赤いエルフのイサーナ
「あれまぁ――やっちゃったね」
そこは荒れ果てた野原、すなわち荒野であった。見渡す限り何もなく殺風景を極めており、雑草の一本も生えていない。だからこそ荒野と呼ばれているわけで、ここには生命の息吹というものも僅かにしか感じられない。その僅かな息吹を感じさせているのは、場にそぐわない一人の女性だった。
全身緑の女性だ。着ている服は緑、穿いてあるスカートも足に身につけている靴も緑である。ついでに言えば、ちょっと寒さを提供している風によってさらさらとなびく髪の色も緑だった。一言で表すならば『森』だ。『森の化身』。事実として女性は、『森の妖精』と世間一般で呼ばれているエルフであった。とは言え、そんなエルフであっても肌の色は緑ではなく普通の肌色である。肌の色まで緑だったら妖精だなんて可愛らしく呼ばれないだろう。小人ならまだしも大きさは普通の人間大である。その大きさで肌が緑だなんて、気持ち悪いだろう。お世辞も言えない。そんなわけで、所々に赤の斑点模様が付いている女性の肌も、例外に漏れず肌色なのであった。
エルフの女性はぼんやりと目の高さに持って来た手元を眺めている。
「それにしても、これを使ってしまった、か」
女性の手元に収まっているのは、ナイフであった。物を切ることに特化した道具だ。こちらも赤くペイントが施してある。これをくるくると遊ぶように回す。何回か繰り返すと、エルフの女性はきちんと握り直して腕を振った。ひゅん、と音が鳴った。女性の肌を彩る斑点模様と同じ赤い色した何かが宙を舞う。どうやらもとはそういうデザインではなかったらしく、女性が天に向かって掲げると、ナイフは陽の光を浴びてぎんぎらぎんに輝きを見せた。
「綺麗になったようだね。まったく勘弁してほしいよ。これ新しく買い替えたばかりなんだよ。それなのにもう汚れが。どの道使用目的を考えれば汚れることは当たり前なのだけれど、買って直ぐの新品が汚れると、嫌な感じになるよね――君はそう思わないかい?」
振り向きながらの言葉であった。言葉は一人の男性に向けられたものだ。人間の男性だ。本当は独り言のつもりだったのだけれど、背後に気配を感じてしまったから急遽問いかけに変更したのである。こんな何もないところじゃ、気配何て直ぐに分かってしまう。そろりそろり、抜き足差し足忍び足だったか、人間の技を実践してもらって申し訳ないけれど、そもそもエルフの耳は異常だから聞き取ってしまうのだ。エルフ以外なら間違いなく通用すると思われる。
男性は鎧に身を包み込んで長剣を帯びていた。動けばガチャガチャと音を立てそうなものだが、一体どうやってエルフの耳じゃないと聞き取れないような歩きをしたのだろう。ちょっとだけエルフの女性は気になったのだが、そう言えば極力音を立てない作りの鎧とか出来てるらしいので、大方それだろうと自己解決した。
「これらはお前がやったのか?」
女性の質問は完全に無視された。
ムッと来たので頬を膨らませる。
「君っ! 質問したのはこっちだよ。親がどんな教育を君に行ったのか想像に難くないね。仕方ないから私が教えてあげるけど、質問を質問で返すのはいけないことだよ。しかも内容が掠るならまだしも、全然違う。そんなことしてると、嫌われ者になってしまうよ。第一君だって、自分がそんなことをされたら嫌な気持ちになるだろう? だったらやってはいけない。分かったかい?」
間違いではないけれど、余計なお世話の説教である。四十を数える年齢な男性にしてみれば、外見上二十二歳程度の女性から説教だなんて堪ったものではない。世の中には年下に説教されて興奮する人もいるらしいが、あいにくと男性は正常で――そして大人だった。
「そいつは済まなかったな。俺は別に気にする方じゃない。さあ、俺は答えてやったぜ。お前も答えてもらおうか」
「えっ? ああ、うん」
まさかそう来るだなんて思ってもみなかった。大体こういう時は「何を意味わからねえこと言ってんだ! 誤魔化すんじゃねえ!」とか怒鳴られるものだ。意外にも大人でジェントルな態度にほんのちょっぴり驚いた。
さて、こうなってしまった以上は女性も男性の質問にお答えしなくてはならない。別に義務があるわけでもないし、答えなかったからって女神様の天罰が下るわけでもないけど、偉そうに説教しておいて自分は……何てことにはなりたくない。
質問の意図を女性は探る。
これらとは一体何か。
視線を地面の方に向ければ答えは簡単だ。
七体もの死体。首を斬り飛ばされた死体とその周辺に転がる首、身体をズタズタに斬り裂かれた死体も転がっている。どれもこれも美男美女ばかりで、どれもこれも女性と同じく緑豊かにしていて、どれもこれも女性と同じく尖った耳をしていた。
お前が殺したのか――男性はそう聞いているのだ。
「ふむぅ……」
何と答えようか。
真面目な話、殺したのかと問われると肯定するしかない。実際、スパーンと首を撥ね飛ばして、ズバズバと斬り刻んだのは他でもない、エルフの女性である。
否定したところで、ナイフ持って肌に赤くちょっぴり黒いペイントを施していれば、嘘だというのは確定的。否定する意味などないのだから、ここは素直に答えるべきだ。何より女性は、人に素直だねとよく言われるのである。
「うん。私が殺したよ。変えようのない事実だ」
