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■暗闇に光る刃

 明かりを灯さない部屋の窓から月明かりが微かに差し込み、目を細め悲しそうな表情をしているいちのを浮かび上がらせている。


「……お兄ちゃん」


 いちのの手には昔、嫌がる長信を捕まえ強引に撮った写真が握られている。その写真には恥ずかしそうにしながらそっぽを向く長信へ嬉しそうにいちのがしがみ付いていた。


 長信の顔を人差し指で優しく撫でながら、いちのは過去の記憶を静かに思い返す。


 織田家の屋敷内にある道場で、自身の握る薙刀が長信に容易く弾き飛ばされ、空しく床に転がり落ちる音が道場内に響く。


「きゃっ!」


「どうした? いちの、それで終わりか? これじゃ、朝稽古にもならんぞ?」


 長信は呆れるように溜息を吐いた。


「もうっ! お兄ちゃんが強すぎるんだよ! 少しは手加減してよ!」


 力量の差を自身の顔に表して訴え掛けると、長信は薙刀を肩に担ぎながら破顔した。その眩しい笑顔は道場に差し込む朝の日差しに照らされ、いちのの視線を釘付けにした。


 刹那、鼓動が激しく躍動し、いちのはそれを掻き消す様に長信へ再戦を挑む。


「お、お兄ちゃん、もう一本お願いっ!」


「そう来なくっちゃな! さぁ、何処からでも掛かって来いっ!」


 長信が薙刀を構え直す。いちのは距離を取りながら隙を伺う。


「よし、いいぞ! いちの、もっと俺様を威圧しろ!」


「はいっ! お兄ちゃん!」


「おい! 俺様の刃先を見るんじゃねえ! 全体を見ながら気の流れを読め!」


 間合いに入った長信が力強く前足を踏み込ませた瞬間、その気迫をいちのにぶつけた。


――お兄ちゃんの気の動き……右だっ!。


 いちのは薙刀を左上に上げ、受けの体勢に入ろうとしたが、柄の隙間から長信の「甘いな」という笑みの表情と共に薙刀の軌道が変化した。


――えええっ! ぎゃ、逆っ!?。


 慌てて反応したが時既に遅く、長信の刃先は無造作に開いたいちのの胸元を的確に狙っていた。その一撃を何とかして交わそうといちのが後方に下がろうとした瞬間、思わず左足で袴を踏んでしまい、後方に重心が崩れてしまった。


