■斎藤姫野編(陸)
――道場の裏手にある風呂場。宗政は丁度良い湯加減の風呂に浸かり、生傷を癒しながらほっと溜息を吐いている……どこでは無かった。宗政の額は湯の熱さで出た汗なのか、それとも仕切りを隔てた反対側で姫野が湯加減を見ているといった恐れ多いい事実に怯えて出た汗なのか、とにかくその顔はずっと緊張したままであった。
「あ……あの、姫野隊長、本当に、も、もういいですから」
「……何を言っている宗政? 遠慮などしなくていい……しっかり傷を癒すがいい……」
「はは……有難うございます」
苦笑いをする宗政は実際の所、気が気ではない。この状況に耐え切れず「温まりました」等と言って、幾度が風呂からの脱出を試みるも、「……まだ駄目だ」と、姫野に却下されててしまい、出るに出られない状況だったのだ。
そんな宗政の気持ちも露知らず、風呂にくべた薪が勢い良く燃え盛る様をぼうっと見ながら、今日起こった出来事を思い返していた。
「……私は、夢でも見させられているのだろうか……確かにあの時、宗政はシヴァに……」
ゆっくりと瞼を閉じる姫野。薪が熱で弾ける音を耳にしながら、脇腹を抉り取られ、目に入れたくも無い物が目の前に曝け出でいる宗政の姿が脳裏を翳めた。
「――ううっ!」
思わず、両手で口を押えながら立ち上がる。そのまま縋る様にして小さな小窓から湯船に浸かっている宗政の後ろ姿を確認する。
「……ああ、良かった……宗政はちゃんと、生きて此処にいる……」
仕切りに背を向け、夜空を見上げる姫野。その時、月明かりと重なる様にして、黒丸が嘴に荷物を加えて降り立って来た。
『すまねえ姫野、ちいと遅れちまった』
「……私の方こそ無理させてすまなかったな……」
『なぁに、良いって事よ。それより向こうはお前等がチェスにやられたって大騒ぎになってるぜ?』
「……そうか。それで、秀光の様子は……どうだ?」
『へっ、やっこさん、どうもお前達の死体が見つけられないの気にしているみたいだぜ?』
「……ふふ、私達は生きて今、此処に居るのだから……見つけようもあるまい……」
『まぁ、明日が本番だろうから、さっぱりしてさっさと寝ちまいな。俺ももう、眠いから山ん中戻るぜ?』
「ああ……本当にすまなかったな」
『いいって、いいって。それよりお前等、まさか寝不足で腰抜けになってた、なーんて事にならねえようになあっ!』
「そ……そんな事!」
むきになった姫野が言い返そうとした時、黒丸は既に夜空に向かって飛び立った後であった。
「……全く、黒丸の奴め……馬鹿な事を」
姫野は黒丸が持って来た荷物を持ちながら、宗政の方を伺っては、何処となくそわそわしている。宗政は宗政で、湯船から出るに出れず、額から流れて出ていた汗は何時しか真っ赤になった顔から噴き出る位になっていた。
その何とも言えない二人の様子を見ていた竜之介は、空中で漂いながら、苛立ちを感じていた。
――全く、俺も人の事言えた物じゃないけど、この二人を見ていると本当にお尻の穴がむず痒くなる感じになるなあ。
*本当、このままではマスターの身が危険に晒されてしまいます。って、今、誰が言ったのでしょう?*
直ぐ竜之介の近くに火目子が来ていた。火目子は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、直ぐに我に返ると、
*ああっ! ぼおっとしてました。 急いでマスターの元に行って、あの女狐より先に私が御背中を流して差し上げないと!*
お風呂セットを抱えた火目子が急いで宗政の所に行こうとする所を、別の誰かが、火目子の襟首を掴んだ。首を絞められた鵞鳥の様な声を上げた火目子は、その人物に対して怒りの表情を見せた。
*こっ、この氷華! いきなり何て事を! 私を殺す気ですかっ!?*
*そうね、人の恋路を邪魔する馬鹿精霊は馬に蹴られてくたばった方がいいかもね*
目を皿にした氷華が嫌味を含めた口調で言い返す。
*ふん! 氷華の阿保な主が、マスターに近づかない様にするのは当たり前の事ですっ!*
