■織田いちの編(参)
「……い、……おい!」
「ううん……もう、朝か……」
――あ、そうだった。俺は今はお兄ちゃんだった。ここは長信さんらしくしないと。
「おお、起きたのか、いちの、お早う――ぶっ!」
竜之介にまるで子猫の様にしがみ付いて寝ていたいちのは既に消え、その変わり、竜之介の顎に頭突きを入れて、怪訝そうに睨んでいるいちのが居た。
「いちの、お早うではない、これはどういう事だ?」
「まさか、貴方はい、いちのさんですか……?」
「お前……私が眠っている間に、いちのに何をした?」
いちのの右手は、立て掛けている薙刀へと差し伸べられた。
「わ、ストップ! ちょおっと待ったあ! 今事情を説明しますからっ!」
竜之介はいちのが眠っている間に何が起きていたのか詳細に話した。
「……ふむ、成程な。いちのがそんな事を」
「はい、だから俺は今日から長信さんとして、いちのちゃんに接しようかと思って――」
「ふん。お前が兄様の領域までに達するまでは千年位、要する」
「はい……その意見に俺も同意します」
「情けない奴だ。すぐに弱音を吐きおって」
「うう、とりあえず腹ごしらえを……あの、早速で悪いのですが、いちのちゃんを呼んできて貰えませんか?」
竜之介がいちのにお願いするも、いちのは眉を歪めて、首を横に振った。
「え? それは、どういう事ですか?」
「だからな、いちのは、……ぬのだ」
「え? いちのさん、良く聞こえませんよ?」
「ええいっ! いちのは自分から閉じ籠ってしまって、表に出て来ぬと言っているのだ!」
「え? ええええっ!?」
「……で、いちのさん、こいつの原型は一体何だったのですか?」
竜之介は皿の上に載った黒い物体を指差しながら顔を引き攣らせた。
「――魚だ」
「ほほう、で、こっちの黒焦げになっている丸い物体は……?」
「見て分からないのか? それは大茸の笠の部分だ」
「へ、へえ……じゃあ、この三角で程良く黒焦げになっているのは――何ですか?」
「愚問な――おにぎりと決まっておるだろう?」
「ふ、ふうん……おにぎりねえ……」
「うわあああっ! い、嫌だああああっ! いちのさん、今直ぐいちのちゃんを起こしてきてくださいっ!」
「ええいっ! 大の男が、こんな事で、狼狽えるでないっ! 案ずるな、食おうと思えば食える!」
「いーやっ! これは無理です! 食えません!」
「そうか、ならば、お前の大好きな『あーん』とやらで、この私が食わせてやる! さぁ! 口を開けろ!」
竜之介は、口を貝のように閉じて、頑なに開けようとはしない。
「この私に、抵抗するとは良い度胸だな……?」
その口を、強引に開かせたたいちのは黒い物体を箸で掴むと、次から次へと詰め込んでいく。
「もがもがもがーっ!」
竜之介はこの時、昨日まで美味しい手料理を作ってくれた天使の様ないちのが、悍ましい悪魔に見えた。
「さて、竜之介。腹も落ち着いた事だろうし、そろそろ特訓を始めるぞ」
――ううう……はっ、腹が、いてえ。
「で、今日もお前は、私の攻撃から逃げ回っているだけなのか?」
「だって、仕方が無いじゃありませんか、獄龍が抜刀出来ないんだから!」
「そうか、ならば私の目の前で無様な踊りを見せるがいいっ! いくぞっ!」
薙刀の刃が竜之介の頭上で空気を切り裂きながら、通り過ぎる音がした。
「うわっ! あぶな――」
「そら、そら、そらっ! 兄様はそんな情けない姿を晒した事ど一度もないぞ!」
更に容赦無い、いちのの連撃が始まる。
「ひっ! ぎっ! ぐっ!」
それを曲芸の様に、竜之介はくねくねと体を捻りながら交わした。
「ふん、すばしっこい奴だ! しかし、流石兄様、鍛えられる所はちゃんと鍛え上げておられる」
「どうですかっ! 俺だって長信さんの辛い特訓に耐えて――む? 待て!」
「どうした? もう疲れたのか?」
「いや、俺の荷物の中に、なんでこんな物があるのかと思ってたけど……」
竜之介は荷物の中から白い鉢巻を取り出した。
「お前、それは兄様の――!」
