■上杉蛍編(肆)
桁外れの力を発揮し、ロスクを倒した竜之介は、突如霧の中から現れた秀光と自ら決着を付けるべく、風神を構え対峙している。
秀光は後方で警戒しながら魂狩を構えている蛍に目をやると、鋭い視線を細めた。
「……竜之介、ここに連れて来る女が違うではないか。せっかく我が生かしておいてやった桜子はどうしたのだ?」
蛍は桜子の名前を耳すると表情が強張り、竜之介は不思議そうな顔を曇らせた。
「桜子……?」
竜之介はその名前を初めて聞くような口ぶりで呟く。刹那、竜之介の脳裏に顔が隠れた艶のある黒髪を風に靡かせながら、微笑んでいる女が浮かんで消えた。
――誰だ? 今の人は? 俺が目覚めた時、あの場所には居なかった様な?。
その反応に気付いた秀光は、訝しそうな顔を浮かべ、ゆっくりと自身の首に掛けていた『影』を掴んで掌に載せ、竜之介に見せた。
「――竜之介、貴様はこれを取り戻しに此処まで来たのではないのか……?」
『影』の首飾りを見た瞬間、竜之介は大きな金槌で殴られた様な頭痛に見舞われた。
「う、おおおお……」
片手で額を押さ片膝を付く竜之介に心配そうな顔をして蛍が近寄って声を掛けた。
「り、竜之介、しっかりするにゃ! 秀光なんかに惑わされては駄目にゃ!」
竜之介を助け起こすと蛍は怒りを露わにして秀光を睨む。
「……桂組隊長……上杉蛍……」
蛍を一瞥した後、竜之介に視線を戻して冷ややかな顔をしながら嘆き始めた。
「なんという事だ……まさか竜之介が桜子との記憶を失っているとは……」
「ならば竜之介、貴様が持っている長信の獄龍の事は覚えておるか……?」
「獄龍? それは一体何の事なんだ?」
「――ぬぅ!?」
「これは予想外であった……我との戦いは覚えていて、肝心な獄龍が扱えぬ様になっているとは……」
秀光が苛立ちながら呟いた刹那、竜之介達に追いついた武隊の者が抜刀しながら次々と橋を渡り始める。その様を目にした秀光は一層苛立ちを露わにした。
「虫けら共が……」
吐き捨てる様に呟くと、伊弉祢を高々と掲げた。
「伊弉祢――魔手」
一気に伊弉祢を振りぬく。刹那、秀光の上空が瞬く間に闇で覆われ、それは次第に大きな闇の手へと変化する。
「……虫けらは全て死ね」
「な、何だあの悍ましい手は!」
武隊の一人が叫んだ瞬間、大きく開いた手が橋を竜之介達の上から覆い始めた。危険を察知した竜之介は後方へ向かって大きく叫んだ。
「まずいっ! 皆、避け――!」
橋毎一気に握り潰す。慌てて戻ろうとした者も足が空転し、叫び声と深い谷底へと落ちて行った。一瞬にして仲間が消えて退路は絶たれてしまった。失われた橋の先はどの位深いのであろうか、見当も付かない程深く、真っ黒な谷底が大きな口を開けていた。
「秀光! 貴様なんて事を――!」
振り返り叫ぶと、秀光は口元を歪め顔を強張らせている。更に手を反対側へと移動させて同じ様に握り潰し、自身の退路も潰した秀光は視線を地面に落としながら肩を震わせ始めた。
「なんて事だ……我の……物語を……変更せねば……」
秀光の後方で手が大きく開くと、役目を終えたかの様に消えていった。
「……竜之介、正当なるキングの血を宿している貴様が再び蘇り、我の前に現れる事は予想していたのだ……だが――桜子の存在を忘れるなどと……ぬぅ?」
欄干に大鎌の先をかろうじて引っ掛け、転落を免れた蛍に気付いた秀光は伊弉祢を向けながら、吐き捨てる様に口を開いた。
「何故だ? お互いこの逃げ場の無い舞台で貴様は敗れ、無様に奈落の底へと落ち、『貴様と共に着いて来る筈だった桜子』は力づくで我の物となるという、『美しい物語』の完成であったのに! 何故にこの女だったのだ!」
「秀光! 先程から意味の分からない事を言うな! 蛍さん! 頑張ってください! 今助けますから!」
「我の物語を狂わせた忌々しい女め――死ぬがいい!」
二人同時に地を蹴る。
秀光が狂喜の目付きで欄干毎斬り落そうとした刹那、竜之介が間に滑り込んで伊弉祢を風神で受ける。刹那、双方の凌ぎから火花が飛び散った。
「……何をする竜之介? こんな女、お前にはどうでもよいであろう? 我の邪魔をするな……」
