砂糖とあの子
夜になり、空には月が明るく昇っているのに、はらはらと雪が舞いだした。
僕の手に落ちた雪も僕の手も、真っ白ですぐにどちらがどっちか分からなくなる。
下の階から扉の軋む音が響き渡った。
風も吹いていないのにおかしいなと思いながら、僕は部屋へ入り階段を降りて行った。
階段の踊り場に差し掛かると、天井窓から差し込む月明かりで青白い光の中に沈むホールがよく見える。
その真ん中で、ぽつりと立ち尽くしている黒い人影があった。
誰だろう?
この城に誰かがやってくるのはとても久しぶりだ。
「だれ?」
僕の声が響くと、その誰かは僕の方を見上げた。
その顔が月明りに照らされ、蒼く、白く頬が輝いて、大きな目が黒く艶光している。
「君はだれ?どうしてここに来たの?」
何も答えないからまた訊いてみる。
だけど影は変わらず何も答えない。
僕は首をかしげて、ゆっくりと階段を下りてみた。
「ねえ、お砂糖をちょうだい?」
僕が降り立つと、不意にか細く響いた声は震えていた。
影の前まで歩み寄り身を屈めてその子供の顔をよく見れば、月明りでも分かるほどに肌は汚れ、髪は脂でこびりついていた。
僕を見上げる大きな黒い目は、今にも泣き出しそうなほど揺れている。
「どうして?街には砂糖がないのかい?」
彼女はみるみる眉を寄せていき、俯いてしまった。
「だって、だって」
肩を震わせて、彼女はポケットから数枚のコインを取り出すと、小さな両手で僕に差し出した。
「お砂糖はお母さんの薬になるって先生が言ったの。
でも、でもこれだけしかお金がないの」
「そのコインでは買えないのかい?」
こくんと頷く彼女は、僕を恐る恐る見上げる。
「お砂糖はとても高いの。これじゃダメだって」
彼女の黒くて大きな目はアーモンド形をしていた。
その目に映る月明かりが淡く輝き、揺れ、とても綺麗だと思った。
僕のベッコウ色した硬くて冷たい目とは大違いだ。
「おいで?そんなところじゃ、寒いだろ?」
彼女は首を振った。
「寒いのは平気」
そう俯く彼女の足は何も履いていなかった。
黒く汚れた小さな足は、灯りがなくても分かるぐらい多くの傷がぬめっと光っている。
「たくさん歩いたのかい?」
彼女は小さく頷いた。
「どれぐらい歩いたんだい?」
「いっぱい、とてもいっぱい。ここが最後のお家。」
「そうか。じゃあ、今夜はゆっくりしていくといい。
温かいミルクをいれてあげよう。歩けるかい?」
彼女は何も言わず自分の両手を僕に向かって伸ばした。
「もう歩けないの。だから抱っこして?」
言われるがまま彼女の小さな体を抱き上げたとき、砂糖が崩れてしまう程の重さはないけれど、両腕に僕とは違う重みが加わって、温かくて柔らかい感覚に体中が包まれオーブンで焼かれる時よりもずっと心地好かった。
彼女は短い腕で僕の首に両手を回し、僕の肩に頭を預けた。
「あのね、たくさん、たくさん、歩いたの。
街中のお店に行ったけど、お砂糖を買うことは出来なかったわ。
だからね、色んなお家に行ったの。
でもそんな高級なもの、みんな持ってないって言うの。」
小さくため息をつく彼女の吐息が、彼女を抱える僕の手にふりかかった。どこかくすぐったく、だけど温かいと思った。
誘われるように彼女の頭にそっと自分の鼻先をうずめると、彼女は髪まで温かく、砂糖の僕とはどこか違った甘い香りがした。
ずっとずっとこのままでいたいと思うぐらいに。
「お金持ちの人のお屋敷に行っても同じことを言われたわ。
でも絶対に嘘。
私、嘘をつく人も約束を破る人も大嫌い。
お母さんにも怒られるわ」
僕はそうだねと言った。
どこか怒った口調で言う彼女は、僕の首の後ろに回したままの手をぎゅっと握りしめた。
僕は彼女を落としてしまわないようしっかりと小さな背中を抱きしめ、ゆっくりと階段に足をかける。
「でもね、そのお屋敷にいたお手伝いのおばあさんがね、この城に行けばきっと砂糖をくれるだろうって。昔、自分も一度だけもらったことがあるって言ったの。
だから私ここに来たけど、本当はおばあさんも嘘をついてるかもしれないって思ってた。でもおばあさんが言った通り、あなたはちゃんといたわ!」
顔をむくりと起き上がらせ、つぶらな瞳で僕を見上げる彼女は嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。
「雪のように真っ白いお砂糖の王子様!
