梅雨時:雨
今日も今日とて先輩のところへ……行けない。
今日は雨が降っている。いつもなら聞こえてくる運動部の声も、今日は聞こえてこない。室内で筋トレでもしているのだろうか。
先輩との会話はいつでも楽しい。中学生のときに惰性で部活をやっていたあの時に比べれば何倍、何十倍も価値が有るだろう。特に雨の日は、水の跳ねる音がまるで僕たち以外の世界を、僕たちから切り離してくれているようで晴れの日よりもずっとどうでも良い話ができる。雨は僕たちを哲学者にしてくれる。
今まで億劫だったこの梅雨という季節も、先輩との放課後を過ごすようになってから毎日が楽しくなった。むしろ変に晴れてしまうと、梅雨の癖に空気読めよなんてどうしようもない思いを抱いてしまう。
そう、僕は先輩のところへ行きたいのだ。空が流す涙は僕の放課後により一層楽しみを恵んでくれる。
しかし、それでも。僕は高校生なのだ。普段の授業は眠っているどころかサボタージュする者も多い。こんな学校ではつい忘れがちだが、僕はまだ高校生。勉強は僕の一番の仕事と言える。そう、その本懐を忘れて遊び呆けることは許されない。
ところで、どうして一学期中間試験はこんな時期にあったのだろう。丁度、梅雨前二週間くらいのときに有った。中間試験とはいわゆる成績表に関係するタイプのテストだ。もちろん僕は普通なりに勉強をして、普通なりに点数が取れる、はずだった。
一般人な僕は先生に従順な振りをして、勤勉に学ぶ振りをする、よくいる高校生だ。結果は可もなく不可もなくである。
ただ、今回はまずかった。先輩との放課後が魅力的過ぎたのだ。つまり、勉強そっちのけで遊んだのだ。一応先輩のために弁解しておくが、先輩はむしろ僕の心配をして勉強を勧めてくれていた。何なら勉強を見てやろう、とも。けれども、僕はそうしなかった。先輩との時間が楽しかったのももちろんだが、授業を受けてない奴がいるのに、そこそこ真面目に出席している僕ができないなんて思いもしなかったのだ。僕は忘れていた。ここがどういう高校なのかを。
結局、僕は欠点をいくつか叩き出すことになってしまい、今日から三日間、放課後は補習となってしまった。これでは、せっかくの雨もただの陰鬱の原因だ。
僕を見てくれるのは、面倒くさそうに教卓の後ろの椅子に座っている日向先生だ。
「お前さあ、どうして一発目から欠点なんて取るんだよ。お前は自業自得で納得してるかもしれねえが、こっちはこんなことに時間取られてつらいんだよ」
目の前で黙々と教材を消化していく生徒に対して、教員はそんなこと言って良いんだろうか。そりゃ理屈は分かるけど、こっちだって授業に参加してない奴らの欠点対策すると思うじゃん。まさかの僕以外は全員欠点無しだ。それもかなり難しい問題で。
「高一に出す試験内容には思えませんでしたけど」
やれどもやれども減らない課題におもわず毒を吐いてしまう。
「そりゃあ、大学卒業試験だもん」
聞かなかったことにして、また右手を動かし始める。
先生はパソコンを持ってきて、仕事を始めたらしい。ほとんど自習みたいな物なので構わないが、これで補習として大丈夫なのだろうか。
雨の音が鬱陶しい。集中しようと意識を目の前の問題に持ってくるが、どうにも気が散ってしまう。どうやら雨音は時間が経つにつれて大きくなっている。僕の邪魔をしようと言う意識が有るようだ。
「……お前、最近東西南北のとこに行ってるらしいじゃないか」
先ほどから埋まった空欄が増えていないことに気付いたのか、日向先生は声を掛けてくれた。少しの休憩を兼ねて肯定する。顔をあげて先生の方へ向けると、先生はパソコンに向かったままだった。
「あいつは良い奴じゃないぞ」
そんなことは言われなくても分かっている。
「教師の俺のところにまで嫌な話が回って来てる。俺の愛する生徒にあいつの友人は少々荷が重く感じるが」
「先生も僕が東西南北先輩に会いに行くの、反対なんですか」
そう答えると先生は顔をあげてこちらを向いた。一瞬驚いたような顔を見せたが、すぐににや付いた顔になって僕を見つめる。
「なんだ、やっぱり九九が止めてたんだな。心配してくれる良い友人を持ってるじゃないか」
先生はなぜか恥ずかしそうな顔をして続ける。
「なら俺が止める必要は無いな。お前があいつのもとへ行くことは当然のことだから。ブレーキ役は一人で十分だ」
先生はおもむろに立ち上がって伸びをした。背筋を伸ばした先生はいつもと違い大きかった。
「今日の補習はお終いだ。これ以上は面倒すぎる。全く、雨の日は天パがコントよろしく爆発しちまう。機嫌も悪くなるよ」
先生は上機嫌そうにいつも以上にぼさぼさの頭を掻きながら、教室を出る。
「明日も雨だったら補習は無しでいいよ」
先生はのんきにそんな言葉を残して行ってしまった。僕のことを考えてくれたのか。きっと、本当に面倒になっただけだろうけれど。
確か九九も今日は雨でできることが少ないから早めに終わると言っていたな。丁度良い時間だろうか。九九を迎えに行ってみよう。僕は鞄を持って教室を出る。雨は先ほどより幾分弱まっているようだった。
この季節に中間試験が有る理由が分かった気がした。