「ふざけるな! 蛍さんは俺の大事な人だ! 貴様の好きにさせてたまるかっ!」
竜之介の口から以外な言葉を耳にした秀光は暫く唖然とし、次第に表情を険しくながらよろよろと後退し、距離を置き始める。
「……なんと、貴様は桜子では無く、今にも奈落の底に落ちようとしているそこの上杉蛍に惚れている、そう言うのか……?」
「ああ! そうだ! 俺は蛍さんが好きだあっ!」
「り、竜之介……」
片手で握った柄から次第に下へとずり落ちていく蛍が切ない表情を見せる。竜之介は無防にも身体を乗り出し柄に手を掛けようとする。その光景を見た秀光は首を横に振りながら発狂し始めた。
「ならぬ、ならぬぞ、竜之介! それは我の考えた『美しい物語』ではない! それでは何の面白みもないではないか! つまらぬ! 余りにもつまらぬぞおおおっ!」
「我はなぁ、チェスの研究を進めると共に一つの物語を書き始めたのだ。そう、貴様が棋将武隊に現れ、長信の亡霊を見せたあの日からな! それを見た時、我はもの凄く興奮し物語を執筆する意欲が沸々と沸いたのだ!」
「愛する男を失い、人形と化した桜子が長信の影を持つお前という男と出会って、生きる希望を再び持つ。貴様は剣の腕を磨き、どんどん強くなり、我と戦う地位まで登り詰める」
「だが、なんという事だ! 我は棋将武隊の王将を捨て、チェス界のキングとなる。反逆を実行に移す時、我は貴様を長信同様、奈落の底へと叩き落す! ああ、竜之介! 貴様はなんと呪われた運命なのだ!」
「そこから地獄の底から這い上がり不死鳥の如く蘇って来た竜之介は更に桜子と愛を深め、我を討つべく此処に現れる! おお……なんと素晴らしい!」
「お前は形見である長信の獄龍を抜き、我に勇ましく立ち向かってくる! なんと勇ましい事か!」
「そして最後――貴様は敗れ、桜子は我の物となるのであった……」
両手を広げ天を仰ぎながら叫んでいた秀光は動きを止めると、無表情のまま竜之介の背中を冷たく見据えた。
「だが……もう良い、良いのだ。口惜しいがその物語は完成しなかったのだ」
「……案ずるな竜之介、貴様が忘れてしまった桜子は我が引き受けてやろう……今から貴様を地獄の底に蹴落としてからなぁ……クククク」
柄を掴み、必死になって引き上げている竜之介の背中に向け、伊弉祢の刃が怪しく光を放ちながら踊ると、竜之介の背中から一気に血飛沫があがった。
「ぐあああああああっ!」
「ほら、どうした竜之介? お前が惚れた女を早く引き上げてやらないと、力尽きて落ちてしまうぞ? クカカカカカ!」
「もう少しだ! 蛍さん、さあ俺の手を掴んで!」
首元から血が流れ落ち、甲冑を伝って地の底へ向かって血の雨が落ちて行く。それでも竜之介は必至に手を伸ばす。やがて蛍の手と竜之介の手が繋がった時、竜之介の身体が宙を舞った。
秀光は竜之介毎周りの欄干を斬り捨てていた。二人は抱き合ったまま、真っ暗な谷底へ真直ぐ落ちていく。その様を見ながら、秀光は一瞥をくれた。
「――こうして、竜之介は奈落の底へと落ち、無様に死んでいくのであった……」
秀光が踵を返した刹那、その背後で激しい旋風が巻き起こった。
「何――?」
その旋風に乗り、竜之介が蛍を抱き抱えながら、上空からゆっくりと降りてくる。気を失った蛍をそっと下に降ろした竜之介は傷ついた身体を物ともせず秀光を見据えながら力強く言い放つ。
「俺がお前の物語の続きを書いてやろうか……」
「……何だと?」
「――死んだと思われた竜之介達は再び秀光の前に現れ――」
風神をゆっくりと秀光に向かって構える。
「クククク! 愚か者が! その風如きの剣で何が出来るというのだ? 我の伊弉祢の敵ではないわ!」
「二人の剣豪の力を秘めた風神は秀光の予想を遥かに超えた力を目のあたりにする事となる――」
竜之介が風神を翳すと、刃の周りを闇と炎が渦巻き凄まじい力を放ち始めた。
「何と!? それは正しく長信の闇の力! いや、そればかりか宗政の炎の力までも! 抜刀出来ぬお前が何故その力が使えるのだ!?」