*いや……あの二人にはさっさとくっついて貰わないと、もう、見てられなくって私の身が持たないのよ。悪いけど、あんたは行かせないわ*
*そ、そんなの知ったこっちゃ――ああっ! ちょ、離してええっ!*
火目子は首襟を氷華に掴まれたまま、強制退場させられてしまった。そんなドタバタ劇に一瞬、視界を奪われてしまった竜之介だったが、再び視界を戻すと、意を決した姫野が衣服を脱いで宗政の行く姿が飛び込んできた。
――おおっ! 遂に進展が! 今から二人は背中を流し合って、更に互いの気持ちが深まる筈だ!。
「……宗政、わ、私も一緒に入っても、よ、良いか?」
恥ずかしそうにして、風呂場に足を踏み入れる姫野。それと同時に宗政が、
「くうう……もう、限界です、頭がくらくらして来ました。姫野隊長から脱出の許可は出ていませんが――」
勢いよく湯船から水飛沫を上げながら立ち上がった宗政の目は渦巻き状になっている。
「……だ、大丈夫か!? 宗政――わああっ!」
慌てて姫野が目を覆った瞬間、握っていたタオルを手放してしまい、大柄で豊満な肉体が宗政の前に差し出されてしまった。
「え……その声は、ひ、姫野隊長!?」
体勢を立て直そうとした宗政は、まず意識を取り戻そうと視力の回復に努めた。が、それは逆効果となり、更に最悪な事態を招く事となる。視力を取り戻した宗政の目には当然、姫野の生まれたままの姿が飛び込んで来た。
「お? おわああああっ!?」
「きゃああああああああああっ!」
宗政の顔は姫野の拳が減り込んだまま、再び湯船へ押し戻され、激しい水音を立てながら上半身だけが湯の中に沈むと、やがてその湯は赤色に染まり始めた。
「あああっ! 宗政! すまん! しっかりしろっ!」
慌てて湯船から引っ張り上げられた宗政は、完全に伸びてしまった。
――な、何でこうも二人は上手くいかないんっだろう……。
甘い展開を期待していた竜之介は、絵に描いた様な喜劇を見せられ、只、呆然とする事しか出来なかった。
「……む」
「……よ、良かった! 気が付いたか宗政!?」
道場に有る宗政の仮部屋。そこで意識を取り戻した宗政は後頭部に柔らかい弾力を感じた。やがてそれが姫野の膝枕である事を理解するにそう時間は掛からなかった。
「こっ! これは!」
慌てて飛び起きようとする宗政を力ずくで姫野は押さえつけた。
「……まだ起きては、駄目だ」
「いや……しかし、こんな事してもらう等と、姫野隊長に対して何と恐れ多い――」
「……宗政、お前という男は本当に馬鹿が付くほど……正直者だな」
「ははは……私は真面目だけが取り柄ですから……」
苦笑いをする宗政の顔を覗き見ながら、姫野は深い溜息を吐いた。
「お前……私が『出て来い』という言葉を待っていたのか?」
「すみません……結局、命令違反をしてしまいました……本当、情けない男ですね私は」
「……馬鹿! 本当にあのまま死んでしまったら……お前はどうするつもりだったのだ!」
姫野が真剣に怒っているのを感じた宗政は一瞬言葉を詰まらせてしまった。
「だ、大丈夫です、私はこの通り生きていますよ」
「宗政……お前は本当に此処に居るのだな……?」
一瞬、戦場でのあの惨劇が、姫野の脳裏を翳める。
「はい。私が姫野隊長を残して先に逝く訳がありません、ご安心ください――」
覗き込む姫野の目と宗政の目が合わさり、周りの空間が水を打った様に静まり返った。
「……宗政」
「姫野隊長……」
姫野の顔が次第に近くなっていく。更に距離が縮まろうとした時、宗政が慌てて飛び起きた。
「さ、さあ! 私も回復した事だし、何か腹ごしらえでも、た、確か非常食が此処にあった筈です」
「あ、そうでした! 姫野隊長、就寝時には、その布団を使ってください。ちゃんと定期的に天日干ししてるので、ご、ご安心を!」
「その他、何なりとご命令を。私はそれに応えてみせますから、ははは……」
必死に先程の雰囲気を無かった様に振る舞う宗政。重みと温もりが無くなった膝元を見つめながら、姫野は、「私は、お前に私の命令に応えて欲しいのではない……私の気持ちに応えて欲しいのだ……」と、寂しそうに呟いた。




