砂糖と雪
「またね」
部屋には優しい香りが静かに残っていた。
胸いっぱいに吸い込めば確かにあの子がこの部屋にいたのだと教えてくれるけど、今はもういない。
だけど無くなった僕の片足の切れ目をなぞれば、あの子の歯型がボコボコとついている。
それが嬉しくて何度も指で撫でれば、先のない膝から砂糖がはらりと落ちた。
またね。
それは言っても言われても胸の砂糖の奥、何かがぎゅっと縮む不思議な言葉。
また会えるのだと嬉しくなるけれど、それが訪れるその時までまたひとりだとも告げられる。
どうせ僕は砂糖で出来た人形だ。どれだけ待っていようとこの体は腐りはしない。
だけど、いつ来るかも分からないあの子をどれだけ忘れようとしても、約束でもないその言葉が僕を捉えて離さない。
だけどあの子は笑顔で言う。
「またね」
あの子は、もう来ないかもしれない。
何度そう思っても、来ないことを認めることも、来なくたっていいと諦めることも、いつかは来るはずだと思い続けることも、体中の砂糖が湿気たように重くなる。
それがどうにも好きになれなくて、気づくと自分の親指を噛締めている。
だから親指だけが削れてしまって、僕の右手はいつも四本指だ。
待っている時間はとても長くて、時々僕は自分が存在しているのかどうか分からなくなる。
それを確かめたくて、手を広げて指を動かしてみても、半分になった親指からぽろぽろと砂糖が落ちる。
それだけじゃ分からないから、今度は口を開いて声を出してみても、広い城の中で僕の声だけが響く。
だから窓の向こうに広がっているはずの街は、本当は存在しないのかもしれない。そこにいるはずの街の人も誰もいなくて、世界には僕だけしかいないのかもしれない。そう思えて急に街の灯りが見たくなる。
だからもう片方の足で飛び跳ねてバルコニーに向かった。
足が床に着地するたび、はらはらと体から砂糖が落ちて床の上を足跡の様に白くした。
『 「雪のようね」
不意にあなたの声が甦る。
僕が手を擦り合わせて砂糖を落として見せたら、あなたはそう言って笑った。
柔らかくて、優しくて、とてもとても綺麗な人。
僕を一度も食べたりはしなかったけれど、僕を独りぼっちにした残酷な人。
だけどあなたは僕に言わなかった。またね、と。 』
バルコニーに出てみれば夜の冷たい風が体を撫でつけ、砂糖と砂糖がきゅっと引き締まるの感じた。
下方に広がる街の小さな灯りが、橙色、黄色、白色とたくさん集まっているけれど、遠い遠い灯りのどこにあの子が消えたのか僕は知らない。
どうして待っていてと言うんだろう。
この場所のことも、僕のことも、家に帰れば忘れるくせに。
僕が待っていてもいなくても、あの子もこの城も何も変わりはしない。
だけど、待って、待って、待ちくたびれた頃に、時々あの子はやって来てきてくれるから。
だから僕は笑って言うんだ。
「いいんだよ?さあ、食べて」
『 こんなに、こんなに、寂しいのに。
会いたい人なんていない。
灯りの中にも、もういない。 』
体が焼き上がった音がして、目が覚めた。
あの子が食べた足の部分を継ぎ足したから体はすっかり元通りになったけれど、僕の形にくり抜かれたオーブンがしゅわしゅわと熱を沈めていく音以外、城の中には何も聞こえなかった。
体を起こしてオーブンから出ると、出来あがったばかりの体から蒸気が立ち上った。
あの子はここへやってくるたび鼻をくんくんひくつかせて僕に近づいてくるから、きっと僕の体からは芳ばしくて甘い香りがするのだろうけれど、自分の匂いなんて僕には分からない。
あの子の香りはもうすっかり消えてしまったけれど。
今日もただ僕はバルコニーで、街を眺めていた。
夜とは違う朝の街並みは、真っ青な空の下、馬車の音や人の声が風に混じって微かに聞こえてくる。
連なる屋根屋根には煙突が一つ二つと煙を吐いていて、向こう側には複雑な装飾の施された講堂が街のどこからでも見える大きな時計を掲げている。
街道には行きかう人の姿がちらりほらり、噴水の辺りで広がる市場には色とりどりの服を着た人だかりができていた。
手を振ってみるけれど、だれも気づかない。あんなにたくさん人がいるのに。
だけど明るい空の街は好きだ。
音や匂いがたくさんして、人の姿があちらにもこちらにもあって、この街に人がいるんだってことが分かるから。
時間が経ち、日が傾き始め、空が赤く焼けてくると、街も同じ色に染まりだす。
風が強くなって、鳥たちがどこかへ帰って行く。
一日が終わる。そう思うと、やっぱりあの子は来なかったとほんの少し胸の中の綿菓子が湿っぽくなるけれど、またねと言ってくれたんだから、また来てくれるはずだと自分に言うんだ。何度も。
『 僕の嫌いな夜。
この城には街みたいに灯りがない。
城の中は暗くて静かで、時々風の音が大きな唸り声をあげて城中に響き渡るけれど、
またすぐにしんと静まり返る。
あなたがいた頃は、廊下にも部屋にも灯が置かれ、暖炉には火がついていて城の中は温かかった。
暖炉の炎はゆらゆら揺らめいて不思議な動きをするから、
僕はすうっと引き寄せられて何時間でも見つめていた。
いつの間にか火に近づきすぎて砂糖がぽたぽたと溶けてしまったから、
あなたが慌てて僕を暖炉から遠ざけてとても怒ったんだ。あなたが怒ったのは、その時だけだったけど。
でもあなたは僕の体のどこかが溶けたり無くなったりすると、とても悲しそうな顔をしていつも僕を抱きしめた。
「大切な、大切な、私の王子様。
あなたは雪のように白いけれど、雪にさえ溶けてしまうのよ?
どうか自分の体を大切にしてちょうだい。」
だけど僕の手足が鳥に啄まれて粉々になっても、体が真夏の太陽に溶けてどろどろになっても、あなたはもう僕を抱きしめてくれることなんてなかった。
もっと、もっと僕の体が雪のように溶けてしまわないとだめなのだろうか。
でもあなたの悲しそうな顔を思い出すと、なぜか僕の目がはらりと顔から落ちてしまうから、誰かにもうこの体から砂糖をあげたりはしないんだ。 』