■武田瑠璃編(壱)
記憶が断片化してしまった竜之介。ベットの上で隊長達の顔を見ながら何らかの記憶を必死に手繰り寄せようとするが、その度、頭に激痛が走った。
「あぐっ! あぐあああ……!」
溜まらず両手で頭を押さえる。その痛ましい竜之介の姿を見ていた主張性の無い、ネガティブな隊長の一人が勇気を振り絞り、身体を震わせながら竜之介の近くに歩み寄った。
「竜之介さん……落ち着いてください。あ、焦っては駄目です。こ、こんな私が落ち着けとか言う資格なんて、な、無いと思うけど、でも、無理をしては、だ、駄目なんです」
その以外な行動に周りの隊長達が驚きの表情を見せた。何時も自分を前に出そうともせず、戦に於いては隊長でありながら、己の武器でもある弓も満足に引けない女――武田瑠璃が初めて見せた『勇気』だったからだ。
竜之介は瑠璃にゆっくりと視線を向ける。目の前に立って両手を握り、身体を生まれたての雛の様に小刻み震わせている瑠璃を竜之介は呆然と見ていた。
突如、竜之介の頭の真っ白な紙に何かが描き出され始めた。紙の上を走る線はみるみるうちに二人の人物像を描き上げる。
――誰だ? 一人は……玄真さんか。あれ? その横にいる女の娘は……確か……。
「――瑠璃さん?」
竜之介が瑠璃の名を口に出した瞬間、瑠璃の円らな瞳が大きく見開いた。
「り、竜之介さん! あ……あ、ああ! そ、そうです。わ、私は瑠璃です。わ、私の事を、お、思い出してくれたんですね!」
「ああ……でも、名前だけなんだ、ごめんな」
「そっ、そんな! わ、私は名前だけでも思い出してくれた事が、と、とても嬉しいです!」
瑠璃の名を思い出した後、各隊長達が自分を指を差し、なんとか思い出して貰おうと努力したが、竜之介は瑠璃以外の名を思い出す事は無かった。
死の淵から蘇った竜之介が瑠璃の名を思い出した事は直ぐに玄真の耳に入り、玄真は竜之介を自室に呼び寄せた。
「……元治がお前を抱き抱えていた姿を見た時は流石に諦め、目を瞑ってしまったが――竜之介、良くぞ生き返って此処に戻ってきた」
「玄真さん……でも俺は何も思い出せなくて……」
悔しそうな表情をする竜之介を見ながら玄真は突如大きな声で笑いだした。
「なんて事だ、こんな奴にこの俺が敗れ、考えを改めさせられたとはな!」
「ええ!? 俺が玄真さんと戦って――勝った!?」
「ああ、そうだ。竜之介、お前は俺の考えを力でねじ伏せ、俺達兄妹に一つの可能性を与えてくれたのだ」
「一つの……可能性?」
竜之介は過去の自分がとても恐れ多い事をしでかしている事に驚き、困惑の表情を見せた。玄真は切れの良い目筋で竜之介を見ながら話を続けた。
「俺はな、お前に敗れた後、父上に初めて頼み事をしたのだ。『瑠璃を認めろ!』とな……」
「瑠璃さんを認める……? それは一体どういう事なんですか?」
玄真は長い間引きずっていた自分達の重い枷を取り外してくれた者が竜之介であった事を、本人が気付いていない事を察すると残念そうに溜息を付いた。
「……そうか、思いだせぬか。だがな、もう賽は投げられたのだ。お前は俺と共に武田の屋敷へ赴き、瑠璃の為にもう一肌脱いで貰う、いいな?」
「は、はい。でも俺は何をすれば……?」
竜之介の不安の言葉を聞くと、玄真は不適に笑った。
「――来れば分かる。そこで何としても俺達との記憶も取り戻して貰わねばな。明日の朝、お前に迎えをよこす。それまで部屋に戻り、明日の身支度をしておけ」
「わ、分かりました!」
外に出た竜之介が自室に戻る途中、人間では無い何か奇妙な生き物とすれ違った。
「な、何だ? 今のは蛙だったのか? それにしても二本足で立って歩いてたぞ?」
