■上杉蛍編(弐)
蛍との記憶を取り戻した竜之介。それから後、水を打った様にチェスの動きが無くなった。気の緩みを懸念した玄真は、竜之介達を自室に呼び出す。
「玄真さん、俺達に用があると連絡を受けたのですが、一体何の用ですか?」
「そうにゃ玄真様、私は竜之介と更に親密になろうと努力している最中にゃ。あまり水を差さないでほしいにゃ!」
「ほ、蛍さん!」
蛍が竜之介にしがみ付き、竜之介が少し照れた仕草を見た玄真は苦笑し、直ぐ様咳払いをして取り繕った。
「そうか……絶望的と思われていたお前が復活した事は誠に喜ばしい事だ。一部とはいえ、蛍との記憶が戻った事も幸いだった」
「お前達も既に知っているだろうが、秀光が謀反を起こし、チェス側に寝返った。否、むしろあいつは最初からこれが狙いだったのだ……」
「魔石に心奪われ、我が十洞千国を脅かす裏切者をこのままにしておくことは出来ぬ。今し方、研究班からチェスの奇門の術式が解読したとの朗報が入った。よって我々は準備が出来次第、チェス界へと攻め込む」
「つ、遂にこの時がき来たのにゃ……!」
暫く沈黙が訪れた後、玄真は眉を上げて蛍達に命令する。
「――そこでだ蛍、お前は竜之介との連携を更に深める為、それまで十洞山での修練を言い渡す。戦では竜之介、お前を軸として戦いに挑むので腹を括れ」
「お、俺が軸……」
「おお、玄真様、気が利くにゃ! その命令、しかと承ったにゃ! 竜之介早速支度するにゃあ!」
玄真の嬉しい命令に蛍は顔を綻ばせた。
「……ところで、竜之介、お前はあと二つ鍔を持っている事を理解しているのか?」
玄信が問う意味、それは宗政と長信との記憶を確かめる為であった。
「確かに……俺は虎と龍が刻まれた鍔をそれぞれ持っていたので、試してみましたが、抜刀は出来ませんでした。そもそもこれは一体誰の物なんでしょうか……?」
竜之介の言葉を聞いた瞬間、玄真は蛍の方を見ると、蛍は黙って首を横に振った。
「成程……復活の代償に宗政と長信の鍔を扱う力を失っておったか……」
――な、俺が宗政さんと長信さんの鍔を使っていたって!?。
「宗政さんと……長信さんの鍔……これが!?」
竜之介はこの時、脳裏にノイズが走り、一瞬宗政と長信と修行した場所が映って消えた。
――くっ、なんだ今の!?。
「玄真様、今の竜之介は風神の鍔しか扱えませんにゃ。それだけでも十分な事にゃのですが……ちょっと残念にゃ」
蛍の口ぶりから竜之介は二人の名には覚えがあるが、その姿、それまでの修行に関する事や鍔に関する記憶を全て失っていた事を玄真は理解した。
「……そうか。それも仕方がない事、竜之介、今は己の技を研ぎ澄ます事に専念するが良い」
「は、はい!」
こうして竜之介達は山籠もりの準備を済ませ、蛍に導かれるまま十洞山へと入って行く。
「にゃんかピクニック気分で楽しくなって来たにゃあ。竜之介、今度この十洞山にもっと一杯お花が咲いたらまた一緒に来るにゃあ!」
手を引きながら振り返り破顔する蛍に竜之介は目を細めて黙って頷いた。
「さーて、竜之介だけに私がたまたま見つけた秘密の場所を教えてあげるにゃあ」
「秘密の場所……?」
蛍は獣道へと足を踏み入れ、更にどんどん奥に進んでいく。そして草むらが開けた刹那、竜之介の目の前に半壊した道場が姿を現した。
「どうにゃ竜之介、ここはたまーに私が来るとっておきの場所にゃ! 中の道場は使えないけど、雨風はちゃんと凌げる所がちゃんとあるにゃあ!」
ゆっくりと竜之介は辺りを見回した。刹那、ノイズが走り、木刀を握って爽やかに微笑む男の姿が映り、消えていった。
――誰だ? 今の人は?。
どこに視点を定める訳もなくぼうっとしていた竜之介の目の前に、いきなり釣り竿が差し出されている事に気付く。
