第百三十六話 どうする?
敵の間合いに入った状態で動きが止まる。これほど危険な行為はない。こちらの攻撃が届くという事は相手にとっても条件は同じなのだから。
狂神が自分の名を呼んだ、それだけの事が衝撃的で身動きが取れなくなったルーナ・ガブリエルに狂神は無造作に右手を伸ばす。ルーナ・ガブリエルの目には狂神の右手が毒蛇の顎に見えた。毒蛇はゆっくりと忍び寄りその顎を大きく開く。そしてルーナカブリエルの頭部を飲み込んだ。
「しまった!!」
狂神の少年の様な小さな手からは想像できない剛力がルーナ・カブリエルの顔面を握り潰そうとする。痛みと己の頭部から引き起こされる嫌な音、そして右手から流れてくる狂神の力の浸食により全身がマヒしていき意識が薄れていく。完全に途切れた時それがルーナ・カブリエル陥落の時、狂神の傀儡となり下がるだろう。
「アアア……ァァアアアアアッ!!!!!!!」
気合と共に五つの魔術中枢を励起し魔術力を全身に漲らせ侵食してくる狂神の力を洗浄し押し流す。麻痺も解け体が動くようになる。だが依然状況は変わらない。狂神の右手はルーナ・カブリエルの顔面から離れていない。その右手は敵の頭蓋を握り潰そうと力が込められている。
「どうして……魔術力に焼かれているはずなのに……」
魔術力は狂神の力とは正反対、この力を受ければ何らかのダメージを受けるはず。だが狂神の右手はダメージを受けている様には見えない。
(このままじゃ……潰される……ならっ!!)
右手から発生する水の剣を掲げそのまま狂神の手に向かって振り下ろす。手の力だけを使った何の術理もない手打ちだけの振り降ろし。これでは狂神の右手はもちろん肉一つ切れはしないだろう。だがこれは魔術により水が凝縮された剣。いわば積乱雲を剣の形になるまで凝縮されたような物、その重さは数万トンとなるというのにその刀身は薄く剃刀の鋭さを備えている。このような密着した状態でも狂神の右手を切り落とせるはずだ。
「これで仕切り直し……」
ルーナ・カブリエルが言葉を発する事が出来たのはここまでだった。狂神の右手から自分を侵食しようとした力とは別の力が叩き込まれたからだ。
(この力は……まさかっ!?)
ここでルーナ・カブリエルの意識は途絶える。ルーナ・カブリエルの頭部は狂神の右手から流し込まれた力によりに内側から破裂したからだ。頭部が無くなったルーナ・カブリエルの体から力が抜ける。水の剣の制御が出来なくなり数万トンもの水が溢れ出すがその勢いだけでは狂神の体を押し流すには至らなかった。
数万トンの水に流され地上に落下するルーナ・カブリエルの体、そして地上からこちらを見上げる人間の姿を一瞥した後、三百六十度全方位を見渡しそしてある方向に飛び去りその姿は見えなくなった。
「ルーナ!? 大丈夫か!?」
地下迷宮体から地上に出てきたファインマンは豪雨と共に地上に落ちてきたルーナ・カブリエルの元に駆け寄る。頭部が消滅したその姿にファインマンは驚愕する。
「頭部がない!? 何かと戦って……敗れたっていうのか!? あの力を用いて破れるなんて……」
ファインマンがそう思うのは当然だ。ファインマンはシモンの召喚魔術により大天使ミカエルをその身に宿し狂神を屠っている。大天使という強力な力を用いて勝てない相手というのは考えられない。
「こんな事が出来る奴は……」
ファインマンが空を見上げるとそこには闇を凝縮して人の形を成した、そうとしか表現出来ない存在が浮いていた。
「あれは……」
ふとファインマンとその人型と目が合った。ファインマンは息を飲んだ。心臓を鷲掴みされたと思えるような衝撃を受ける。全身から嫌な汗が出て止まらないし息が詰まる。それ程のプレッシャーを受け意識を失いかけるがその人型が視線を外した、いや興味が無くなった事によりプレッシャーが感じられなくなったのだ。その途端呼吸が出来るようになり慌てて肺に空気を流し込む。
「ゼェ……ゼエ……助かった……」