「きゃっ!」


「あっ、危ねえええ!」


 長信は薙刀を宙へ放り出すと、飛び込みながら両腕を伸ばしていちのを受け止める。その逞しい胸の中に包まれたいちのは瞳を大きく見開いた。


 二人しかいない道場に、床に落ちた薙刀の音だけが響く。


「おほーっ、痛ってええ!」


「お、おいっ、いちのっ! 大丈夫かっ!?」


 頭を手で摩りながら、長信はぶっきらぼうな口調でいちのを気遣うが、いちのは長信の胸に顔を埋めたまま、何も答えなかった。


「お、おい……いちの?」


 長信がいちのを引き離そうとするが、いちのに胴着を強く摑まれ、それが出来ない。


――離れたくない。


「お、おい?」


「お願い……お兄ちゃん……もう少しこのままでいて……」


「――い?」


「ばっ、馬鹿野郎! 何言ってやがる! さっさと離れやが――」


「いやっ!」


 いちのの声が長信の言葉を打ち消す。


「お兄ちゃんの胸、温かくて広くて……気持ちいい」


「てめ…………」


 更にいちのが力を込めて長信を抱きしめる。


「ぐえ……馬鹿力だしやが……って!」


「ふふっ……お兄ちゃん、十洞千石の女は生まれつき馬鹿力なの知ってるでしょ? 薙刀の技では負けても、力技ならお兄ちゃんに引けは取らないよっ?」


「くっ……この大甘ちゃんがっ! 頼むから離れろっ!」


――嫌だ、離したくない。だって……。


「私……私ね……お兄ちゃんが一番好き。誰よりも……」


「お、おめえ……何を言って……」


「お兄ちゃんさえいれば私は何もいらなーい」


 甘える様に、いちのは長信の胸に顔を擦り付ける。長信はいちのの自分に対する異常なまでの感情に戸惑う表情を見せた。


「い、いちの……俺には……」


「――桜子さんだよね?」


「う!」


「お兄ちゃん……ずるいよ……昔、私と結婚してくれるって言ってくれたのに……あっさり約束を破るなんて……」


「あっ、ありゃあお前、子供の頃の口約束じゃねえか! 無効だ、無効!」


「ダメだよ……」


 いちのが顔を上げ長信をじっと見つめた。


「私が棋将武隊の試験を受けて……合格したら……」


 いちのの顔が長信に急接近し、微笑ましい表情に反して口からは冷酷な言葉が漏れる。


「私……桜子さんを殺しちゃおうかな?」


「いちの……お前……」


 その言葉を聞いた長信の声が変化する。


「いちの……戦いが全てだった俺様が、初めて一人の女に惚れこんだ。それが桜子だ。あいつは俺様の掛け替えのない、掛け替えのない、ええい! くそっ! 何て言やいいんだ!?」


「ふふっ、うーそ」


 しどろもどろと言葉を探す長信の様を見て、いちのが悪戯っぽく笑った。


「お兄ちゃん、もうすぐ王将戦だよね? 私はお兄ちゃんに迷惑を掛けるような事は絶対にしないよ? だから、安心してね」


「ああ……分かってらあ」


 長信はいちのに背を向けて胸を撫で下ろした。恐らく幼少の頃から我を失ったいちのが時折、何をしでかすかすか分からない人格になる事を知っていたからであろう。


「なあ、いちの、こんな俺様でも戦いの他に好きになる物が出来たんだ。何時かお前にも、本当にお前の事を好きになってくれて……お前もそいつの事が好きになる日がきっと――」


「こないよ……そんなの」


「……そりゃあ、どうかな?」


「私はお兄ちゃんの事を絶対に裏切らないからっ!」


 長信は頑なに自分を想ってくれているいちのを見ながら、普段から吊り上げている眉を下げ、優しく笑った。


「だから……お兄ちゃん、お願い……」


「これからもずっといちのの傍にいてね」


「――おう」


「嬉しいよ……お兄ちゃん、もう一回聞かせて?」


「煩せえ。お前も分ってるだろ? いちの、俺様はなあ、同じ事を二度言うのが大嫌いなんだよ」


「うんうん、分ってるよお兄ちゃん」


――お兄ちゃん。


「お兄ちゃん……?」


 いちのは朦朧として辺りを見回す。そこにいちのの傍らで優しく微笑んでいた長信の姿は無い。薄暗い自室の中でいちのは現実を叩きつけられた。


「お兄ちゃん……どうして私の前から消えてしまったの?」


「あれだけ、傍にいてって言ったのに!」


「寂しいよ……お兄ちゃん」


「苦しいよ……お兄ちゃん」


――憎い。


「お兄ちゃんを……消した全てが……!」


 突然、いちのの全身が青白い光を放ち始めた。


「……私が全て消し去ってやる」


 呻くように呟きながら外に出る。薙刀を握り締め、ゆっくりと天を見上げたいちのの周りが黒い旋風に包まれるといちのの白い衣装は黒い衣装へと変化していった。


 いちのは導かれるかの様に足を十洞山へと向ける。均等に打ち込まれた杭に添え付けられた灯火の間を小走りに走り抜け、やがてその先に薙刀を片手に武装した女の背中を視界に捕らえた。


「そこの女、止まれ」


「――何?」


 女がいちの声に気付き、振り返った。いちのはその顔を確認すると冷ややかな笑みを浮かべる。


「お前、秀光の護衛隊の一人、麻霧あさぎり麻耶まやだな?」


 麻耶はいちのの纏う黒い衣装を見ると、口元を歪ませた。


「あら? 我々の同胞を襲う者がどんな者かと一人で探しに来てみれば、こんな真っ黒なこ汚いどぶ鼠だったなんてね。しかもわざわざお前の方から私に会いに来てくれるとは、この広い山の中、探す手間が省けたわ」


