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■誘惑

 桜子にぐいぐい引っ張られながら、どんどん歩いていく。竜之介を掴んでいる手は一向に離す気はないようだ。それを見ている者は皆、”何事?”という表情で竜之介を見ていた。


「竜之介、普段の桜子はそんな感じでどんどん進んでいくタイプなんだぜ?言い出したら俺様の言う事なんか聞きゃあしねえんだ」


 長信が苦笑して言う。


「俺も……驚いてますよ!!」


 竜之介がひそひそ声で言った。桜子が自分の部屋に入ると不機嫌そうに、


「さてと……竜之介、二人っきりになるのは久しぶりですね。前回は貴方が突然走りだして、勝手に帰っていってしまいしたから……」


「……う」


「ゆっくりと話を聞かせてもらおうかしら?ねぇ? 竜之介」


 竜之介が緊張していると、どこからかふわっと花の香りがした。いい臭いだ……。辺りをきょろきょろ見回す。


 本が一冊一冊きちんと整頓された本棚。オーダメイドであろう、木製の机。


 その机の上に桜子と口をへの字に曲げ、何とも言えない表情で写真に納まっている長信が居る。それをみた瞬間、竜之介は動揺した。


「その人、竜之介は見覚えないかしら?」


「……この人は、長信さんですよ」


「――!!!」


 桜子は、竜之介の受け答えに驚いた。


「竜之介、ここでは新人でもある貴方が長信を知っている筈などあり得ません」


「どうやって、誰から長信の情報を得たのですか?」


 桜子は竜之介に詰め寄ってきた。


 竜之介はこんがらがった靴紐を解くように、不思議な体になってしまった事、試験の事、バクミンの事、長信さん、宗政さんの事を話した。


「……という訳で、俺の中に長信さんが居ますよ?」


「今なら、お互いが会話する事も可能です」


 竜之介がその話をした時、桜子はもの凄く混乱した表情をした。


「で、今は貴方の中に長信と宗政が存在しているのですね?」


「はい」


「……入隊試験で黒剣を使ったのは間違いなく長信本人だと?」


「はい」


「前田との試合で対決したのは、宗政本人なのだと?」


「今は完全では無いですが……おそらく」


「……はあーっ」


 桜子はその話を聞いて深い溜息を付いた。


「そして、前回ここに来た貴方は全部長信の指示に従っていたと?」


「はい」


「何故今、貴方と変わって長信本人になっていないのですか?」


「それは、長信さんが記憶を取り戻してしまったのが起因しているのだと思います、それ以降は俺と変わる事が出来なくなってしまって」


「ただ、その代わり俺の中の長信さんと会話が出来る様になりました」


「なるほど……そうですが、それが本当の話なら、前代未聞ですね」


「ふふっ……あはははっ!!」


 いきなり桜子が笑いだした。


「聞いてるの? 長信、ここにいるのでしょう?」


「さぁ、竜之介!! 今から長信と話をして見せなさいッ!! 貴方は長信の全てを知っている筈ですからね!!」


 桜子の目が急に鋭くなった。


「貴方は、以前、長信が秀光に殺されたとも言ってましたね?」


「そうです!! 長信さんは秀光に崖から……」


「そんな筈はありませんッ!!」


「う……っ!!」


「駄目だ、ありゃあ完全にお前を疑っている目だな」


「いや、それは仕方がないですよ」


「しょうがねえな。一丁やってやるか!! 俺様だってこんな機会に出くわすなんて思ってもみなかったからな!!」


「いいか、竜之介……びびってんじゃねえぞ、俺様が許す。桜子にはこんくれえしなきゃ分かんねえよ」


「は、……はい」


 長信が竜之介に指示を出し始めた。


「どうしたのです? 竜之介、やはり猿真似だったのでしょう? 前回は少し驚きましたけど今回は……」


 桜子がそら御覧なさい!! といった仕草で竜之介を諭していた時、竜之介は桜子をいきなり強く抱きしめた。


「あ……」


「桜子……すまねえな、お前を置いて先に逝っちまってよ……」


「な!! な、な、な!!」


「竜之介、止めなさいッ!! 猿芝居はもういいですからっ!!」


「まだ……俺様のペンダント持っててくれてんのか?」


「え……ペンダント……!?」


「そうだぜ、つがいの影の方だ、俺が死んだ時、お前、土まみれになりながら、必死に探してくれていたじゃねえか?」


「な、何故それを……!!」


「俺様はなぁ……今だから全部思い出したけどよ……おめえ、毎日俺様の墓の前で泣いていただろ? あん時は俺様の記憶は何もかも真っ白で、ただ呆然とお前を見てたんだぜ?」


