■葉月編(弐)
十洞山の山奥、何処かに存在していると言われている「犬獣族の里」。揺らめく蝋燭の炎を堺にして長老と、一人の男が向き合っている。
「――何だって? 俺が留守をしている間に葉月が十洞山を下りただって?」
「ああ、そうじゃ。この前、チェスに操られた狼獣族共がこの里を襲って来てのう……」
「――この里が襲われた!?」
男は腰を浮かして、両脇のホルダーに差した短剣を激しく揺らしながら長老を睨んだ。
「まぁ、そんなに慌てるな……」
長老は目を閉じ、微かな湯気を立てている湯呑をゆっくりと口に当てながら、その男を宥めた。
「そんな一大事を聞かされて、落ち着いてなんかいられるかっ!」
男が居ても立っても居られない様を感じた長老は閉じていた目をゆっくりと開けると、
「ふん……お前は里の事よりも、山を下りた葉月の事が気になってしょうがないだけじゃろう?」
と、言って長い時間を生きた証でもある口元の皺を何十にも重ねながら笑った。
「ううっ!」
本心を突かれた男は一瞬動揺を顔に出し、「ふん!」と鼻を鳴らして、再びどかっと床に腰を降ろすと、
「――で、それと葉月が山を下りた事にどう繋がってくるんだ?」
と、怪訝そうな顔を浮かべ湯呑を強引に掴む。そして男はそれを一気に口へ押し当てたが、予想だにしない熱さに思わず舌を出して、声を上げてしまった。長老は男の情けない様を見ながら溜息交じりに、
「お主とあの男では比べものにならぬかのう……」
と、意味深な言葉を漏らした。
「ちょ、ちょっと待て! じいさん、今何と言った!?」
男が「あ」と思った時にはもう手遅れだった。長老の傍に置いてあった杖が消え、気付いた時には男の頭上に現れて、心地良い音が木造の屋敷の中で響いていたのだった。
「誰が、じいさんじゃ。長老と呼べ、長老と……」
再び湯呑を口に当てる。男は頭を摩りながら、長老の漏らした「あの男」について問いただした。そして長老からその男が人間である事を聞くや否や、再び腰を浮かせて驚きの声を上げた。
「に、人間の男だと!? そんな輩がこの里に足を踏み入れたというのか! じいさん、あんたは一体何をやって――」
再び心地良い音が屋敷に響く。
「お主は、人間と聞くと、直ぐにそうやって目くじらを立てる。誰もかれもが悪い者と決まっておる訳ではなかろう? 現にあの者――竜之介は己の力でこの里を救ってくれたのじゃ」
「痛うーっ、さ、里を救おうが、に、人間は駄目だ! あんな心が腐ってる生き物なんか信用ならねえ!」
「――そうだ、忌々しい人間め……思い出すだけでこの右目が疼くぜ」
男は自分の右目に刻まれた刀傷を押さえながら呟く。
「成程……。そうか、人間では駄目か。では、お主はその男が、もし我々と同じ犬獣族になったとしたら依存は無い、そう言うのじゃな?」
と、言って手に持っていた湯呑をゆっくりと床に置いた。長老が言葉にした「犬獣族になる」という深い意味を知っていた男は、手に持っていた湯呑をそのまま床に落として固まってしまった。
「う、嘘だろ……長老、も、もしかして葉月がこの山を降りた理由って……」
「――そうじゃ。葉月は竜之介を我々と同じ犬獣族にしようと、山を下りたという訳じゃ」
「はは……その秘薬を持ち出したって事は、まさか、まさか」
「無論、竜之介を伴侶にする為じゃなあ、ほっほっほっ」
「そうかぁー。そいつを旦那になぁ、成程、ほっ、ほっほっ――じゃねえええっ!!」
男は勢いよく立ち上がり、眉を思いっきり吊り上げ、「冗談じゃねえ!」と床を足で踏み鳴らした。
「お前が何を言おうが、とうに葉月の心は竜之介へと傾いておる。潔く諦めろ」
長老は既に竜之介を暖かく里に迎え入れるつもりなのだろう。全く動じてはいない。と、いうよりも葉月の願いを聞き入れたのはその秘薬を管理している長老その本人であった。