 麻耶はいちのを切り開かれた山道へと導き、薙刀を低く構えて早々と戦う姿勢を見せた。


「秀光様護衛隊ニ番手、麻霧麻耶、いざ、参るっ! どぶ鼠、そちらも名乗りなさいっ!」


「私か……私は長信の『亡霊』とでも言っておこうか」


 いちのは薙刀を旋回させると、麻耶に刃先をぴたりと向けた。


「おのれ! 織田に与する反逆者めがあっ!」


 お互いの薙刀が交差し合い、激しく打ち合う音だけが山中に木霊する。


「あははははっ! 中々やるじゃないの! どぶ鼠の分際で!」


 麻耶はたくみに薙刀を回転させ、右へ左へといちのを攻め立てる。一見それは麻耶が優位に立っているかの様にも思えた。


 いちのは無言で麻耶の攻めを受けていたが、全て受けきると、やがて吐き捨てる様に言葉を漏らす。


「つまらない……もう、飽きた」


「な、なんですって!? もう一度、今の言葉、言ってみなさいっ!」


「何だ? 聞こえなかったのか? 『飽きた』と、言ったのだ」


 いちのの言葉に、麻耶の顔が強張った。


「どぶ鼠ごときが! 私を侮るなああ!」


 麻耶は低い態勢から薙刀を地面すれすれに這わせる様にし、刃先から砂煙を舞い上がらせながら素早く間合いに入ると、いちのの心臓を目掛け襲い掛かかった。


「この一撃は見切れまいっ! 死ねえええっ!」


「……ふん」


 直前まで刃先を引き付け退屈そうに避けたいちのが、麻耶の視界から姿を消した。


「なっ!?」


 自信に満ちた一撃を簡単に交わされ、麻耶は驚きの表情を隠せない。


「笑止……。二番手が聞いて呆れる」


「兄様の指南は、こんな物ではなかった……」


 いちのはぼそりと呟く。麻耶はいちのがどこに居るのか把握できていない。


「どっ、何処だ!?」


 刹那、後方から鋭く空気を切り裂きながらいちのの刃が麻耶に襲い掛かった。


「うっ、後から――!」


 慌てて振り返った時、刃先が視界の直前にまで迫っていた。


「ちいいっ!」


 半身をずらした麻耶の右肩にいちのの刃が食らい突き、食い込んだ刃はそのまま肉を食い千切った。


「ぎぃいっ!」


 悲鳴と共に血しぶきが顔の右半分を赤く染め上げ、麻耶はよろけながら、肩膝をついた。


「まっ、まだあっ!」


 叫び、顔を上げた麻耶の頭の先にいちのの冷ややかな刃が怪しく光を放った。


「ぐっ!」


「私が、全て消す。お前もここから消えていくがいい」


「む、無念っ、ここまでか――」


 静かにいちのの薙刀が振り上げられ、無情に下へと振り下ろされた瞬間、その刃と麻耶の間に別の刃が滑り込んできた。


 麻耶は背に纏ったマントに刻まれたと成の文字と見覚えのある男の顔を見ると、助けを乞うかの様にその男の名を叫んだ。


「りゅ、竜之介様……っ!」


「ふーっ、なんとか、間に合ったぁあっ!」


――竜之介!? なんでこいつがここに!?。


「竜之介! また私の邪魔を!」


 いちのは止めの一撃を竜之介に遮られ、怒りを露にして叫ぶ。麻耶は安堵からかそのまま意識を失ってしまった。


「ええいっ! 邪魔だ! そこを退けろ! 退かなければ、お前もろともその女を突き刺すっ!」


「いちのさんっ! こんな事はもう止めろ!」


 薙刀を再び振り上げたいちのは、自分を諭しなが叫ぶ竜之介の背後に長信の姿を一瞬垣間見る。刹那、いちのの顔が苦痛に歪むと薙刀を地面に向け激しく打ち付けた。


「こっ、このっ、お前は一体何なのだ!」


「なっ、何故に、お前は…………兄様を思わせる!?」


 感情を露にしたいちのは肩を震わせた。


「恐らくそれは、俺の中に長信さんの闇属性が流れているからだと思う」


 麻耶の応急処置をしながら、竜之介はいちのの耳を疑う言葉を呟いた。


「お前の中に兄様の闇が――?」


「よっ、世迷言を! そっ、そんな事が!」


