ご主人様と私
時刻は午前9時、大学近くのベーグル屋さんに杏はいた。店内は北欧家具で揃えており、女子に人気の店だ。狭くも広くもないこの店の店主である若い男は女子の好きそうな綺麗な顔立ちおしており、店の人気に拍車をかけていた。
そんな人気店だが、午前中は比較的空いている。学生が多いので、午前中の授業を取っていない生徒が多いのか、はたまた朝が苦手な学生が多いのか、真相は分からないがとにかく午前中は穴場なのだ。
「私の前世はね、犬だったの」
杏の言葉に、注文された照り焼きチキンベーグルを運んでいた店主の根岸 孝一は目を瞬かせた。
「そっか、じゃあ俺は猫だったかな」
伊達に接客業を営んでいるわけではない。素早い切り替えで返した孝一の言葉だったが、杏には少し不服だったようだ。
「根岸さん、その反応は絶対信じてないでしょ?」
ムッと眉を寄せる杏に、孝一は杏の前にベーグルを置いて自分も向かいの席に座った。
「いや、俺じゃなかったら病院に連れて行かれていると思うよ」
「だって本当の事だもん!」
「まぁ、杏ちゃんは犬っぽいよね」
杏は昔から事ある毎に周りから犬っぽいとよく言われていた。それは雰囲気や行動を指して言われる事だったが、杏にしてみれば本当に犬だったのだから当たり前の話だった。杏の記憶では前世は飼い犬であり、優しいご主人様によく遊んでもらった。最期はおそらく寿命で亡くなったのではないだろうか。
「そうじゃなくて、本当に犬だったの!」
「うん、そうだね」
にっこりと笑って話を打ち切った孝一に杏は不満だったが、ベーグルが冷めそうだと気付いて口を噤んだ。
午前中の常連である杏は、孝一とは比較的仲が良い方だ。孝一も特に煩くもなく、派手ではない杏を気に入っており店が暇な時はこうやって話すことも多い。
ベーグルを美味しそうに食べる杏に新メニューは何が良いかと雑談するこの時間が孝一は好きだった。
前世が犬だったと杏が公言した日から3ヶ月程経ったある日、いつものように午前中に顔を出した杏は少し興奮しているようだ。いつもはメニューを見て散々迷う杏だが、今日はメニューを見るわけでもなく真っ直ぐに孝一の元へ来ると空いている席へと引っ張った。
「聞いて!ご主人様に会えたの!」
閉口一番に言われた台詞に一瞬ポカンとした孝一だったが、3ヶ月前に杏が言った言葉を思い出した。
「前世の飼い主?」
「そう!」
幸せそうなオーラ全開の杏は、ほんのりと頬がピンクに染まっている。
『ご主人様』とやらの思い出を夢見心地に話す杏に、孝一は面白くなさそうに相槌を打つ。
孝一は誰が見ても分かる程不機嫌そうな顔をしているのだが、杏は話に夢中なのか全く気が付いていないようだ。
「ねえ!仲良くなれると思う?」
ニコニコと邪気の無い顔で尋ねられた孝一は複雑な気持ちになりながらも「なれるんじゃない?」と言葉を返した。
杏の話によると『ご主人様』は一学年上で、なおかつ違う学部の生徒らしい。懐かしい香りがしたから辿ると『ご主人様』に行き着いたという杏の嗅覚は大丈夫だろうか。
どちらにしても、一学年上で違う学部の生徒となれば仲良くなるのも難しいように思えた。そもそも、「前世は貴方の犬でした」なんていう女子と仲良く出来る人がいればそれは真性のサディストか何かだろう。
そう考え直した孝一は杏の好きな話をふることで『ご主人様』の話を終わらせることに成功した。
*****
最近の杏の話は『ご主人様』の話ばかりだ。今日はちょっと寝グセがついていただの、甘い物が好きらしいだの。正直、孝一にとってはどうでもいい情報ばかりを教えてくる。結局『ご主人様』に話しかける事が出来ていないらしい杏は遠目で一生懸命『ご主人様』を追いかけているらしい。他の人から見たら立派なストーカーである。その様子を想像した孝一はいつか杏が通報されないかとヒヤヒヤしているのだが、本人は幸せそうだ。
毎回話の最後はいつも「仲良くなりたい」で終わるのだが、今日はどうやら違うらしい。
「今日はね、絶対話しかけようと思うの」
決心した杏の表情から、本当に話しかけるつもりなのだと確信した。
間違っても通報されないようにと言い聞かせて杏を見送った孝一は、複雑な気持ちだった。毎日のように『ご主人様』の話を楽しそうにする杏の、仲良くなりたいという願いが叶って欲しいと思う半分、失敗すればいいのにと思う自分がいた。
「根岸さーん!聞いてください!ついに!ついに私は『ご主人様』と友達になりましたよ!」
翌日、いつものように午前中に顔を出した杏は、店に入って来るなり孝一のいるカウンターまで一直線にやって来た。
どういう話をしたのかは分からないが、どうやら『ご主人様』に上手く話し掛けることが出来たらしい。
「土曜日は一緒に映画を観に行くんです!」
いきなり仲良くなり過ぎだと思う。
「え、ちょっと展開早くない?二人きりとかじゃないよね?」
