しばらくして:冷めたコーヒー
あの入学式から、すでに何週間か経過した。普通じゃ考えられない様なぶっとんだ人達ばかりで大変だが、それでも僕もこの学校に慣れ始めていた。
今日も一日の授業が全て終了し放課後となる。一日の疲れから一気に教室が騒々しくなる。僕は残念なことに靴箱の掃除当番に当たっているため、まだ皆の会話に入ることはできない。早く終わらせてしまおう。
玄関前に咲いていた桜の花も、ほとんどが散り、葉ばかりになってしまっている。その桜の散った花びらは風に吹かれて靴箱の方まで飛んできてしまう。それによってこの季節は掃除が大変だ、と担任の先生が言っていた。
「お前、今から掃除か。手伝ってはやらねぇが付いていってやるよ」
突然声をかけられた僕は歩きながら後ろを確認する。意外と遠くの方から駆け足で近づいてくる九九が見える。
「うん、ありがとうね」
僕が一言お礼を述べると九九は笑って頭をはたいてきた。
「痛っ、なんで叩くんだよ」
言いながら両手でおおげさにさする。実際には手加減されていたしそれほど痛みは無いのだが、コミュニケーションの一環だ。
そんな風に無駄話をしながら靴箱に向かっていると前方から制服ではない男の人が歩いてくる。
「あ、お前たち丁度良いところにいるな」
その男性に言われた僕たち。九九はいつも口にくわえている棒付きキャンディーをもごもごさせながら相手に言った。
「あらら、日向君何が丁度良いのん?」
「九九、この担任様に向かってなんて口の利き方してんだ」
「そう、この中肉中背でしわのついたシャツを着て、少し寝癖のついた頭をしているこの冴えない男性は僕たちG組の担任、日向 宗助先生だ」
「晶く~ん、声漏れてるからね」
いけない、どうやら本音が口をついてしまっていたようだ。もちろん確信犯なのだが。
「晶は九九と付き合い始めてから性格悪くなったんじゃないか」
「失礼ですね、僕は元々人に気を遣うよくできた人間です」
「自分で言うやついねぇよ、きゃははは」
先生は生徒に対してフラットな関係を保とうとするタイプなので話しかけやすいとよく言われている。これくらいでは怒ることはなく、むしろこのようにノリノリでツッコミを入れてくることが多い。
「ところで日向君は何の用事で俺たちを呼び止めたの」
そうだった。確かに最初、良いところにってあからさまに雑用を押し付けようとしているようなセリフを言っていた。
「忘れるところだった。お前たち、2年の東西南北 美宏って言うやつにこのプリントを届けて欲しいんだよ」
開いた窓から急に強い風が吹いてきた。
「……だ」
九九が何か言っているようだがよく聞こえない。風もおとなしくなってから僕は聞き直した。
「九九、何て言ったの」
「嫌だ。その人のところには行かない」
驚いた。九九と出会って数週間、初めは態度が悪くて親しみにくそうな人だと思っていた。でも実は面倒見が良く、頼まれたことを断ることは無かったのに。
「ま、美宏は有名だし。嫌な奴は嫌いなタイプよな。だったら晶だけでいいから行ってきてくれないか」
「いいですよ」
「ちょっと待てよ、だめだ晶、行くな」
「大丈夫だよ。すぐ帰ってくるから。先生、何組に行けば良いですか」
「ん、その人は教室にはいないんだ。AV教室に行ってくれ」
「そうなんですか、分かりました。プリントください」
僕はプリントを受け取り、九九を置いて歩き出した。
「お、おい」
僕を呼び止めようとする九九に、振り向きざまに言った。
「悪いけど、掃除頼むわ」
九九は頼まれたことを断らないんだ。
そういえばなんで僕がプリントを届けなきゃいけないんだろう。先生か、あるいは同じクラスの奴が持って行くんじゃないのか。いくらなんでも違う学年の僕が持って行かなくちゃいけない理由が分からない。
教室棟とは別の棟にAV教室はあるため、放課後はほとんど生徒がおらず、聞こえてくるのはグラウンドで練習している野球部の声と僕自身の足音だけだ。電気も付いていないし、なんだかひんやりとした空気が体に付いて回る。