だけどあなたの目は琥珀色のダイヤモンドなのね。
おばあさんはあなたが優しくて素敵だと言っていたけれど、それも本当だったわ。
私、嘘をつかれていなかったの。とても嬉しいわ」
彼女は僕の首に抱きついた。
「ねえ、あなたはおばあさんのこと覚えてる?」
「さあ、どうだろう?
僕はずっとこの城に住んでいるけれど、砂糖が欲しいとこの城にやってきた人は何人もいたからね」
「ふうん、そうなの」
彼女は大して興味を示さず、僕の肩の上で鼻唄をうたっていた。
食堂へと向かう間中、ずっと僕は彼女の髪に頬や鼻を近づけていた。
髪に砂糖がついて少し白くなったけど、彼女は別に気にしていないようだった。
食堂に入った時、幾分暖かかったのか彼女はふうと息を吐き僕の首から手を下ろして辺りを見回し始めた。
それから僕はいつから燃えているのか分からない暖炉でミルクを沸かし、程よく温まったそこに手の平を少し削って砂糖を入れ彼女に渡した。
美味しいと、温かいと口を綻ばせた彼女の笑顔に、僕は体じゅうの砂糖が溶けていくような気がした。
彼女が喜んでくれるなら、何でもしたい。
その時、僕はそう思った。
だから僕は片方の脚を、膝から下を取ってあの子にあげた。
そして帰る力が出るようにと、同じ場所を少しだけ彼女に食べさせた。
暖炉のそばで毛布にくるまって眠るあの子の寝顔を、朝日が街を照らすまで、僕は瞬きもせずにずっと眺めていた。
朝になり、元気になったあの子は「またね」と言って城を出て行った。
また僕に会いに来るから待っていてと。
次の日、僕はオーブンで体を作り上げて彼女のことを待っていた。
するとお昼の鐘が街に響き渡る頃、バスケットを手にしたあの子がやってきた。
僕の砂糖で作ったお菓子を持って来たのだと。
だけど僕には人間のように内臓がないから食べることが出来ないんだと言うと、彼女は残念そうな顔をしながら隣りでそれを食べていた。
それから毎日のように、彼女は城にやってきた。
いつも他愛のない話をしたり、城にある本を読み聞かせてあげたり、庭中を駆け巡ってあの子を追いかけたものだ。
木の枝に引っかかって僕の体はよく削れてしまったけれど、あの子は新しい砂糖をぺたぺたと抉れた部分に埋め込んでくれたりもした。
あの子と一緒にいるだけで永い僕の時間はあっという間に過ぎていく。
時間が足りないように思えて、僕はあの子が城へやってくることをどんなことより、何より待ち望むようになっていて、彼女がまた来てくれるようにと自分の体を手なり足なり、時には腹の一部を彼女に差し出した。
二人で過ごす時間が次第に多くなると、彼女は城の至る所を自由に行き来するようになり城中を知り尽くすようになった。
ある時、彼女は食糧庫に保存してあるたくさんの砂糖袋を見て、ここに砂糖があるのにどうして自分の体をわざわざ取って人にやるんだと僕を責めた。
別に僕は食糧庫から渡そうとも自分の体から渡そうとも、大した違いはないと思っていた。
だから食糧庫まで取りに行くより自分の体から渡した方が早いからだというと、彼女は食糧庫に砂糖がある限り僕の体からは砂糖を絶対にもらったりはしないと怒った。
それでも僕は彼女の喜ぶ顔が見たかったから、自分の体から砂糖を取り出す代わりに、彼女の助けになるならと、彼女が城にやってくるたび倉庫の砂糖を袋に詰めて持たせた。
そうしているうちに備蓄していた砂糖は底をつき、もう砂糖を持たせることができないことを彼女に告げると、分かったわと言ってその日も「またね」と言って城を去っていった。
毎日の様に来ていた彼女は週に一度へと、そして次第にひと月に一度来る程度になっていった。
それでもよかった。あの子がまたねという限り、また会うことが出来るはずだと思った。
だけど待つことに慣れている僕でも、あの子がもたらす時間の牢獄だけは他の誰かを待つよりつらく長く感じた。
あの子は僕と一緒にいることが楽しいと笑っていたけれど、僕にはもうあの子を喜ばせる砂糖はない。彼女はもうこの体から砂糖を受け取ろうともしなくなっていた。
きっといつかあの子は城へ来なくなるだろう。
みんな、そうだった。この城に来る人はみんな、みんな。
ついに彼女は半年経っても来ることはなかった。
それでも僕はバルコニーから街を見下ろし彼女がやって来るのを、毎日、毎日待っていた。