相手のいいようにされているだけではないだろうかと孝一は心配になった。いくらなんでも知り合ってすぐに(杏が一方的に知っていたことは除いて)映画の約束をする男はどうなんだ。
「うふふふふ、二人きりですよ!デートですよ!」
「うわぁ、もう絶対騙されてる。杏ちゃんは女の子なんだから、もう少し警戒しないとダメだと思うよ?」
「心配し過ぎですよーご主人様に限って変なことはしません!」
断言出来ます!と鼻息荒く喋る杏に、孝一は頭を抱えた。
前世が良い人だったからといって今世も良い人とは限らない。前世の飼い主だからと無条件で杏に好かれる『ご主人様』が孝一は嫌いになっていた。
土曜日、天気は快晴だ。
杏は散々今日の服に悩んだ結果、寝不足気味である。
いつもは履かないヒールを足に引っ掛けてヨタヨタと覚束ない足取りで待ち合わせ場所に向かう杏は、側から見ると酔っ払いのようだ。
待ち合わせ場所に着いた頃には靴擦れが酷く、立っていられなかった。
「失敗したー」
「ほんとバカだよね」
返されると思っていなかった言葉に返事が返ってきたことに杏はビックリして声の主を見上げた。
「え、なんでいるんですか?」
「心配だったから?」
「今日はご主人様とデートなんです。根岸さんはお呼びじゃありません」
杏はいつもの軽口のつもりで言った台詞なのだろう。しかし、孝一は杏の言葉に苦虫を噛み潰したような顔をして、気付けば口に出すつもりもなかった言葉がついて出ていた。
「昔から『ご主人様』ばっかり。せっかく今世で巡り会えたのになんでそうなの」
一緒に遊んであげたことも、ご飯を少し分けてあげたことも、ご主人様が関わらない全てが杏にとってはどうでもいいことだったのだろうか。
いつだって側にいたのは自分の方なのに、杏はちっとも思い出してはくれない。ジワリと視界が滲んだ気がして慌てて目元を手で覆い隠した。
「え、ちょっと根岸さん?泣いてるんですか?」
「泣いてない」
「もの凄く堂々と嘘つかれてるんですけど!あと今世ってどういう意味ですか!」
指の隙間から、わたわたと慌てている杏の姿が見える。格好良くありたいのにどうにも上手くいかない。
「えーと、杏ちゃん?」
いつからいたのだろうか。杏を伺い見るように小首を傾げた美少女が目の前にいた。申し訳なさそうにチラリと孝一を見ることから、杏に声を掛けるかしばらく迷ったのだろう。
「ご主人様!」
美少女の言葉に、杏はそれこそ犬の姿であったら耳や尻尾がピンっとなるほどに反応した。
「ちょっと!杏ちゃん!ご主人様は止めてよー!」
困ったように笑う美少女が杏のいう『ご主人様』なのだろう。
…うん?美少女?
孝一は混乱した。
いや、だって前世ではたしか…
驚きのあまり凝視してしまっていたのか、美少女は居心地が悪そうに身じろぎした。
後で知った話だが、女子の言う『デート』には同性も含まれるらしい。
*****
「コウ、今日から家族になるアンだよ。仲良くしてね」
ある日、俺の飼い主はそう言って1匹の子犬を連れてきた。
まるっとした子犬は俺を見て少し警戒していたが、次の瞬間には近寄ってペロペロと舐めてくる。実に不愉快であったが、自分が先輩になるのだ。そう言い聞かせて面倒をみてやることにした。
この家にアイツが来てから3カ月、毎日『ご主人様!』と煩い上にその『ご主人様』がいない時は構ってくれとばかりに甘噛みしてきたり小さなイタズラを仕掛けてくる。
大抵は無視するのだが、たまにはいいかと遊んでやることも多くなった。『ご主人様』がいない時は自分にベッタリと寄り添うようについてくる子犬をいつしか嫌いにはなれなくなっていた。
それでも『ご主人様』にはいつも勝てない。
今日も元気に『ご主人様』に駆け寄って行く子犬を横目で見ながら、気のないフリを装うことで淋しさを誤魔化した。
「どうして言ってくれなかったんですか?」
相変わらず午前中の常連である杏は孝一のいるカウンターにもたれ掛かって不満気に孝一を睨んだ。
「何のこと?」
「しらばっくれないでください」
孝一は棚卸の手を止めて杏と同じようにカウンターにもたれ掛かった。
「自分ばっかり覚えているのって何だか癪だと思わない?」
孝一の言葉に杏はウッと言葉を詰まらせた。杏がコウのことを思い出したのは『ご主人様』とのデートの日、自宅に帰って犬猫特集の番組を観ていた時だ。今までどうして忘れていたのか。孝一の「今世」という言葉がトリガーだったのかもしれない。
「…いつから私がアンって分かったんですか?」
「さあ?いつからかなぁ」
にっこり笑って孝一は話を強制的に終わらせた。根岸さーん!と煩い杏の鼻を摘んでからかう孝一の顔はどこかスッキリしたように見える。
ご主人様の飼っていた動物は2匹。
1匹は人懐こい子犬。
もう1匹は気紛れな黒猫。
前世ではいつも一緒だった2匹が今世ではどういう関係になるのかは、まだ分からない。