「そうか」
正直に答えたが、男性の表情に変化はない。そればかりか淡々と次に進行した。
「どうして殺したんだ?」
「おいおいおいおい。次は私の番なんじゃないかい? いや特に聞きたいことがあるわけでもないけれど、一言、もう一つ質問良いかとか前置きがあっても……まあ、答えてあげるけどね。それでどうして殺したのか、だったね」
可愛らしく女性が小首を傾げて、考える素振りを見せた。
「信じてもらえるか分からないけど、私は殺すつもりはなかったんだ」
中指から小指を握り、人差し指と親指をくっ付くかどうかの距離まで近づけて「これっぽっちも」と表現する。
「なかったのだけど、彼ら彼女らはこうして死んでしまった」
「どういうことだ?」
「さっきから質問が多くないかい? 答えるけどね――彼ら彼女らがいきなり襲い掛かって来たんだ。私はどうして自分が襲われているのか見当もつかないまま交戦状態に入り、彼ら彼女らがどうして私を殺そうとするのか分からないまま、気付いたら全部終わってたんだ。だから言う――殺すつもりはなかった」
「そうか」
「そうだよ」
会話は一旦ここで途切れた。お互いに向き合ったまま動きはない。
女性は水浴びがしたいなあと意識を変えて。
男性は次の質問のことを考えていた。
今度はきちんと「あと一つだけ質問良いか――」と前置きをして男性が訊ねた。意識を水浴びから戻すと、前置きを入れてくれたことに気分を良くして「うん」と女性は頷く。
「ここからずっと南、島の最南端の方に行けばエルフの森と呼ばれる森がある。名前の通りエルフが住んでいて、そこがこの島で唯一のエルフの住処だ。その森にはエルフの手で結界が張ってあり、余所者を拒んでいる。まっ、拒まれたら行きたくなるって奴は多くて、度々侵入を試みるが成功した奴はいなかった。そう――いなかったんだ。だが、ある一人の冒険者が挑戦し、ついにエルフの住処に辿り着いた」
「ほう、それで?」
「それで、その冒険者が見たんだ。お嬢さんの足元と同じ――地獄ってやつをよ」
質問は、と女性は怪訝そうにした。
「ああ質問はこれからさせてもらうぜ。お嬢さん……あんな地獄を作りやがったのはお前だな?」
男性は七体の死体を一瞥し、睨み付けるような視線を女性に送った。女性は様子が変わった男性を気にすることなく答える。
「地獄ってのが何だかいまいち掴めないけど、君が見たのは彼ら彼女らのように首がなかったり、焼け焦げていたりする死体のことかい? だったら間違いないね。それも私がやったよ。八十九人だったかな、全部で」
その答えを聞いて、男性は長剣を抜いて構えた。
切先の向こうに女性は立っている。
女性は男性が何のつもりなのかを分かっていない。
「あれ? どうして殺したのかって聞かないの? もうこの際だから答えてあげようと思ったのに」
「必要はねえ」
男性の殺意が女性の赤黒ペイント肌を刺し貫く。
ことここに至ってエルフの女性も、男性が自分を殺そうとしていることを把握した。いきなりどういうことだと言いたげに目を点にする。
「急に何だい? 君は情緒不安定なのかな? いきなり人を殺そうとするだなんて危ない奴だな。やっぱり親の教育が良くないんだろうね」
「お前にだけは言われる筋合いはないってところだな。それにいきなりじゃねえ。お前を殺す明確な理由が出来た。俺なりのな。で、お前を殺す理由だが……簡単だよ。危険だからだ。お前の存在は。この島にとって、いや、世界にとって、な」
「意味が分からないな。私のどこが危険だと言うのか。人をいきなり殺そうとする足元の方たちや君の方がよっぽど危険だと思うけどね」
でもまあ、と女性は続けた。
「そんなことはこの際後にしよう。今重要なのは、君がこの私を殺そうとしているという事実。何とかしなくてはいけないようだね。いつか殺されるのも悪くはないのだけれど、君に殺されるわけにはいかないな。そして何とかする方法として……うん――君を殺すことにしよう。殺そうとしているんだから殺されても文句はないだろう」
この時、男性はくすりと笑った。
耳ざといエルフであり、目ざとさも十分なものであった女性が、笑みに対して眉を顰める。
「何を笑っているのかな?」
「いや、な。随分と喋ると思ってな。エルフってのは、穏やかで物静かで柔らかく微笑んでいる、大人な印象があったんだが、どうやらそうでもないらしいな。随分とやんちゃで姦しい」
「そいつは悪かったね。どうやら君の中のエルフ像を壊してしまったらしい。だけど現実は往々にしてこんなものだから、あまり幻想を抱き過ぎるものじゃないよ。また一つ、勉強になったんじゃないかい?」
「ああ、礼を言うよ。お嬢さん」
「どういたしまして。ところで君の名前をまだ聞いていなかったね。良ければ教えてくれないかい」
一瞬躊躇いを作って男性は言った。
「……ロックだ」
「ロック君かい? 勇ましくてカッコいい名前だね。そうだった、ロック君が名乗ったんだから私も名乗らないと不公平だ。私はイサーナ。エルフのイサーナ」
女性は今まで手に持っていたナイフを、太ももに括りつけた革の鞘に仕舞いこんでからニッコリと笑った。
「それじゃあ、殺し合おうか」
――しばらくして、緑豊かでもなければ耳も長くない死体が、荒野に一つ増えたのであった。