砂糖と雪とあの子と
ある日、雪が降った。
雪は三日三晩続き、さらにひと月の間降り続けた。
曇り空の下で、溶けることを知らない雪は積りに積もって街を覆い尽くした。
あの子はどうしているんだろうか?
それを知りたくても知る術がない。
彼女をほんの少しでも知ろうとしてバルコニーから身を乗り出し街の様子を窺っても、吹雪きの先を見通す事は出来ずに、あの子の姿を見つけるどころか街さえもどこにあるのか分からなかった。
それでも僕は真っ白な闇から目を離すことができずにいた。
その日。ずっと続いた雪がやみ、久しぶりに朝日が街を明るく染め上げた。
これで雪も溶けていくだろう。街の家々から人々が外へと出始め、また元の街へと戻っていくはずだと。
そうすればあの子の姿を見つけられるかもしれない。
僕は一目でもいいから彼女を見たかった。
たとえ城に訪れてくれなくてもその姿を見れるのなら、僕の胸の中で固まったままの砂糖はきっとほぐれるだろう。出来ることならこのベッコウ色のダイヤにその姿を刻みつけ、夜の闇の中でも城の中でも彼女を眺めていたい。
だが太陽に照らされた街は深く雪に覆われ、その建物さえほとんどが埋もれていた。
外を出歩く人の数は真昼になっても増えることはなく、雪をかき出す人影が一人二人と数えるほどだった。
その人影さえどこかよたりよたりと動いている。
ふいに一人の少女がふらついた足どりでゆっくりと、広場だったはずの場所に姿を現した。
彼女だった。
僕は久しぶりに見る姿に嬉しくなった。
会いたかったんだ。とても。
もっと近づきたくて身を乗り出して見れば、丸くて柔らかかったはずの頬はげっそりとこけ落ち、小さかった体がさらに小さくなっている。
僕の胸の中の砂糖が震えた。
ふらりと座り込む彼女は両手を空に向かって差し出した。
まるで僕に抱き上げてくれるようせがんだあの日のように。
「助けて」
聞こえるはずのない距離だというのに、確かに彼女の声を聞いた。
彼女は遠くから僕を真っ直ぐに見て、僕を呼んでいる。
だから彼女が喜んでくれるなら、どんなことでもして見せよう。
僕は身を翻して駆けだした。
城を出る時も、門をくぐりぬける時も、頭にあったのはあの子の姿だけ。
砂糖でできた体は軽い。
今だけは雪に沈むことのないこの体を僕は心底愛した。
走って、走って、雪が僕の足を裏側から溶かし始めていてもひたすら走り続け、やっと街へたどり着くと雪は建物の高さにまで降り積もっていた。
歩調を緩め、目の高さにある屋根屋根の間を歩きながら街を見まわしていると、雪に覆われずにいた窓の周りで、冷たい雪の上、分厚い服の上からでも分かる程やせ細った人たちが蹲っていた。
街道沿いの建物からは幾人かが窓から顔を覗かせているけれど、その頬はへこみ目だけが大きく見える。
街の中はいつものような人々の声も鐘の音も足音も何も音がなかった。
窓の中で、一人の少年が顔をゆっくりあげて僕を見た。
「砂糖、だ」
その声に幾つもの目が僕を見上げる。
「砂糖だ、砂糖だ!」
力のなかったその目に獰猛な光が宿っていく。
幾つもの手が僕に伸び、幾つもの足が僕へと向かい始めた。
人々が僕を欲していることは分かったけれど、砂糖をあげるわけにはいかないんだ。
僕は必死に走った。
溶け始めた足がよたつき、何度も転びそうになりながら。
人々は力を振り絞って、僕を追いかけてくる。
真っ白な雪の上を多くの足が踏み荒らし、静かな街に唸り声が響き渡った。
けど彼らは一向に追いついてこない。振り返ると雪の中へ足をずぼりずぼりと沈めて這い出そうともがき苦労していた。
それでも僕は走った。
走る衝撃で体から砂糖の欠片が幾つも飛んだけれど無我夢中で走り続けた。
僕を欲しがる叫びは少しずつ小さくなっていく。
大丈夫だ、これで砂糖を彼女にあげることができる。
ほっとして僕の足がよたついたその時、屋根から幾人かが僕に飛びかかってきて、誰かが僕の背中を抉り、誰かが僕の片耳を千切り、誰かが僕の片腕をもぎ取った。
辺りに飛び散る白い破片は、雪の上に落ちてすぐに見分けがつかなくなった。
僕は何本もの腕から何とか逃れるために走り続けた。
手足を奪われたらあの子の元へ行けなくなってしまう。
だが雪の水分をかなり吸い取っていた両足は、転んだ拍子にそれぞれ膝下と付け根から両方共もげてしまった。
後もう少しなんだ。
残った片腕を必死に動かし、雪の上を這った。
背後で幾つもの息遣いと共に奪い合う声が響いている。
少しでもいいから、あの子に砂糖を。
だけど誰もあの子に僕の砂糖を届けてはくれないだろう。
僕が行くしかないんだ。
その時、誰かが僕の肩を掴み、動かしていた腕をいとも簡単にもぎ取った。
腕が体から離れて上半身が顔面から倒れ込み、視界が真っ白になった。
もうこれで起き上がることすらで出来ない。
ああ、どうしようか。
「やめて!やめて!」
あの子の声が聞こえた。
あの子が近くにいるんだ。どこにいる?
