■加藤玉美編(肆)
「遂にこの日を迎えてしまったか……」
大きな窓から差し込む日差しを正面に受け、外の景色を見つめながら正清は残念そうに呟いた。
「俺の力が至らなかったばかりに……おやっさん、すみません」
「――気に病むな。お前は良くやってくれた」
そのまま力弱く椅子に腰掛けた正清に山本は詰め寄る。
「しかし、いくら御大将に命じられたからと言って、前田組にお嬢を取られなくちゃいけない道理はありません!」
「仕方ない、竜之介君の記憶が戻らない以上、わしは親父には逆らえる術がないのだ」
「記憶さえ戻っていれば、『愛し合う二人を絶対に引き離す事は出来ない』と親父に突っぱねる事もできたのだが……」
「今の二人があの状態では、『あの作戦』は実行出来ない。残念だが――中止だ」
正清の言葉を聞いた山本は机から後ずさると、天を仰ぎながら手で自分の顔を覆った。
「記憶の戻った竜之介を試合会場に『殴り込ませ』、試合で優勝して、お嬢と前田のボンクラ野郎との婚約発表をぶち壊す――その筈だったんですが」
「神様は機嫌を損ね、それを許してはくれなかったみたいだな……仕方が無い、諦めよう」
「――はい……」
山本は深々と下げた頭を暫く上げる事が出来なかった。
竜之介は今日の試合に赴くため、たこやきの道具を揃えながら、昨晩の事を考えていた。
「全部……俺のせいって、一体どういう事なんだ?」
荷物を持って廊下に出ると、子分達と目が合う。
「あ、竜之介さん、おはようごぜえやす」
「竜之介さん、今日は兄貴の変わりに頼みますぜ!」
「絶対『松』をとって、お嬢が竜之介さんと楽しみにしていた――」
子分の一人がそう言い掛けた時、もう一人の子分が慌てて制止する。
「お、おいっ! この馬鹿っ!」
「あっ! そうだった! つい――!」
何かを思い出したように、両手で自分の口を塞いだ。
「そろそろ試合会場に行く時間ですよね、師匠は何処だろう?」
「え? 兄貴ですか? えーと……何処でやしょうかね? と、とにかくあっしらはちょいと急いでますんでこの辺で! 行くぞ、この馬鹿っ!」
「いででででっ!」
そのまま耳を引っ張りながら、竜之介から逃げるように立ち去ってしまった。
「……何だか様子が変だな」
腕組みをしながらその場で考えこんでいると、山本が此方側に歩いてくるのが目に入った。
「あ……師匠」
「――竜之介……」
山本の雰囲気が何処か違っているのを感じながら、気になっている事を口に出した。
「あの……昨日、俺に言ってた事なんですが、あれはどういう意味なんですか?」
説明を求める竜之介に対して山本の答えは予想だにしないものだった。
「ああ……昨日、俺が言った事は全部忘れろ。『今の』お前には『もう』関係ないからな」
「今の――俺?」
「そうだ。だから今日の試合は、もう出なくてもいいぜ。全部終わりだ」
山本の言葉は今日の為に何度も辛い修行をしてきた竜之介にとって衝撃的な物であった。
「え? 出なくていいって? それってどういう意味――」
「――言葉の通りだ。今日までお前を振り回して悪かったな……誰でもいい、竜之介を車で棋将武隊まで送ってやれ」
大事に飼っていた犬をいきなり道端に捨てる様な感じで山本は子分に命じる。
「へい、兄貴。あっしが送ってきやしょう」
「頼んだ……俺は今からすぐ試合会場へ向かう」
その言動に全く理解出来ない竜之介は少しむっとした表情を浮かべて山本に食い掛かろうとする。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! ちゃんと説明してください! 俺には何がなんだかさっぱり――」
「竜之介さん、表に車を回しやすんで、支度を整えたら出てきてくだせえ」
すかさずその間に子分が割り込み、竜之介を宥めた。
「師匠! 何で全部終わりなんですか!? 師匠、師匠!!」
立ち去って行く山本に必死に問い掛ける竜之介だったが、山本の足は止まらない。
「仕方がねえんだよ……馬鹿野郎が」
聞こえない言葉を呟きながら、山本は竜之介から完全に姿を消してしまった。
「何だよ……何が駄目なんだよ」
その場に一人取り残された竜之介は呆然として外に向かっていたが、その途中、あの通路に差し掛かると其処で思わず足を止めた。
「この通路の奥にはあの玉美さんが居た部屋があるのか……」
「何でここに入ってはいけなかったのかな……」
暫く考え込んでいた竜之介は何かの答えを得たいが為に、その領域へと一歩足を踏み入れた。幸い監視をしている子分達は皆、出発の準備で玉美の部屋から離れていた。竜之介は部屋の前まで来ると、再度子分達が此方側に来ないか辺りを確認した。
「ここが、玉美さんの部屋か……勝手に入るのは心苦しいけど、どうも何かが引っ掛かるんだよな」