「うおっ!」
竜之介の反応を見た蛍が悪戯っぽく笑った。
「ふふーん、竜之介今から魚を釣って食べるにゃ!」
「え? すぐ修練するんじゃあ……?」
「馬鹿者め! 腹が減ってはにゃんとやらにゃ! これも又修練。さっさと釣り竿を受け取るにゃ!」
「は、はいっ!」
道場から少し下っていくと、さらさらと水の流れる音が耳を擽る。その音は心を浄化してくれる様に優しく、穏やかだった。手頃な釣り場所を見つけた蛍は、うねうねと蠢く袋から大きな幼虫を取り出し、針に付けると、「えいっ!」とばかりに投げ入れた。
竜之介もその気持ち悪い幼虫を手に取って恐る恐る針に付けようとする。
「竜之介、その餌、早く付けないと噛むから気を付けるにゃ」
「え、何だって――いだああっ!」
時既に遅く、竜之介は手の先を思いっきり噛まれてしまった。刹那、指先から勢い良く血が滲み出始めた。
「馬鹿だにゃあ……竜之介は。ほら、こっちに手をだすにゃ」
蛍は指先に水溜りの様になった血をぺろぺろと舐め始めた。その舌は更に関係のない部分まで舐め始める。
「ほ、蛍さん! も、もう大丈夫だからっ!」
慌てて竜之介は手を引っ込めた。それを残念そうに蛍は見送る。その目は普段見せない少し妖艶がかった瞳であった。それから二人は暫くの時間、水面に漂う浮きを黙って見つめていたが、竜之介の横に座っていた蛍が急に立ち上がった。
「てえええい! 面倒臭くなってきたにゃ!」
いきなり釣り竿を岩に叩きつける。
「えええ!?」
「私はじーっと待ってると苛々してくるのにゃあっ!」
唖然としている竜之介の横で、服をどんどん脱ぎ出す。瞬く間に霰も無い姿になった蛍が勢い良く川の中に飛び込んで行った刹那、穏やかな日差しに水飛沫が美しく反射する。蛍が引き起こした波紋は大きく円を描き、次第に小さくなっていった。
「ちょ、蛍さん?」
中々顔を出さない蛍を心配して、竜之介は慌てて水面を覗き込んだ。その直ぐ近くで水泡が上がったかと思うと、次第に大きくなり、両手に魚を掴んだ蛍が元気よく顔を出した。
「にゃははは! 食料確保にゃああっ!」
蛍は竜之介を見て破顔した。安堵の溜息を吐く竜之介。結局、蛍は釣り竿を一切使用せず、自身の手で次から次へと魚を捕まえていく。それを横目に竜之介は「釣り竿、最初から要らなかったんじゃあ……」と、口に出すのを必死に我慢していた。
食料を確保した蛍は川から何事も無かった様に上がってくる。心臓から目玉が飛び出しそうになった竜之介は目を覆いながら慌てて背中を向けた。その反応を見た蛍はその背中越しから甘く囁き始める。
「うにゃ~? 竜之介、もしかして恥ずかしがってるのかにゃあ?」
後方の右側から竜之介を覗き込む。竜之介は眼を瞑りながら直ぐ様、顔を左に向ける。今度は左側から覗き込む。今度は慌てて右側を向いた。
「……ふーん」
蛍は眼を線にして、怪しい笑みを浮かべた後、背後から思いっきり竜之介に抱き付いた。途端に竜之介の背中越しに柔らかい感触が頭へと突き抜けた。
「うわああああっ!」
「にゃにゃー! どうにゃ! 竜之介ええ!?」
「ほ、ほ、蛍さん、お願いだから、離れてくださいっ!」
「ええ? 竜之介はこんな乙女に裸体をこの自然に晒せというのかにゃあ?」
「何言ってるんですか! さっき、思いっきり晒してたじゃないですかああっ!」
「ええ? にゃはははっ!」
蛍の満足そうな笑い声が川音に交じりながら木霊する。その後に道場へと戻り、捕まえた魚を焼いて口一杯にほおばる蛍。そんな様を見て竜之介は一瞬、とても愛しく感じた。だが、これでは本当に只のピクニック成りかねないと自身を戒めた竜之介は、遊び足りなさそうな表情をする蛍の首襟を掴み、出陣の前日まで真面目に修練を重ねるのであった。