「葉月の目はそれはもう、真剣そのものじゃった。わしは今まであの様な葉月を見た事は無い」
と、目を細めながら、長老は言った。男は両肩を震わせながら長老を見据えると、
「ふざけるな! 長老、あんたがその竜之介って奴を認めようが、俺は絶対に認めねええっ!」
と、勢い良く踵を返し、扉の前まで走り出す。
「――待つのじゃ、彪舞、お主一体何処へ向かう気なのじゃ?」
空気の流れを止める様な長老の呼び掛けに、彪舞はくるりと向き直ると、既に目の役目を終えているであろう、生気を失った右目を細めながら、
「知れた事よ、俺がその竜之介という奴から葉月を取り戻すのさ……!」
と、言って両脇の短剣を抜き、だらりと下に下げ、その両刃を鈍く光らせた。そして、黙って再び短剣をホルダーにしまうと勢いよく外に飛び出して行った。
「やれやれ……どうしたものかのう」
床に転がった湯呑を見ながら長老は溜息交じりに呟く。
「葉月……俺がお前の目を覚まさせてやる!」
武動の大蛙に乗り込んだ彪舞が思いっきり手綱を引くと大蛙は勢いよく空中へ飛び跳ね、月明かりで模られた大きな影は木々の頭上を覆う。彪舞は頬で夜風を受けながら、何処となく冷い物を感じていた。
「あ、えーと、葉月ちゃん?」
竜之介は目の前に座ってにこにこと微笑む葉月を見て、どうしていいものかと困惑していた。
「はい、竜之介さん何でしょう?」
葉月は嬉しそうに耳を立て、尻尾を左右に振っている。それをねこじゃらしを振らされた猫の様に竜之介は何となく目で追っていた。
「俺達こうやって向き合って座ってからかれこれ一時間以上経っているんだけど……」
と、申し訳なさそうに言うと、
「はい、ですからなんなりと葉月にご命令ください!」
と眩しいばかりに微笑んだ。
「なんなりと言われても……」
その返答に竜之介が困っていると、葉月が両手を机に手をついて身を乗り出して
「いいえ、絶対竜之介さんにはある筈なのです、葉月にして欲しい事が!」
と、眦を上げ大きな瞳で竜之介を覗き込んで来た。「して欲しい事」その言葉を聞いた竜之介の脳内で、もやもやと煙が立ち込め始め、やがて風呂場がなんとなく見え始めると葉月と竜之介があらぬ姿で一緒に居て、そこで竜之介は葉月に、否、葉月の頭を嬉しそうに洗っている姿――竜之介が「したい事」が浮かんで来たのだった。
「いやいやいやっ!」
顔を真っ赤にして掌で掻き消す姿を葉月はきょとんとした顔で見ていたが、やがてぱっと明るい表情を見せると、
「あ、今、葉月にして欲しい事が浮かびましたね! 竜之介さん、遠慮しないで、どうかそれを葉月に命じてください!」
と、先程より更に距離を詰めながら竜之介に迫ってきた。「さぁ! さぁ!」とい凄い剣幕に押された竜之介は思わず後ろに仰け反り、そのまま倒れてしまった。
「ああっ! 竜之介さん、だ、大丈夫ですか?」
と、心配して駆け寄り声を掛ける葉月に竜之介は頭を摩りながら、
「ああ、大した事ない。それよりも葉月ちゃんは俺じゃない、他の誰か――そういう相手はいないのか?」
竜之介が問い掛けは当然の事であろう。葉月からは何処となく気品が漂っており、一つ一つの仕草に思わず安堵さえも覚えてしまう。それは葉月が獣系で本能的に癒されているから――と、いう事では無い。
だが、その質問はまずかった。一瞬にして周りの空気がどよみ始めたかと思うと、葉月の顔が雨雲のように曇り始めたからだ。
「葉月にそんな相手は……」
言いかけて、葉月は里でぶっきらぼうな口調で破顔しながら自分に話し掛けてきた男――彪舞の姿が頭を過った。口元を波型の様にして少し頬を赤らめた葉月は首が何処かに飛んでいくんではないかと心配してしまいそうなくらいぶんぶんと横に振った。