「驚いて後方に退いた秀光は後が無い事に気付き、表情を強張らせた。更に伊弉祢がこの風神に劣っている事に気付いた秀光は焦りの表情を浮かべ始めた――」
「戯言を! 我の伊弉祢がその様な、その様な駄剣などに劣る事などあり得ない!」
秀光は自身が橋の淵に立たされ、その足元から橋の欠片が谷底へと落ちていった事に気付く。
「ちいっ! この我が貴様の力に押され、いつの間にかこんなにも退いていたと言うのか!? 認めぬ! 認めぬぞ!」
「我の力を目にして慄くがいいっ! 伊弉祢――魔将!」
「風神――獄炎龍!」
手首を返した竜之介は刃を天に向けると一気に振り上げた。刹那、片目と大きな口から赤い炎を迸せ、黒龍がうねりを上げながら秀光が放ったの闇が模った魔将と激突する。
「黒龍は瞬く間に秀光の技を打ち砕き――」
竜之介が呟いた刹那、黒龍は瞬く間に魔将を紙屑の様に噛み砕くと、全身に激しい炎を噴き上がらせながら魔将は掻き消えてしまった。
「わ、我の魔将が一瞬だと!?」
「獄龍の勢いは止む事無く、秀光を飲み込み――」
黒龍が火を吐き出しながら、大きな口を開けた瞬間、目を見開いた秀光は大きく叫ぶ。
「我が敗れる物語など、あっては、あってはならぬのだあああああ!」
そのまま黒龍に飲み込まれ、谷底へと引きずり込まれていく。
「こうして、秀光は深く寂しい奈落の底へと一人堕ちていくのであった――これで終わりだ、秀光!」
「竜之介けえええ! 我は死なぬ! 死なぬぞォオ! 新しい物語を綴り、再び貴様の前に現れてやるわあああっ! クカカカカカカアアッ!」
不気味な笑い声は暫く谷底で響き続け、やが聞こえなくなった。竜之介は深手を追った傷口を押さえ、足を引きづりながら蛍の元へ行った。
「蛍さん、終わりましたよ……皆の所へ帰りましょう……」
竜之介の声で蛍がゆっくりと目を開ける。
「う……竜之介……! ああっ! 竜之介っ!」
目の前の竜之介は血だらけでぼろ雑巾の様になっていた。悲鳴にも似た声を上げながら蛍は急いで自身の服を破り、竜之介の身体に巻いた。
「竜之介は馬鹿者だにゃ! 足手纏いの私なんか助けずにほっとけばよかったのにゃ! そうすればこんな深手を負う事はなかったにゃ!」
血がどんどん滲んでいく布を辛そうに見ながら、泪を滲ませて声を漏らす蛍。その頭を撫でながら竜之介は破顔した。
「はは……好きな娘の手を離すなんて、俺は絶対にしませんよ?」
「竜之介……お前という男は……お前という男は、本当に……本当に」
「うわああああああん! 竜之介えええええっ!」
橋の上で蛍の泣きじゃくる声が暫く響き渡る。
チェスとの戦いを終えた竜之介はそれ以降も大半記憶を無くしたまま、棋将武隊で桂組のと成として生活を送っていた。
その竜之介が今、剣士の丘で長信の墓の前に座り込んで話し掛けている。
「長信さん、おそらく秀光はまだ生きている気がします。だからまだ約束を果たしたと俺は言いません」
「それと何なのでしょうか? 俺は大事な何かを忘れている気がするんです。……気のせいかもしれないけど……はは」
突如一陣の風が竜之介の横を吹き抜ける。その方向に竜之介が何気なく目を向けた刹那、一人の女の後ろ姿が目に映った。その背中越しに女の横髪に付けていた白いリボンが静かに靡いた。
「――あれ? なんで俺は泣いてるんだ?」
自身の瞳に自然と溢れ出た泪を拭い、その指先を見て竜之介は暫く考え込んだが、その答えは出てこなかった。
「りゅうのすけっ!」
「うわっ!」
いきなり後ろから蛍に抱き付かれる。
「ほ、蛍、俺を驚かすなよ! って、どうした? そんな大つちのこのリュックなんか背負って?」
「竜之介、まさか忘れたのかにゃ! ずっと約束してたんにゃ! 今日は一緒にピクニックに行く日にゃあ!」
「――あ、忘れてた!」
「うにゃー! 竜之介、酷いにゃあ!」
「――嘘だよ。蛍、さあ行こう!」
破顔しながら蛍に手を差し伸べる。
「にゃっ! 私はもうこの手をずっと離さないにゃあ!」
嬉しそうに手を繋ぐ蛍。二人は互いに顔を見合わせながら微笑み、仲良く十洞山の登り口へと消えていくのであった。
「と成」の竜之介――上杉蛍編(完)