最後の修練を終えた夕暮れ時、竜之介達は十洞山から戻って来た。他の隊長達から竜之介との進展を問い詰められた蛍は深い溜息と共に頭を垂れる。それを聞き届けた他の隊長達は何事も無かった様にその場を去って行った。
「くうにゅう、数日間一緒に寝食を共にしたというのに、あの堅物め! 一切私に手をださなかったにゃ!」
呑気な顔をして蛍を見つめる竜之介に、蛍は「ふーっ!」と唸る仕草を見せると、竜之介は両肩をびくっと震わせて混乱する仕草を見せた。
「な、何で蛍さんは急に怒り出したんだ? と、とにかく一度部屋に戻って休まなきゃ――」
竜之介が蛍に逃げる様に挨拶をし、自室に向かおうとした刹那、急に立ち眩みが襲った。
『フフフフフ……』
何処からともなく不気味な声が竜之介の頭に響いた。
「うううっ!」
何かの気のせいだと、部屋の灯りもつけず、自室で休んでいた竜之介であったが、不気味な笑い声が次第に大きく頭に響きだし、苦しさも激しさを増していった。
――はぁはぁ、まずいな……明日は出陣だってのに、肝心の俺がこんなんじゃ……!。
突如、左目の視界が急に真っ黒に染まった。
――ど、どうしちまったんだ? 俺!?。
確かめる為に、洗面台の前に立つ竜之介。そこで鏡に映る自分を見て驚愕する。
「うわああああっ!」
目の前の鏡が映し出している物、それは右部分がチェス化した自身の顔であった。その目は閉じられていたが、やがてゆっくりと開き始めると、悍ましい光を放つ赤い眼がその姿を覗かせた。
『何をそんなに怯えている? 私はお前自身なのだぞ? フフフ』
一瞬、自分の精神が支配され、別人の声が口から漏れた。
「ふ、ふざけるな! この化け物が!」
『化け物――それは自身の事を言ってるのかぁ? フフフフ……』
「ち、違うっ! お、俺はチェスなんかじゃない! チェスなんかじゃないんだあああっ!」
其処から逃げる様に竜之介は外へ飛び出した。
『何処へ行くのだ? 足掻いても無駄だ。もうすぐお前は完全にチェス化する。そう、お前はキングになる為になあっ!』
「う、うわあああああっ!」
誰かに救いを求めるかの様に手を前に差し出して竜之介は顔を歪めた。道中、竜之介に会いに来ようとした蛍とすれ違う。蛍は瞬時に竜之介の変わり果てた姿に気付き、顔を強張らせて背中越しから叫んだ。
「りゅ、竜之介、その姿は!?」
――蛍さんに、この醜い姿を見られてしまった!。
その場に立ち尽くした竜之介は申訳なさそうに天を仰ぎ肩を震わせて口を開いた。
「蛍さん……せっかく貴方の事が思い出させたのに……すみません……」
そのまま十洞山へ向かって走り出す竜之介。
「ま、待つにゃ! 竜之介ええっ!」
制止する蛍の声を振り切って竜之介は十洞山をがむしゃらに登っていく。枝を折り、草を踏み倒し、前へ、何処か遠くへ、一人になれる場所へ向かって。その間にも悪魔の囁きは止まない。
『フフフ。無駄な足掻きを。お前は一体何処に逃げるつもりだ?』
「う、煩い! 黙れ!」
『フハハハ! 見て見ろ! お前の右腕を!』
竜之介のチェス化はどんどん浸食していく。意識が半分支配された時、竜之介は自然に半壊した道場の袂まで辿り着いていた。苦しい息を吐きながら、這う様にして道場の柱にもたれ掛かった。
「俺は……チェスなんかになってたまるカ!」
鍔を取り出し、風神を抜刀する。そしてその剣先を自身の胸へ向ける。刃が空しく悲しみの光を放った。
『貴様――自害する気か……? 愚かな事を!』
「俺は……チェスになるくらいナラ、皆に迷惑をかけるのナラ、喜んデこの刃を胸に突き刺ス!」
『させぬわ!』