直ぐに振り返ってみるが、その生き物は既に竜之介の前から姿を消していた。気になり、一度は後を追おうとした竜之介だったが、明日に備えその足を止めて自室に戻り、準備を済ませて早めに寝床に付いた。
「……寝むれない」
緊張しているのか、断片的な記憶が自分を呼び起こしているのか、竜之介は真夜中に目を覚ます。
「ちょっと、外の風にでも当たってくるかな……」
軽く衣を羽織って外に出る。少し肌寒さが衣を通して竜之介に伝わった。少し歩いた所で自分に必死になって名乗っていた『須恵千葵』が武隊専用十洞山への登山口から入山していく姿が見えた。
「あれは……確か、葵さんだったな……こんな真夜中に一体何処に行くのだろう?」
何気に興味を持った竜之介は気配を殺し、葵の後ろを着いて行く事にする。葵はどんどん上へ上へと登って行き、やがて滝壺のある大きな広場に足を踏み入れた。
――あれ? あの滝壺、俺は以前に見た気がする……それに周りに散らばっている我楽多達は確か……。
竜之介は懸命に記憶を辿ったが、それ以上は何も思い出せない。葵が滝壺の前で足を止めると、少し距離を置いた所に一人の男が姿を現した。二人の会話は滝の音が邪魔して良く聞き取れなかった。
――くそ、一体何を話しているんだ?。
「――ルク、例の薬は持ってきたのか?」
「――ガー、貴方も諦めの悪い方ですね、竜之介の事は聞いてますよ? 何でも貴方の事を忘れ去ってしまったとか」
――何だ? 今、俺の事を言っていなかったか?。
「煩い! いいからそれをさっさと寄こせ!」
「分かりました。ではこれを……」
「――ふん、早く渡せ」
二人が近付いた時、異変が起こった。突如、葵がその場で崩れ落ちたのだ。
「無様ですね。『元闇の女王』ドゥルガー……人間如きの餌に心奪われた貴方の心と体は、がら空きですよ……?」
男は嘲笑と共に忽然と姿を消してしまった。
「あ、葵さん!」
竜之介が慌てて葵の近くまで走った時、絶望的な葵の姿が竜之介の目の前に晒された。葵の胸は剣で貫かれたらしく、そこから止めどもない血液が溢れ出ていたからだ。
「くそっ! 葵さん! しっかりしろ!」
必死に傷口に手を当てる竜之介。だがその行動に意味は無かった。手の隙間からは血液が無情にもどんどん噴き出してくる。
「くそっ! 止まれ! このおっ! 止まれよおおおおっ!」
「――其処に居るのは……竜之介……か?」
葵が朦朧とした目を開いて竜之介を見たその時、使っていた疑似変身薬、シェルⅡの効果が切れ、葵の姿が次第にドゥルガーへと変化していった。その様を目にした竜之介は愕然とした。
「な、何だ! 何で葵さんがチェスに変わっていくんだ!?」
葵は竜之介の手を握りながら薄れゆく瞳を向け独り事の様に呟き始めた。
「はは……竜之介。やっと私を思い出してくれたんだな……遅いぞ、馬鹿者……」
「どうして、お前はこんな事をしたんだ!?」
竜之介は必至に葵へ呼び掛けた。
「私達……や、やっと二人一緒に、し、幸せ、幸せになれるんだな……」
ドゥルガーと竜之介の会話は狂った歯車の様に噛み合ってはいない。
「竜之介……何処だ? 私……もっと近くでお前の顔を見たいんだ……」
――何だ!? どういう事だ!? 何でこいつは敵なのに何故こんなにも俺を求める!?。
「……どうしてだ?」
竜之介の口から混乱の言葉が漏れる。
葵は最後の力を振り絞って竜之介の顔に両手を当てた。
「……さぁ、私と一緒に……帰ろう……お前は――となり、私と何時までも……何時まで……」
その言葉を最後に触れていた両手は力なく地面へと落ちる。竜之介の頬には葵の手に付いた血液で無常の線が描かれていた。
「教えてくれ! お前は敵なのに、敵な筈なのに! なのに何故お前を見ている俺の涙がこんなにも止まらないんだ! 何でこんなにも俺の胸が苦しい!? お前は一体俺にとってどんな存在だったというんだ! くっそおおお!」