「そんな相手はいません! そんな事を言う竜之介さんは意地悪なお方なのです!」
と言って、葉月は釣り上げられた河豚の様に頬を膨らませ、両手でぽかぽかと竜之介の胸板を叩いた。
「え? あ、ごっ、ごめん、葉月ちゃん可愛いからつい――本当、悪かった!」
必死で謝る竜之介の胸元で葉月が顔を上げると、先程あれほど怒っていた葉月の顔が一変して何とも閉まりの無い顔に変わっていた。
「そ、そんな可愛いだなんて……葉月は照れちゃうのですよ」
と言って、床にのの字を書き始め、身体をくねくねと捩り始める。その様を目の当たりにした竜之介は、「女の娘って、つくづく分からない生き物だな……」と、心の中で呟いた。
「……ところで、竜之介さん、葉月へのお願い事は決まったのですか?」
何時の間にか命令がお願いへとすり替わった。
「いや、いきなりお願いとか言われても、急には簡単に出てこない――そうだ!」
竜之介は葉月から慌てて離れると、
「ち、ちょっと俺、風呂に入って、何かお願いするか考えて来るから暫く此処でのんびりしててくれ」
と言って、直ぐに答えられない問い掛けから脱出する。そのまま立ち上がり、風呂場に逃げ込む竜之介の背中を何気なく見ていた葉月の両目が、突然怪しい光を放ち始めた。
「ううむ……困ったぞ。俺は何を葉月ちゃんにお願いすればいいのか……」
シャワーのお湯を滝行の様に受けながら、竜之介が悩んでいると、背後の扉が徐々に開き、
「り、竜之介さん……葉月入っちゃうのですよ」
と、言って目をきゅっと瞑り、顔を赤らめながら葉月が風呂場に入ってきた。
「ん? 今、葉月ちゃんの声がした様な……?」
「はは、まさかね」、そう思いながら竜之介がゆっくりと後ろを振り返った時、居ないであろうと思っていた葉月が布一枚で身体を覆い、着痩せして隠されていた豊満な胸の谷間が布の隙間から強調するかの様にその美しい線を描いていた。
「どわああああっ!?」
「きゃっ――!」
奇声を上げた竜之介に驚き、葉月も可愛い声を発して、バランスを崩してしまい、体勢を立て直そうと目の前のホースを握って、必死に踏ん張ろうとした。
だが、華奢なホースがその重力に耐えれる筈も無く、次第にホースの根元が外れると、そのまま後ろに倒れ込んでしまった。
その根元から、大量のお湯が一気に横へと噴き出すと、あっと言う間に葉月を水浸し、否、お湯浸しにしてしまった。
「は、葉月ちゃん! 大丈夫――」
竜之介の言葉が急に止まる。それは目の前の葉月がお湯に浸しになり、濡れた布からくっきりとその滑らかな曲線が浮かび上がっていたからだった。
「あう……」
起き上がった葉月の耳からぽたぽたと滴が落ち、顔は前髪のカーテンで殆ど隠れていた。その悩ましい姿を目の当たりにした竜之介は、何かが頭の中で大きく弾けた。
「は、葉月ちゃん、そ、そんな危険な仕草をされると……俺は……俺は!」
と言って、震える両手を伸ばし始めた。葉月は、
「あ、りゅ、竜之介さん……!」
胸の鼓動を早く感じながら、ゆっくりと近付いてくる竜之介を見つめた。
「だっ、駄目だ! 俺はもう、我慢出来ないっ!」
「りゅ、竜之介さん! は、葉月も――竜之介さんでしたらっ!」
「は、は、葉月ちゃんんん!」
「ああっ! りゅ、竜之介さああんっ!」
――数分後、風呂の椅子にちょこんと座らさせ、竜之介に頭をわしゃわしゃと洗われている葉月の姿が添え付けられている鏡に映し出されていた。
「ああ……俺は幸せ者だなぁ……」
満足そうに呟いた竜之介に対して葉月が、
「竜之介さん、何かが、何かが間違っているのですよおおっ!」
風呂場の中で、葉月の悲痛な叫び声が空しく響き渡った。