互いの力が押し合い、握った風神が小刻みに震える。刹那、ひっそりとしたこの場所に蛍の声が響いたた。
「竜之介、そんな事をしては駄目にゃあっ!」
「ほ、蛍さんっ!」
目の前に現れた蛍は自身の袖を捲って見せた。その右腕にはチェス化の兆候を思わす痣が浮かび始めていた。泪を滲ませながら蛍が静かに囁いた。
「見るにゃ……竜之介。私もチェス化していってるにゃ。自分でも驚いたけど、私はとても満足してるにゃ。これで本当に竜之介に近付けたのだとにゃ……竜之介は一人じゃにゃい……これからは私もずっと一緒にゃあ……だから竜之介、そんなに怖がらなくてもいいのにゃ……」
「ほ、蛍サン…………うう」
完全に意識を失った竜之介は真っ黒に広がる黒い草原の上に立っていた。その足元には無数の躯が転がっている。前に進もうとした竜之介が頭髑髏を踏みしめると、乾いた枯木の様な音がした後、粉々に砕け散った。
『フフフフ、遂にここまで来たか。さぁ、共に行こうぞ――』
中心に座り込んでいた男がゆらりと立ち上がると手を差し伸べながら近づいて来た。徐々に精神支配をされていく竜之介はその手を握ろうとゆっくりと手を動し始める。互いの手が今正に繋がろうとした刹那、その男の手が急に止まった。
『な、何だ――?』
竜之介が精神の領域に居る時、蛍は竜之介が自害しようと胸に突き刺そうとしていた風神を払いのけ、自身の唇を竜之介の唇に重ねていたのだった。
『止めろ! この忌々しい感情めがっ!』
そのまま蛍は帯の紐を緩め、一糸も纏わぬ姿になった後、その身を竜之介に預けた。
『くそがぁあ! 止めろおおお!』
男が苦みだした瞬間、何処から共なく、蛍の声が聞こえて来た。
「竜之介……私とひとつになるにゃ……これからは何時までも何処までもずっと、ずっといっしょにゃあ……ん」
突如、黒い草原に砂煙が舞い上がった。それはやがて吹き荒れ締めた旋風が地面の岩を伴って、大きな竜巻へと変化していく。
『何故だ!? 何故、この神聖なる領域に土の属性が流れこんで来たのだあっ!?』
竜巻は男に向かって真っすぐに突き進んで行く。
『よせ! こっちに来るな! 私は今、消える訳にわあああああああああ――』
その言葉を最後に男は一瞬にして竜巻に飲まれた。竜巻が全て止んだ時、上空から無数の岩が落下してきて、黒い草原を殆ど覆い潰してしまった。
「あ……う」
呻き声と共にゆっくりと目を開ける竜之介。そこで自身の霰も無い胸にぴったりと肌を寄せ、目を見開いている蛍の姿が飛び込んで来た。
「ほ、蛍さん……」
真面になった竜之介の声を聞いた蛍は、首に回していた両手に、より一層力を込めた。
「ぐ、ぐはああっ! 苦じい……!」
「竜之介……戻ってきてくれたにゃ! 嬉しいにゃああっ!」
更に力が籠る。嬉しい悲鳴を上げながら竜之介は蛍の右腕の痣が消滅している事に気付き、また自分自身も何かの枷が外れた感覚を覚えた。
「あれ? 俺、元に戻ってるのか……?」
「そうにゃ……竜之介と一つになったら、不思議な事に私の手の痣も消えていたにゃあ……」
ずりずりと上に這い上がって来る蛍。やがて互いの目が直前の所まで迫った時、蛍が妖しく目を細めた。
「竜之介……さてはお前、私がした事を全然覚えてにゃさそうだにゃあ……?」
「え? だって俺、意識が――ひゃっほう!」
いきなり蛍が竜之介の顔のあちこちを舐め始める。竜之介は思わず意味不明な声を上げてしまった。
「そんなのは許さないにゃ……もう一度、もっともっと、もーっと私を知ってもらわにゃいと……」
「うにゃああああ――!」
蛍の口調に共鳴し、竜之介もつい、情けない声を上げてしまう。互いの絆が更に深まったこの場所。そこには下から優しく流れる川音だけが何時までも聞こえて来るのであった。