レバーを引く。鍵は掛かっておらず、扉は何の抵抗も無く簡単に開いた。恐る恐る部屋に入った竜之介は本能的にあちこち見回し始める。
「ん……?」
やがて、机の上に置かれたフォトプレートに目が留まった。何も映っていない透明なフォトプレートに竜之介がそっと手を振れると、其処に竜之介と玉美が仲良く収まっている画像が何枚も映し出され始めた。
其処は戦場だったのだろうか、二人は武装したまま、「角組」のマントを翻しながら仲良く画像に収まっていた。
「お、俺が角組……?」
また、ある場所で玉美と竜之介が釣りをしている。良く見れば隅っこにサングラスを掛けた男――山本が怪訝そうに映っていた。更に画像が進むと、この屋敷の中庭で白馬の前に嬉しそうな表情をしている二人と……やはり隅っこで山本が収まっていた。
「――え? 何で俺と玉美さん(おまけに師匠)が此処で一緒に写ってるんだ!? 俺は玉美さんの何なんだ?」
「はは……俺はもしかして……恐ろしく大事な事を忘れているんじゃないか……?」
目の前の真実に、竜之介の頭は混乱し始めた。
「くそっ! 思い出したい! でも、でも! 何も思い出せない! 俺はどうすればいいんだっ!?」
「何なんだよ……畜生っ!」
突然襲って来た頭痛に耐え切れず、思わずその場にしゃがみ込む竜之介。その傍らで転がっている物の気配に何となく気付き、視線をその方向に向けた。
「針鼠の……縫いぐるみ?」
震える手で縫いぐるみを掴み、その両目をじっと見つめる。竜之介にとってその縫いぐるみは何故かとても懐かしく、尊い物に感じていた。このまま何か語り掛けてくれる――そんな時だった。
『情けがない奴だのう、それでも青き風を司る者か?』
竜之介の耳に突然、聞いた事のある声が飛び込んできた。
「うっ! 師匠すみませんっ!」
すぐに本能が記憶を引き出し、口を開かせた。その瞬間、竜之介は思わず息を飲んだ。
「あ……あ! あああっ! し、師匠、師匠っ! て、天竜師匠っ!」
「そうだっ! あんたは天竜師匠だっ! そうだろ? 師匠っ! 何とか言えよ!」
竜之介はぶんぶんと揺さぶって見たが、その縫いぐるみは何も答えなかった。
「あ、あれ? おかしいな? 師匠、何で何も言ってくれないんだ? さっきのは気のせいだったのか!?」
「――ああっ!!」
そこで、本当に大事な事に気付く。
「俺はこんな所で呑気にしている場合じゃねえっ! 俺は一体今まで何をしてたんだ! そうだ、こいつは――『玉美』は……」
「俺の『彼女』じゃないかあああっ! うわあああああっ!」
更に昨晩、一度自分(宗政)が勝利した相手を思い出し、更に怒りが爆発し始める。
「くそぉおおお、前田の野郎、俺が記憶を失っている事を良い事に言いたい放題言いやがって……だんだんムカついてきたぞ!」
「と、とにかく俺も早く試合会場に行かねばっ!」
どうしたものかと慌てている時、フォトプレ―トの横に並べて置かれていた玉美の「馬型」に気付く。
「――こっ、これは!!」
「竜之介さん、遅いでやすねえ……一体何をしているんだか……」
竜之介が表に出て来ない迄の経過時間は車の前で退屈そうに待つ子分の足元に転がった煙草の本数で分かる。その本数がもう一本増えようかとした所でようやく竜之介が表に姿を現した。
「あ、やっと来た!」
「全く、何手間取ってたんすか。あっしも急ぎの用を控えてるんで、とっとと車に乗ってくだせえ」
時計を気にしながら、子分は運転席へ急いで乗り込む。
「ああ、わりい――でも」
「俺を棋将武隊へ送り返す必要は無くなったぜ」
「へ? 竜之介さん、それってどういう意味でやすか?」
鳩が豆鉄砲を食らったような顔で運転席から顔を出して竜之介を見ていたが、その手に握っている物を見て我を取り戻した。
「そ、それはお嬢の馬型じゃあないすか、何でそれを竜之介さんが持ってるんですかい?」
「それはな……こいつが俺を『主』として認めてくれた馬だからだよ!」
そのまま、馬型を翳すと馬型が光り始め、青い瞳を持った白馬が姿を現した。
「――あの夜、中庭にいたのはお前だったんだな。 気付いてやれなくてすまん!」
『ぶるるるる……』
「問題ない」そう語り掛けるように白馬は頭を竜之介に摺り寄せた。竜之介はその頭を何度か優しく撫でると、勢いよく飛び乗った。
「よし、俺を連れて行ってくれ! 玉美の居る場所へ!」
力強く手綱を引くと白馬は大きい鳴き声で咆哮し、前足を高々と掲げた後、物凄い勢いで駆け出し始めた。
「あ……あれ、竜之介さん! おーいっ!!」
事態が飲み込めない子分は砂煙を上げて立ち去る白馬を目にして、その間抜け面を暫く運転席から晒しているのであった。