葵を胸に抱きながら天を仰ぐ竜之介。ドゥルガーの青く艶のある髪が静かに風で靡いている。竜之介の叫びに同調するかの様に滝の音が轟く。竜之介はそのまま拠点へと戻り、その遺体を隊の者へ預けると自室で力尽き、死んだ様に眠るのであった。
どれくらい眠ったのであろう、目を覚ました竜之介は昨晩の出来事がまるで嘘だと言わないばかりの静かな朝を迎え、呆然としていた。
「夢……なんかじゃないよな……」
その答えは竜之介が一歩部屋から出て、「ドゥルガーが棋将武隊に潜り込んでいた」と騒いでいる隊の者の騒然とした声を聞く事で明確となる。その者達を横目に、竜之介は逃げる様に首を横に振って通り過ぎた。
表に出た竜之介は、決して辿り着く事の出来ない記憶を追わない様、深く深呼吸をした。すると気のせいだろうか、昨晩の悲しい映像が嘘の様に塵となって消え始めた。それは本能的なのか、意図的だったのかは竜之介には理解出来ない。
竜之介が石段の方へ向かって行くと、そこに武田の家臣が竜之介を早々と迎えに来ていた。
「貴方が竜之介様ですね? 玄真様から話は伺っています。此方へ……」
真直ぐ腰まで伸びた黒髪。己を極限まで鍛え上げたのであろうか、見るからに洗練され美しく引き締まった身体を持つ女は無駄口を叩きそうにない口を静かに開いた。
「私は武田家にお仕えする、凪と申します。これより竜之介様を屋敷までご案内いたします」
竜之介達が石段を下りると、石柱に馬が一頭、紐で繋がれている。
凪は馬を繋いでいた紐を解き、即座に跨ると無表情のまま、竜之介に手を差し伸べた。
「え? これに乗れと?」
困惑しながら竜之介は後ろに跨ると、どうしたものかと両手を泳がせる。凪は黙ったまま前を向いていたが、やがて感情の無い言葉を竜之介に投げ掛けた。
「竜之介様、早く私の腰に手をお回し下さい。でなければ何時まで経っても出発出来ません」
「え? ああ! そ、そうだね! ごめん!」
恐る恐る腰を掴む竜之介。
「――では、行きます」
手綱を引き颯爽と馬が駆け始めた時、その振動で不自然に腰を掴んでいた竜之介の両手が離れ、凪の豊かな胸を思わず掴んでしまった。
――うっぎゃあああああああああああ!。
馬が振動を起こす度、竜之介の手が凪の胸と共に小刻みに揺れる。
「……何をしているのですか、竜之介様? しっかり私の『腰』に手をお回し下さい」
凪は背中越しから何事も無かった様に平然と言う。
「す、すみません!」
竜之介の頭が真っ白になってから暫く時間が経った頃、馬は武田の屋敷の前に到着していた。申し訳なさそうに馬から降りた竜之介は反省のオーラを漂わせながら、そこに立ち尽くす。
「竜之介様、私の役目はここまでです。後はあちらの者の指示に従ってください」
業務的な口調で凪は淡々と言う。
――よ、良かった。凪さん怒ってなさそうだ。
「分かった。凪さん、俺を此処まで連れてきてくれて有難う」
頭を下げ踵を返した竜之介が凪から離れようとした時、突如軽く肩を叩かれる。
「――竜之介様、お忘れ物があります」
「え? 忘れ物――」
竜之介が振り返った途端、屋敷内に心地よい平手打ちの音が鳴り響いた。
「わはははははっ! 竜之介! 何だ? お前のその顔!」
顔の左側。見事に真っ赤な紅葉を咲かせた竜之介を見ながら、玄真が指を差して笑った。
「ううう……不幸な、不幸な事故だったんですよ……」
「あ、兄上、な、何があったか分かりませんが、そ、そんなに笑っては、竜之介さんが、か、可愛そうです」
「うははは! すまぬ、瑠璃。許せ、竜之介。普段感情を表に出さないあの凪がまさかお前に平手打ち等するとは夢にも思わなかった! 流石風雲児だけの事はある! うむ!」