 竜之介はいちのをじっと見据え、静かに口を開く。


「俺は、つい最近まで長信さんに会った事があるんだ。と、いっても長信さんの幽霊と言ったほうが正しんだけど」


「な!?」


 いちのは動揺を隠せない。


「おっ、お前が兄様に会っただと!? 口から出任せを言うなっ!」


「本当だよ……だから俺はこれを長信さんから貰い受けたんだ」


 竜之介が戦具ポケットを開け、長信から受け継いだ鍔を取り出して目の前に差し出した瞬間、いちのの顔付きが一変した。


――こっ、この獄龍の鍔は本当に兄様の物だ! でも、どうしてこれを竜之介が!?。


「ふ、ふんっ、先程から嘘ばかり並べ立ておって! お前が持っている『紛い物』の黒剣は幾度か目にしてはいたが、お前なんかに兄様が大事な鍔を託すものか!」


 明らかに動揺を見せるいちのに竜之介が言葉を重ねる。


「いちのさん、貴方なら分る筈だ。これが本物か偽者かって事が」


「それに、俺が長信さんを良く知っているかどうかは――」


 獄龍をそのまま握り締めた竜之介は力強く前足を踏み出して静かに腰を落とす。刹那、竜之介の気が昔、いちのが良く知っていた懐かしい闇の気へと変化し始めた。


「いくぜええ! 抜刀――獄龍っ!」


『いくぜえええ! 抜刀――獄龍っ!』


 鍔が黒い光を放ちながら、獄竜が姿を現し始めた瞬間、いちのは竜之介の姿と長信の姿が重なって見え、竜之介の声の後に長信の声が重なり合った。


――あ、兄様ああっ!?。


「そ……そんな!? お前から溢れ出る闇の気といい、獄龍を抜刀するその立ち振る舞いといい……本当に兄様が?」


 いちのは以前、初めて竜之介が獄龍を出現させた時、それが長信の物である事を直ぐに理解していたが、それをどうしても認める事が出来ず、今まで無理矢理否定していた。


 だが目の前で亡き兄の姿を見せられ、竜之介が言っている事が真実である事を信じる他無くなってしまった。


「だから……お前から兄様の面影が、そう……なのか? もう一度言ってみろ……」


 いちのは震える唇で再度問い掛ける。


「いちのさん、その返事に長信さんはきっとこう言いますよ?」


「俺様は同じ事を二度言うのが大嫌いなんだ!」


『いちの、俺様はなあ、同じ事を二度言うのが大嫌いなんだよ!』


――そっ、その台詞は!。


「兄様……? わ、分からない……教えて、私は……どう……したら」


 いちのは右手で顔を覆い、ふらつきながら、後ずさりをし始めた。


――駄目だ、駄目だ、駄目だ! 一刻も早く私はここから立ち去らねば!。


「ううう、あ、頭がおかしくなり……そうだ」


 苦痛の表情を浮かべたいちのは竜之介から踵を返し、自身を覆う暗闇を求めて走り出す。


 突如いちのの瞳から零れ出た泪は内なるいちのからなのか、それとも自分自身からなのか理解する事など到底出来なかった。


「くそおおっ!」


 それを振り払うかの様に薙刀を力任せに振り回したいちのはその場に崩れ落ちる。


「惑わされるな! あれは全部嘘だ! あいつの狂言だっ!」 


「それなのに何故こんなにも私は苦しまなければならないっ!?」


――苦しみの元凶、それは兄様の仇、秀光が今ものうのうと生きているから。


「……そうだ、全部あいつのせいだ」


 いちのは無言で立ち上がると、目の前に立ちはだかる大木に薙刀の刃を向ける。


「死ねえええ! 秀光っ!」


 暗闇の中に一閃が走ると、大木が瞬く間に斬り倒された。


「私は兄様に誓ったのだ、この手で秀光を討つと! この湧き上がる復讐心だけは誰にも押さえつける事は出来ぬ!」


「だから……竜之介、もう二度と私を惑わすな……」


 一人寂しく呟いたいちのは暗闇の中へと姿を消していくのであった。 


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