。ルーナ・ノワは偽ルーナ・ノワの十二形拳に翻弄され防戦一方となっていたがただでは転ばなかった。偽ルーナ・ノワの技を見て受けて覚えるみとり稽古を行っていたのだ。十二形拳は基本である五行拳を盛り込んだ応用技である為、五行拳を習得していれば再現は可能なのだ。
狂魔人シモンが引きずり出された事により偽ルーナ・ノワはその姿を維持する事が出来ず塵となって消滅した。
ルーナ・ノワの両手の中で暴れるシモンを力の限り抑えつける。そして両手を掲げ叫んだ。
「カルヴァンの……オジサァァァンッ!!!!」
「アイヨ~ッ」
そんな呑気な声と同時にルーナ・ノワが掲げた両手の真横に二メートルほどの縦一本線が入り楕円形に広がりそこからベネティクト・カルヴァンが顔を出した。
「無事に助け出す事が出来たようだな……ヒック」
カルヴァンが赤ら顔で状況を確認する。
「まだ……無事じゃない……凄い力で暴れてる……このままじゃ逃げられる」
狂魔人シモンは人サイズの狂神、偽ルーナ・ノワが失われたとしても戦闘力は全く損なわれておらず油断は出来なかった。
「それじゃ意味がないな。すぐに取り掛かるとしよう」
そう言うとカルヴァンは懐から一本のナイフを取り出した。
「何その小さなナイフ? 料理用?」
「ああ、待ち時間が長かったからな。適当な街の食堂でメシ食ってサケ飲んでた」
「メシ食ってサケって……こっちは必死だったって言うのに!!」
ルーナ・ノワはカルヴァンを睨みつけるがそんな視線カルヴァンにはどこ吹く風だ。
「まあやる事はやるから」
軽口と同時に右手と持っていたナイフが消えた。
「なっ!?」
カルヴァンが持っているナイフは本人が言う通りなら特別な力を持った物ではない。それなのに狂魔人シモンの顔に装着されている狂神の指を一本また一本と切り落としている。
「そんな早さで切り落として……お兄ちゃんの顔大丈夫なの? 傷一つでもつけたら許せないんだけど」
「そんなヘマはせんよ……よし、指五本切り落とした」
カルヴァンは狂神の手を空中に放り投げさらに右手を走らせる。一瞬でこま切れになり存在を維持出来ず狂神の手は消滅した。
「……これで終わった……って、ウワッ!?」
狂神の手から解放されたはずなのだがシモンは険しい形相でカルヴァンを睨みカルヴァンに噛み付こうとする。カルヴァンは咄嗟に手を引き眉間を指で軽く突いた。それだけでシモンは気を失ってしまった。
「狂神の手から解放されればシモンは元に戻ると思たんだが?」
「お兄ちゃんの体の中にはまだ狂神の力が残留している。それを取り除かないと狂暴になったままだと思う」
「どれくらいで抜けるんだが? 時間がかかるのはちょっとなあ……」
「言ったでしょ。狂神の手を取り除けば後は何とかするからって」
「? 何かいい手があるのか?」
「ウン、だからお願い。お兄ちゃんが気を失っているうちに操縦槽に入れてほしいの」
「操縦槽? ルーナのか? それで一体何をするつもりだ?」
「いいから早くっ!!」
カルヴァンは疑問に思いながらもルーナ・ノワの背後に空間の穴を開け、操縦槽に入るため扉を開けそこに気を失っているシモンを入れ扉を閉めた。
「これでいいか?」
「ありがとう、オジサン。じゃあ始めるよ……同調開始」
ルーナ・ノワはシモンと五感、意識を接続し体全ての接続を開始した。