言い終えてからまた吹き出す。和やかな雰囲気に包まれ、玄真を慌てて注意する瑠璃を見ながら、竜之介は心に安ぎを感じた。
――ああ……兄妹二人、仲良くなってくれて、本当に良かった。
「……あれ? 何で俺は今こんな事を思ったんだ?」
竜之介は本能的に記憶の一片に触れていた。だがそれは全てを引き出す物では無く、瞬時に掻き消えてしまった。
「さて……竜之介、本題に入ろうか」
場を仕切りなおした玄真は真っすぐに竜之介を見据えた。その雰囲気に圧され、竜之介は思わず息を飲んだ。
「今回、お前に来て貰ったのは、其処にいる瑠璃の為なのだ……竜之介、お前には話さねばなるまい、俺達に課せられた枷の事を――」
玄真は瑠璃が幼少の頃『射抜きの儀式』に失敗し、生きる資格を剥奪されていた事、また自分も父上に逆らう事が出来ず、自己暗示を掛け、瑠璃に冷たい態度を取っていた事を苦しそうに話し始めた。
「――という訳だ」
全てを聞き終えた時、竜之介の身体は震えていた。
「そんな事が……そんな事があっていいものか!」
怒りを露わにした竜之介が叫ぶ。
「竜之介……先祖代々、名誉ある家系にはそれぞれ重い掟という物が必ず存在する。それは決して覆らない物なのだ」
「そ、そんな――!」
唖然とする竜之介を見た玄真は苦笑すると言葉を続けた。
「覆す者など居なかった……お前に目を覚まさせられた俺を除いてな……」
「玄真さん……?」
「いいか竜之介。俺は瑠璃を武田の人間として正式に扱って貰う為、特別に『弓の儀』を取り行って頂く様、父上にお願い申し上げたのだ!」
「明日、武田一族の中で最も弓の腕に自信のある奴と瑠璃を一同の目の前で戦わせる。これに勝利すれば瑠璃は全うな人生を歩む事が約束される!」
「だが、敗れた場合は――」
「兄者、そこからは俺がそいつに言ってやろうか?」
障子の向こう側に見える男の影が不適に笑った。
「玄間か……盗み聞きとは頂けないな」
障子が無造作に開け放たれると、玄間が楽しそうに口を開いた。
「本家の持つ実権――その全てを分家の俺が貰い受けるという事さ!」
「――しかし、あの頑固者が兄者の意見を素直に聞くなんてなあ、正直驚いたぜ?」
「だが……それは愚かな事だ。みすみす実権を手放す事をするなんて、兄者の親父は馬鹿としか言いようがないな」
腹を抱えるような仕草を見せながら、玄間が嘲笑う。
「俺の事はいい。だがな……父上を愚弄するな……!」
「――くっ!」
玄真が鋭い視線を玄間に向けると、その迫力に押されて思わず後ずさりをした。
「は、はん! 今の内にせいぜいほざいているがいい、其処にいる武田の出来損ないが俺の所の達人に叶う訳が無いからなあ! かははははあっ!」
大きい笑い声と足音を響かせながら、玄間は部屋を出て行く。
「――と、言う訳だ。竜之介、お前は今日一日瑠璃の傍に付き、自分の記憶を呼び覚ますと共に瑠璃の持つ本来の力を呼び覚まして貰う。いいな?」
「お、俺にそんな大役が務まるのでしょうか……?」
「竜之介、務まる務まらんでは無い。お前はそれをやり遂げなければならない。只それだけだ」
「――は、はい!」
「り、竜之介さん。わ、私が、頑張ります! ご指南を、どうか、お、お願いします! で、出来るかどうかは自信ないですが……ああ、でも私、やはり駄目かも知れません、きっと負けてしまいます。そしてまた――」
「瑠璃、竜之介を信じるのだ。自由という空に向け、俺達を放ってくれた竜之介をな……」
「兄上……そうですね。わ、分かりました」
瑠璃の汚名挽回と武田本家の実権を掛け、全てを託された竜之介。未だ明確にならない記憶に戸惑いながらも、互いが真剣に見つめ合う兄妹の姿を目にした竜之介は、眦を上げ覚悟を決めるのであった。