「長信……」

 

「ったくよぉ、日に日にどんどんやせ細っていきやがって。髪もぼさぼさ、衣服の乱れもお構いなし。俺様はな、お前を見た時、なんだ? この変な女? って思ってたぜ?うはははっ」


「そんなお前を俺様は毎日隣で見ている事しか出来なくて、何も出来なかった」


「けどよ、全部思い出して、ずっとお前は俺の事だけを考えてくれてたんだなってよ、すっげえ嬉しかったぜ?」


「今なら、竜之介を通して何かお前にしてやれる。望みはあるなら言えよ?」


 桜子は竜之介に抱きしめながら、その温もりが徐々に長信に変わっていく感じを覚えた。ゆっくりと瞼を閉じる。


「そっ、そうですね……私の……望みは……」


 桜子は、そっと竜之介の手を解くと入り口の方に向かって行き、


「良いですか、これよりこの部屋に何人たりとも入れぬよう」


「あと……私に何か用事があっても、全てお断りするように」


 女中にそう告げた。それを聞いた女中は何かを察したように、にやにやして


「お嬢様……ふぁいとっ!!」


 と、応援していた。


「ちっ、違います!! お、お前の考えているような事は……ああああ!! いっ、いえ、何でもありません!!」


もう一人の女中もニヤけ顔で


「お嬢様っ、ふぁいと!! いっ……!!」


 慌てて扉を閉め、その声を遮断した後に部屋の鍵をかけた。


「ええっと、コホン!!」


 何事もなかったかのようにわざとらしく咳き込み、平常心を保とうとしている。


「私は、今だけ貴方を長信と呼びます。いいですね?」


「ああ……一向に構わないぜ? 何と言っても俺様は長信なんだからな!!」


「そうですね……あなたは長信なのかも……知れません」


 桜子は次に顔を真っ赤にしてベットを指差し、いきなりとんでも無い事を言い出した。


「では、そこに寝てもらいましょうか?」


 これには流石の竜之介も怖気づく。


「ほうら、きやがったぜ……桜子はお前を試してるんだよ? ここは、いっくきゃねえな!!」


「とっ、とにかくですね、はっ、裸になれとまでとはいいませんから、みっ、身軽になってお布団に入って待っててくれればいいんです!!」


 そう竜之介に告げたあと、奥の部屋の方にそそくさと消えてしまった。


 竜之介は桜子に言われた通り、普段装備している戦具一式、マントを外しそれをテーブルの上に置いて戸惑いながらも布団の中に入った。


 暫くすると、何処からともなくシャワーの音が聞こえてくる。


――うわ!!。


「な、長信さん、俺はこれからどうすればいいのですか?」


「そっ、そりゃあお前その、あれだよ……」


 急に長信の口調が変化する。竜之介は気になって聞いてみた。


「長信さんは、かなりの女好きなんですよね?」


「おっ、おう無論だ!! 何野暮な事聞いてやがるっ!!」


 長信の口調が明らかに変化した。


――まさか?