膝をつき荒い息をを吐くファインマンが改めて空を見上げると空に浮かぶ人型はその場で三百六十度回転しそしてある方角でピタリッと止まりその方向に飛び去って行った。
「あの方角は……それよりも今は……ルーナ!! しっかりしろ!!」
地面に伏すルーナ・カブリエルの体を揺さぶるとその体から色素が失われ透明な水となって地面を濡らした。そして輝きを失った聖霊石がその場に残っていた。
「聖霊石が光を失っている。まさかルーナ……しっかりしろ!!」
ファインマンは気を失った人を蘇生させるように聖霊石をペシペシと叩く。
「オ、オイ、目を覚ましてくれよ。俺じゃ魔術力なんて使えなんだからよ」
ファインマンの動揺する声に答えるかのように聖霊石が数度点滅しそしてやや弱々しいが光を取り戻した。
「ウウッ……あれ? ファインマンのおじさん……」
人間で言うなら寝ぼけ眼で覚醒したという所だろうか。
「ルーナ、目を覚ましたか。よかった。しかし……何があったんだ? 大天使を宿した状態のお前に勝てる存在なんてそうそういないと思うんだが……もしかしてあの黒いのは狂神だったのか?」
ファインマンの問いにルーナは少し迷うように押し黙りそして重い口を開いた。
「……分からない」
「分からないって戦ったんだ、何か気付いた事はあるんだろう?」
「それはそうなんだけど……あまり言いたくない」
「? 言いたくないってどういう事だ?」
ルーナは答える前にその身を浮かび上がらせこの場から逃げようとする。だが浮かべたのは一瞬ですぐに地面に落ちてしまう。魔術力が枯渇した状態ではその身を飛ばす事は出来ないようだ。身動きが取れないルーナをファインマンが拾い上げ目の前に持っていく。
「何で逃げるんだよ」
「それは……」
逡巡するルーナにファインマンが溜め息をつく。
「言いたくないなら言わなくていいんだが……それは一人で抱え込まなきゃならない秘密なのか? 一人で抱え込んでも出来る事は少ないぞ」
「ウッ……でも……」
「いいから話してみろよ。俺はシモンとルーナには返しきれないほどの恩があるんだ。少しでも恩返しが出来るならどんなことでもやるつもりでいるんだ。だから……話してみろ?」
「……」
ファインマンの真摯な態度にルーナは迷いに迷い数分ほどしてようやく口を開く。
「その前に聞きたいんだけどあれが狂神だったら……倒すの?」
「それは当然だ……俺たちの最大の目的なんだからな? それとも何か、倒すなとでも言うのか?」
「まさにそうなんだよ。あの狂神は倒さないでほしいんだよ」
ファインマンの表情が険しくなり手の中にあるルーナの聖霊石を強く握りしめる。すぐにハッとしてと手からを抜き深呼吸をする。
「……そんな事を言うからには何か理由がるんだな?」
「ウン、あの狂神……狂神でもあるんだけど同時に人間でもあるんだよ」
「人間って……人間の体に狂神が憑りついてるって事か? ……シモンの複製体に取りついた狂神がいたくらいだから人に取りつくのもあり得ないとは言えんが……それだけじゃ倒すなという理由には弱いな」
神殺しは人類を助ける事が目的なのではなく狂神を倒す事が最大の目的なのだ。人の一人、二人犠牲など厭わないのだ。
「……それだけじゃないんだよ、倒さないで欲しいという理由は」
「他に何かあるのか?」
「ウン……あの狂神、魔術力を使ってきたんだよ」
「魔術力って……そんな馬鹿なっ!! 魔術力って狂神が苦手とする力のはずだろ。それを行使してきたって……ちょっと待て、狂神が魔術力を使った……それが狂神が憑りついた人間の能力だとするとそれはつまり……」
「私が言いたい事……分かってくれた。あの狂神に取りつかれた人間ってお兄ちゃんの事なんだよ」
ルーナが狂神の力の浸食を防ぐ為に全身に魔術力を漲らせると今度は魔術力を打ち込みルーナ・カブリエルの頭部を破壊して見せたのだ。魔術力を使う事が出来る人間はこの世で一人しかいない。故にあの狂神に取りつかれた人間がシモンであるとルーナには分かったのだ。
「シモンが狂神に……なんてこった」
ファインマンは右手で顔を抑えながら天を仰ぎ絶望的な声を漏らした。