ここか。 僕もまだ授業で使ったことがない、馴染みのない教室だ。隣の準備室にはたくさんのビデオテープやDVDが見える。
ノックして入ろうとするも、返事が無い。もう一度扉を軽く叩くが全く反応がない。いないのだろうか。冷たく輝いているドアノブは僕を拒んでいるようだ。仕方なくノブに手をかけて回す。鍵は開いている。そっと開けてみると明々とついた部屋の中、子供向けアニメよろしくスクリーンから5メートル離れていかにも古そうな白黒の外国映画を見ている女生徒がいるのが見えた。
「あの、東西南北先輩でしょうか」
「ん、おや来客とは珍しいな。いかにも僕が東西南北 美宏さ」
その人は振り返って言う。腰までのびた真っ黒い髪は上質な絹のごとき輝きを放ち、黒目が大きく猫のようなアーモンド型の瞳は心まで見通すかのような鋭さを持っている。そうかと思えばあどけなさの残るふっくらと小ぶりな唇。立ち上がったその人は異常に整った体系で、まるで作り物のようにさえ思われた。
「いやいや、ほんと何の用事だい。こんな所、健全な高校生が好き好んでくるような場所じゃないだろう。健全なといえば、今僕がみている映画なのだけれどね、その昔イギリスで起こった連続殺人をモデルにしているんだよ。そこそこエグイ表現も多くてね。いまなら確実にお上から規制がかかるような内容なのさ。青少年を健全に育成するために。でもさ、そんなことに力をいれるよりも、もっと有り体に言えばお金を費やすよりも腐った議員さんに規制をかけようとすることに力を使うべきじゃない?健全な国家のためにはさ」
おとなしそうな見た目と裏腹にものすごい剣幕でまくりたてたその人は、僕が手に持ったプリントを見る。
「おや、もしやその手紙を届けてくれたのかい。全く、僕の担任も遂に嫌になったのかな。ともかくありがとうね。君、名前は?」
「朝日 晶と言います」
その人は流していた映画を止め、スクリーンの裏へ歩き出した。
「晶君はコーヒー派? 紅茶派?」
「コーヒーですけど……」
正直コーヒーは飲めないが、一時コーヒーをかっこいいと思っていたときの癖で答えてしまった。
「砂糖とミルクは?」
「無しで」
やってしまった。ブラックなんて絶対に飲めない。当時はマヒしていたのか平気で飲んでいた気がするが、今は全く飲もうという気がしない。
なぜかコーヒーの香りがする。もちろんここは家庭科室などではなく、AV教室だ。
「お待たせ。濃い目のコーヒーだよ。アハハ、勝手に軽くつまめるものを常設しちゃった」
「駄目でしょう」
「いいのさ。さ、せっかく会いに来てくれたんだ。コーヒーの一杯くらい話していきなよ」
いきなり知らない先輩にコーヒーを勧められて話せと言われることほどつらいこともなかなか無い。何か話題は…………
「そういえば、先輩、有名人だって聞いたんですけど、どうしてなんですか。何かすごい才能があるとかなんですか? 何組なんです?」
「聞いて来なかったのかい。僕は才能を持たないんだよ。一応I組だけれど」
「才能を持たないのに上3組……」
僕もそうなんです。だから困ってるんです。そう言おうとしたが、その前に先輩が言葉を発した。
「ま、僕が有名なのは、クラスの僕以外の全員が不登校になったからだと思うよ」
結局その後、小一時間先輩と会話をして戻った。先輩は流れるように言葉を発し、つまらない世間話でもすっと耳に入ってきて楽しかった。また、話し上手は聞き上手と言うように、僕が何か話すと抜群のタイミングで相槌を打ってくれてついつい普段より饒舌になってしまった気がする。
ああ、九九にはすぐ戻ると言っていたのにな。まだ待ってくれているだろうか。悪いことをしてしまったかもしれない。早く戻って一緒に帰ろう。
最後まで口を付けずに冷め切ってしまったコーヒーはとても苦そうだ。