それを竜之介がしっかりと頭に巻き付けた時、気のせいか、力が漲ってくるのを感じた。
「うっしゃあ! なんか気合い入って来たぜえ! 来いいいっ!」
「そ、それを巻いたからと言って、兄様に近づけたと思うなよ!」
「さあて、それはどうでしょうかねえ?!」
自信満々に答える竜之介。だが、実際は何も変わってはいなかった。
「あんぎゃああああああ!!」
昨日と同じ様に、竜之介の断末魔の声が滝の音で空しく掻き消されてしまった。
「……くそっ! もう少しで何かが掴めそうだったのに! おほー、湯が傷口に沁みるうう」
竜之介が温泉に浸かってぼやいていると、衝立の向こう側から湯を流す音が聞こえてきた。
――お。どうやら、いちのさんも温泉に浸かったようだな。
「竜之介……聞こえるか?」
ふと、いちのから声を掛けられる。
「あ、はい、なんでしょう? いちのさん」
「なあに、お前が少しでもおかしな行動を取ったら、お前の大事な部分が温泉の素になる旨を伝えておこうと思ってな……」
「は、はひ……、そんな無謀な行動は致しません」
――いちのさんはいちのちゃんの全く真逆な性格だ。き、気を付けないと……。
お約束の展開に、竜之介は安堵の溜息をする中、少しだけ残念な気持ちが、心の中を過ったのであった。
「あ、いちのさん、晩飯は俺がやりますよ」
竜之介は責任を感じながら、必死に晩御飯らしきものを作ろうとするいちのを見るのに耐え兼ね、炊事当番を申し出た。
「駄目だ。世話係のいちのが眠ってしまった今、いちのの変わりをするのはこの私を於いて他に居ない」
「――じゃあ、ずっと得体の知れない何かを腹の中に入れるんですか? そんなの、いちのちゃんにとっても良くないですよ!」
「――うっ! しかしだな」
竜之介に正論を言われて、いちのは返す言葉が見つからなかった。
「あ、じゃあこうしましょう、いちのさんは俺を鍛える。俺はいちのさんに料理を教える、いいですね?」
「ふん、しょうがない。それで良かろう」
――うっしゃああっ! 俺の命は保証されたああっ!。
嬉し涙を浮かべた竜之介は、食材を求めて、散策に走った。
「――で、魚を焼き過ぎない様に、少し火を弱めてください。何本か薪を抜いて。そうそう、その位で良いでしょう」
「そして、塩は掛け過ぎない様に、気持ち程度に振り掛けて――」
「む……こ、こうか?」
「いいですね、完璧ですよ、いちのさん」
「そ、そうか……?」
竜之介がいちのを褒めた瞬間だった、普段見せない笑顔を、いちのが初めて竜之介に見せた。だがそれは直ぐに本人が気付き、元の不愛想な顔に戻した。
「よし、あとは、見栄えを気にしつつ、盛り付けて……よし、完成っ!」
「さぁ、食べましょう、いちのさん!」
「いっただきまーす!」
「い、頂き……ます」
「『美味いっ!』」
此処で、互いの感想が同調する。
「――でしょう!? これ全部いちのさんが作ったんですよ! 凄いじゃないですか!」
「な、なに、元々はいちの本人の筋が良いのだ。経験さえ積めば、この様な事、容易い……こほん」
――あ、なんか嬉しそうだ。
竜之介に再び見せたいちのの笑顔が普段の顔に戻る迄、先程よりは長く続いた。
「竜之介……一応、言っておくが、その線より私に近付いたら……」
――就寝時。いちのの鉄壁なガードは、石畳に刻まれた線によって表されていた。
「分かってますよ、俺の分身が地に帰るんでしょ? 大丈夫ですって」
「……そうか、それなら良い」
「……竜之介」
その境界線からいちのは呟く様にして、竜之介に声を掛けてくる。
「はいはい、今度は何ですか? いちのさん」
「その……あれだ……今日は、あり……有難う、か、感謝する」
暫くの沈黙の後、竜之介は満足そうな顔を浮かべた後、ゆっくりと目を閉じて答えた。
「…………はい。じゃあ明日も早いし、俺もう寝ます、お休みなさい、いちのさん」
「あ、ああ……お、おやすみ」
この時、竜之介には、顔を赤らめて困惑しているいちのの表情がはっきりと浮かんでいたのであった。