背中の上でもみ合う気配がした。
彼女がそこにいるのか?
不意に誰かが僕の体を引っ張った。そのままどこかへ引きずっていく。
ゆっくり、ゆっくりと引っ張る力は弱く、その手の小ささにすぐにそれが彼女だと気がついた。
彼女がこんなにも近くにいる。その手の温もりがひどく懐かしく、白い地面が流れ体が雪を削り雪の中へ何度沈んでも、僕はずっとこのままでいたいと思った。
暫くして体は止まり、背中の雪が払いのけられ、ごろりと仰向けに転がされた。
視界がひらけると透き通った青空の中に彼女の顔があった。
「やっと、会えたね」
この日をどれだけ待ったか。とても長かった。
僕はまだ声を出せるから、口は何ともなっていないんだろう。
彼女の顔もこんなにはっきりと見える。
それが嬉しくて僕は笑ってしまうのに、雪にまみれた彼女は泣いていた。
僕は彼女の頬を撫でようとして両手がないことを思い出し、仕方がないから頭を少し横へずらして彼女の顔を覗きこんだ。
「どうして泣いてるんだい?お腹が空いたのか?」
彼女は小さく首を振った。
「いいんだよ?さあ、僕をお食べ?」
彼女はアーモンド形の黒い目を大きくさせ、いっそう激しく首を振った。
「嫌よ。そんなことしたらあなたがいなくなっちゃう。
ねえ、あなたがいなくなったら、私はどうしたらいいの?
私はひとりぼっちだわ」
震える声が残っていた右耳に降り注いだ。
ああ、彼女の声はなんて心地好いのか。
鳥の声や風の音よりもずっと聞いていたくなる。
「ひとりなものか、お母さんがいるだろ?」
彼女はぎゅっと眉を寄せて険しい顔をした。
「お母さんは、死んだの。病気がどんどん悪くなって。雪が降り始めた夜に死んだの。」
「それは、寂しい、ね。君はひとりぼっちは嫌かい?」
彼女はこくりと頷く。
「それなら、もしも君がいつか砂糖を買うことが出来たなら、あの城のオーブンで僕の体を作ってくれないかい?
そしてこのダイヤの目をはめ込んでおくれ。
そうしたら僕は君ともう一度会うことが出来る」
「それまでは?あなたに会えないの?」
「待つのはつらいかい?」
彼女はゆっくりと頷いた。
「確かに、そうだね」
僕はそれを知っている。彼女も同じ思いをするのだと思うと悲しくなった。
「だけどね、この目はずっと見えてるんだ。だから僕は君のことをずっと見ているよ?それだけじゃ、紛れることはないだろうか?」
彼女は再び頷いた。
「だけど僕も雪も大して変わらないだろ?
だから雪が降るたび僕が来たのだと思えばいい。」
アーモンドの目はきょとんとしたけれど、次第に細くなって彼女は笑った。
「分かったわ、約束する。いつかあなたの体をつくるから。絶対に。」
「じゃあ、もうお食べ?
雪まみれになってしまったから、残った僕の体もそのうち溶けてしまうだろう。
僕がここに来たのは君を助けるためなんだ。僕の願いを聞いてはくれないかい?」
彼女は少しためらったけれど、小さく、しっかりと頷いた。
青空が消え視界が彼女でいっぱいになると、グミでできた僕の唇に彼女の柔らかい唇を感じた。
頬や耳に彼女の吐息がかかり、その心地好い温かさを感じながら、彼女が僕を食いつくすまでずっと青い空を見ていた。
僕はダイヤモンドだけになった。
彼女は優しく両手で僕の目を包むと口づけをして何か言ったけれど、今の僕には何も聞こえない。それでも彼女の笑顔が見られるならそれでいいんだ。
彼女のポケットに入れられて視界は真っ暗になったけれど、この闇の向こうに彼女がいる。それだけで僕はもう寂しくなかった。
次にこの闇から出た時は、傍でずっと彼女を見ていられるんだ。