第百十一話 狂熾天使対偽大天使、一瞬の攻防。
シモンの複製体―――正確には複製体に宿った狂神―――と目が合った。その途端、自分と複製体までの距離はかなりあるというのにひきつけ合い一体化したような奇妙な感覚を感じていた。
(!? 狂神からの攻撃!?)
シモンは咄嗟に空中に五芒星を描く。五芒星は人を魅了、あるいは生き物を呪い殺すという邪眼を防ぐ効果がある。その証拠にシモンが空中に描いた五芒星と不可視の力が反応し紫電を散らす。それと同時に奇妙な感覚は消え失せるが嫌な予感がする。
「ルーナッ!!」
シモンはルーナ・カブリエルを止めようと叫ぶ。だがと時すでに遅し、ルーナ・カブリエルがシモンの複製体に肉薄する。そしてルーナ・カブリエルが弾き飛ばされ地面に叩きつけらた。
「ルーナッ!!」
シモンは地に伏すルーナ・カブリエルに声をかけるが全く答えない。それ所か大天使カブリエルの姿を維持する事が出来ず消滅し、地面に聖霊石が転がった。
シモンの複製体とルーナ・カブリエルの攻防、その結果に至る工程にシモンとファインマンは驚愕していた。
「今のはまさか……形意拳!?」
「狂神が……人間の技を使っただと……」
(この距離ならっ!!)
シモンとの訓練で何度となく行ってきた形意拳の基本五行拳の一つ、崩拳。足の踏み込みから始まりその反動を腰から肩、右拳に収束し放つ。更に大天使カブリエルの水の力を合わせる事により破壊力を増幅させる。この崩拳ならどんな敵でも、それこそ目の前のシモンの複製体も倒せるはずだ。そのはずなのにルーナ・カブリエルは妙な違和感、淀みを感じていた。
(これは……恐怖? 私の……いいや違う、これは私が纏っているカブリエルの殻が感じているものだ)
その一瞬の動揺にシモンの複製体は更に追い打ちをする。すなわちシモンの複製体は笑みを浮かべたのだ。穏やかな菩薩の様な穏やか笑み、この穏やかな笑みがルーナ・カブリエルに更なる動揺を与える。
(お兄ちゃんっ!?)
目の前にいるのはシモンの複製体、本人ではなく敵であるというのに慕っているシモンであるかのように感じてしまったのだ。このような混乱した状態で打ち出された崩拳では赤子ですら殺せない。
動揺するルーナ・カブリエルに対してシモンの複製体は攻撃に転じた。
ルーナ・カブリエルの右拳を左腕で暖簾をくぐるような動作で真下から跳ね上げがら空きになった腹部を右拳で突いた。その途端ルーナ・カブリエルの腹部には爆発が起こったかのような衝撃が発生しゴムまりのように弾き飛ばされ地面に叩きつけられた。
(そんな馬鹿な……あれは形意拳の……炮拳……)
深いダメージを受けたルーナ・カブリエルはルーナ・カブリエルの状態を維持する事が出来ず聖霊石の正体に戻ってしまった。
形意拳の基本である五行拳、五行とつくだけあったその五つの技には火木土金水の
五行が当てはめられている。崩拳は木行、炮拳は火行が当てはめられている。そして五行相克では火は木に克つとされている。この条件に当てはめるならルーナ・カブリエルとシモンの複製体の攻防は火克木の相克が成立したと言える。
「僕が時間を稼ぎます。ファインマンさんはルーナをお願いしますっ!!」
シモンは三体式の構えを取る。それを見たシモンの複製体もまた三体式の構えを取った。それを見たシモンは驚かずにはいられない。自分の血液を元に生み出された複製体なのだから似ているのは当然だが、複製体が取る三体式は本体であるシモンと全く同じ、生まれたばかりだというのに年季が感じられる構えだった。
(これは一体? 狂神とはいえ突然こんな事が出来るものなのか? ……先程の奇妙な感覚は狂神固有の能力? それによって僕の……)
そこでシモンの思考は中断された。ファインマンが軽くシモンの頭を叩いたからだ。
「時間稼ぎをするのは俺の仕事。お前がルーナの様子を見てこい」
「でもファインマンさん、あれは……」
「もしルーナに何かあったらそれを治せるのはお前しかいないんだ。それが共倒れなんて事になったら目も当たられない。いいから早く行けっ!!」
シモンはしばらく悩みゆっくりと三体式の構えを解く。
「……分かりました、お願いします。でも無理はしないでください」
「おお、任せろ」
シモンはファインマンの声を背にルーナの聖霊石の元に駆け寄った。そして聖霊石に手をかざし目を閉じる。四拍呼吸を行い、励起した魔術力を聖霊石に流す。
(ルーナ!! ルーナ!!)
魔術力に自分の意志を籠めルーナに呼び掛ける。そして声が返ってきた。返ってきたのだが……。
(ウーン……お兄ちゃん、そんな事しちゃダメだよ~……エッチ……)
ルーナはどうやら呑気に夢を見ているようだ。シモンは眼を見開くと親指に中指を押し当て力を籠めて思いっきり弾いた。いわゆるデコピンなのだが魔術力により威力が強化されている為その破壊力は計り知れない。
「イッタァ~ッ!? 何するのっ!?」
聖霊石からルーナの声が漏れる。デコピンの痛みで目が覚めたようだ。
「呑気に何の夢を見てるんだ!!」
「ナニってねえ。そんな事を聞くなんて……お兄ちゃんの……エッチ」
シモンは無言で親指に中指を当てて力を籠める。
「ちょっと待って!! ゴメンナサイ!! ちょっとした冗談だから許して!!」
「……今度下らないこと言ったらデコピン十連発だから……でどこか具合悪い所はない? あるんなら治癒魔術行うけど?」
「それは大丈夫。カブリエルが身代わりになってくれたから」
「それはカブリエル自らの判断?」
「ウン……」
ルーナの言葉にシモンは驚く。魔術によって呼び出された天使というのは魔術師の意志力によって作り出された天使の鋳型に霊的なエネルギーが注入された物であり、そこに自分の意志という物はないはずだ。身代わりになる何て出来るはずがない。この話が本当だとするならばルーナの魔術はシモンが知ってる魔術を超越しつつあるという事だ。
「まあ、この話は置いといて……」
「何の事?」
「いいから。それよりもう一度カブリエルを召喚して身に纏う事は出来る?」
「ウ~ン……ちょっと無理。疑似魔術中枢はうまく励起してくれない。カブリエルが身代わりになってくれたとはいえ少しはダメージがあるみたい。しばらく休めば回復すると思うけど……」
「そっか、分かった。少し揺れるかもしれないけどここで休んでいて」
シモンは言うが早くルーナの聖霊石を拾い懐にしまう。
「ワッ!? お兄ちゃん、こんなのイキナリ困るっ!! 心の準備か……」
「ルーナ的にはどういう状況なの?」
呆れ声のシモンの背に衝撃波が叩き込まれた。
「何がっ!?」
シモンが後ろを振り向くと地面から天井に向かって二つの光の柱が立ち上っていた。その中から出現した二体の巨人にシモンは驚愕する。
「これほどのモンスターを召喚するなんて無茶な事を!!」
シモンの声に対しファインマンは肩で息をしつつ答える。
「しょうがないだろ……これぐらいじゃないと……時間が稼げない……こいつらが相手をするうちに……逃げるぞ……」
ファインマンは自分の最愛の相手を滅ぼした仇が目の前にいるというのにそれをせず逃走を選択した。