「それで、付かぬ事を聞きますが、長信さんは異性と……その……経験とかは……?」


 長信は何も答えない。


「もしもーし!!」


 やはり、長信は何も答えなかった。


「……なる程、長信さんは見た目はジゴロだけど、芯は凄く真面目で純粋だったのか」


「……だってよ、そういうもんは大事つーか、その一線を越えた後、俺様自身何か変わってしまいそうな気がしてよ……」


「てっ、てめえええ!! 赤玉ぁ!! 何クスクス笑ってやがんだッぶっとばされてえのかッ!! どうせ、てめえも同じだろうがッ!!」


「長信さん、もし今からそんな事になったら……俺どうすればッ!! 俺だって当然、異性との経験なんてゼロですよおおっ!!」


「そ、そりゃあ、あれだお前!! えーっと!!」


「良く考えてください、桜子さんは長信さんの彼女ですよ? それを恋愛感情が薄い俺が一線を越えてもいいのですか?」


「い、今は俺様の代理って事に……なってるからな……」


「いやいや、それはおかしいッ!! まずいですって絶対!!」


「竜之介……お前桜子の事をどう思ってる?」


「え? そっ、そりゃあ、桜子さんは綺麗だし、スタイルもいいし言う事なしですけど……」


「そうか、それを聞いて安心したぜ!! 俺様はこの先どうなるかも分からねえ、突然消えてしまうかもしれねえ、だから竜之介、俺様はお前に桜子を託す事にしたあッ!!」


「え?ええええ!?」


「お前にも色々思うところがあるかもしんねけどよ、今お前に好きな奴がいねえなら、頼むぜッ、桜子をもっと良く見てやってくれ!! あいつは本当にいい女なんだッ!!」


「長信さん……」


 その時、シャワーの音が止まった。


「覚悟を決めろ竜之介……俺様も覚悟を決めたぜ」


 竜之介の心臓は爆発寸前となっていた。


 ぱたぱたぱたとこちらに向かって可愛らしい足音が聞こえてくる。その足音がピタリと止まり、


 部屋が突然真っ暗になった。桜子が部屋の電気を切ったのだ。


 桜子は布団を膨らませながら、竜之介の背面から布団に入ってきた。竜之介は今まで経験した事にないこの状況に戸惑っていると、耳元に桜子の荒くなった息使いが聞こえてきた。


「はぁ……はぁ……はぁ……」


 竜之介の頭の中は何故か大きなカツオが何匹もぴちぴちと飛び跳ね、せいやっ!! せいやっ!! せいやっ!! とふんどしを締めた漁師の合唱と共に大漁旗がはためいていた。


 桜子がぴたっと竜之介に寄り添うと、ほてった体の温もりと柔らかい感触が背中から伝わって来たのが分かった。


「さ、桜子さん……・」


 話し掛けようとした瞬間、


「お願い……お願いだから、暫くこのままで居て」


 桜子は竜之介の背中で泣いていた。その体勢のまま二人の時間が静かに流れていく。


 やがて……。


「うっうっ……長信……。私はいつまでもこうやってあなたの温もりを感じていたかった、それだけで幸せだったの……」


「……っ!!」


 竜之介は感情の余り、思わず桜子の方を向き強く抱きしめたくなった。


「駄目ッ!!」


 それを桜子に強く拒まれた。竜之介の動きがピタリと止まる。


「もし……あなたが振り返り、私を強く抱きしめてしまったら私はあなたを求めてしまうから……」


「だから……お願い、このまま部屋から出て行きなさい……」


「……分りました」


 竜之介はそっと布団から出ると身支度をして、ゆっくり出口の方へ足を向けた。背後から桜子が、


「ありがとう……竜之介……例えそれが全部演技だったとしても、私は救われました……」


「さっ、桜子さん、それは、違いますッ!!」


「ふふふ……もういいのです。竜之介、おやすみなさい」


 桜子は布団の中に潜り、その言葉を最後に何も言わなくなった。帰る途中で長信が、


「竜之介……分かったか? あれが桜子という女なんだ。一本でよ……すげえ気難しくて……そんな、そんな女を俺様は……っ!!」


「はい……俺も何か分かった気がします……」


「だからよ竜之介、俺様はお前がずっと桜子を守ってやれるような強い男になる様、鍛え上げてやると決めたぜ!! 覚悟しなっ!!」


「はい、俺ももっと強くなりたいですから!! お手柔らかにお願いします!!」


「よっしゃあ、俺様に全て任せときなッ!! がはははははっ!!」


 竜之介は天を仰ぎ、新たな決意を胸に、大きく深呼吸をするのであった。


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