■織田いちの編(弐)
「大変、お疲れ様でした。竜之介さん、それにしても随分やられちゃいましたね? 大丈夫ですか?」
ずたぼろに切り裂かれた竜之介の稽古着を見ながら、いちのは心配そうに声を掛けた。
――いや! これをやったのは実際は君だからっ!。
「日も暮れちゃいましたし、竜之介さん、そろそろ一緒に温泉へ行きましょうか」
「え? あっ、ああそうだな、特訓(薙刀から必死に逃げ回る)で、くたくただし、行こうか」
少し下った所に、十洞温泉の入り口がある。竜之介達は温泉に付くとそれぞれ分かれて脱衣場に向かった。
「じゃあ、いちのちゃん、又後でね!」
「ああ……やっと、俺の時間がやって来た」
稽古着を脱ぎ捨て、竜之介は勢いよく温泉に向かって走り出す。軽く湯を掛けてから勢い良く、温泉に飛び込んだ。
「くーっ、痺れるうっ! 癒されるうっ!」
いちのの薙刀捌きによって、新たに生み出された竜之介の傷口を、自然の中で育まれた温泉の力が優しく包んでいく。それは竜之介の傷口から伝わる少しの痛みと、程良い温度を感じる事で実感出来た。
「はあー。極楽極楽。こうして、空を見上げれば、星もうっすらと輝き出して来ている……絶景かな絶景かな」
「いちのちゃんも今頃温まってる頃かな……って、駄目だ、駄目だ、如何わしい妄想をするなんて――」
静かに目を閉じて、呟いた竜之介が、再び目を開けた時、その美しい光景は見えなくなってしまっていた。それは決して急に雲が曇って天気が崩れ、星々達を隠したという事では無い。単にバスタオルを巻いたいちのが竜之介の顔の上から覗きこんでいたからだ。無論この時、風神の鍔がいちのの胸の谷間から消えていた事は云うまでも無い。
「え? えええっ!? いちのちゃん!? な、何でお、男風呂に!?」
「え? って、何を言ってるんですか、竜之介さん、当然御背中を流しに来たんじゃないですか。ささ、上がってきてください」
「い、いやいや! いいって! 自分で洗うからっ!」
「もう! 竜之介さんもお兄ちゃんみたいに、そんな風にあからさまに遠慮するんだから。私が背中を流すのは当然の事でしょ?」
「当然って……ちょっと聞くけど、いちのちゃんって長信さんが風呂に入ってる時に一緒に入ったりしてたとか……はは、まさかね?」
「え? そうですね、お兄ちゃんは『絶対入ってくんじゃねえ!』って、言ってたけど私は一向に気にはしなかったですよ?」
――いや、其処は気にしようよ! ……長信さん、今なら俺、あなたの気持ちが少し分かる気がします……!。
「とにかく、温泉から早く出てきて下さい、私が湯冷めしちゃってもいいのですか?」
「わ、分かった! 分かったから!」
いちのの言われるがまま、温泉から出た竜之介は手頃な岩石に腰を下した。すぐにいちのが優しい手付きで竜之介の大きな背中を、余白を余すことなく洗っていく。
「――うう、それにしても、いちのちゃん、以前此処に来た時とは随分変わった気がするんだが、俺の気のせいかな?」
「ああ……あれはですね、美柑さんがいきなり私のタオルを奪ったから、流石にびっくりしてしまって……でも」
その瞬間、少し間が開いたかと思うと、竜之介の背中に柔らかな感触が伝わってきた。
「――いっ、いちのちゃん!?」
「今は違いますよ? だって、竜之介さんは『私だけを見てくれている』じゃないですか? お兄ちゃんだってそう、いつも私だけを優しい目で見てくれていたんです」
「あっ! 竜之介さん私、お兄ちゃんと竜之介さんを比べている訳じゃないんです! 誤解させたら御免なさいっ! どうか、どうか許してくださいっ! 私を嫌いにならないでくださいっ! お願いですっ!」
急に顔を強張らせて必死に頭を下げ謝罪を始めるいちの。その光景は竜之介にとって異様な物に見て取れた。
「だ、大丈夫だ! いちのちゃん、俺、ぜ、全然気にしてないからっ!」
――怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いっ! なんだ、このいちのちゃんの情緒不安定の深さはっ!?。
「本当ですか? 嘘はついてませんよね?」
頭をぴたりと止めたいちのの顔が急に無表情に変わった。
「ああ、勿論だとも! この俺の純粋無垢な目を見てくたまえっ!」
その恐怖心を必死に押さえながら、竜之介はふざけて見せた。
「……良かった。それなら、安心しました」
深く安堵の溜息を吐いたいちのの顔は、普段通りのいちのに戻っていた。そんな様を見せられながら、竜之介はもう片方のいちのが呟いた言葉を思い出した。
『心開いた相手に対し、いちのはひたすら一途になる』
――なんで、こんな場面に限っていちのさんは出てきてくれないんだあっ!。
竜之介の心の叫びは、内なるいちのには届かず、その後もいちのの言うがままとなるしかなかった。
「竜之介さん私が、おかずを取ってあげますね。さ、口を開けてください」
いちのは持参した食料を手際よく調理し、石のテーブルの上に並べると、そのおかずを箸で取って嬉しそうに微笑んだ。
「お、俺はいいから、いちのちゃんも食べろよ」
「いーえ、竜之介さんが召し上がって頂くまでは、私は食べません、そんな事を言って、本当は私の事を嫌っているんじゃ――」
少し嫌な空気が流れた。
「分かりましたっ! 食いますっ! 食うからっ!」
――いちのさああああんっ! お願い、出てきてええええっ!。
ここでも、竜之介の心の叫びは届かなかった。
いちのに、強制的意に口の中におかずを詰め込まれるといった、罰ゲームにも似た食事も終わり、竜之介達は洞窟の中に携帯した灯柱で、中をうす暗く灯し、即席の寝床に互い間を少し開けて、寝ころんでいた。
「……竜之介さん」
いちのと顔を合わす事が出来ず、背中を見せている竜之介に向けて、いちのが声を掛けた。
「何だい? いちのちゃん」
「私の事を知れば知る程、竜之介さんは私から離れていくのでしょう?」
更にもう一段回、洞窟内に重い空気が重なった。灯柱は宙に浮いたまま、静かに回転して、辺りを神秘的に灯し続ける。
「そ、そんな事は無いよ……」
「いいんです。本当は自分でも分かってるんです、私、きっと何処かが壊れてるんですよ」
苦笑しながら、いちのが寂しく声を漏らした。
「いちのちゃん……」
溜まらず竜之介が、いちのの方へと向き直った時、いちのは小刻みに震え、その目は竜之介を見ておらず、その視線の先に映っているであろう、何かに焦点を合わせていた。
「だから、お兄ちゃんも私から離れて、桜子さんの所へ行ってしまったの」
「小さい頃から、ずっとお兄ちゃんの背中を見て来た。頼りがいがある大きな背中だった」
「でも、その背中はどんどん小さくなっていってしまって、私が手を伸ばしても届かない所まで行ってしまった……」
「私、お兄ちゃんを奪った桜子さんを凄く憎んで恨んだ。心の中で『死んでしまえばいいのに』さえ、思ったの……そうしたら――」
「お兄ちゃんの方が――先に天国に行っちゃった……」
その一言が、一瞬にして洞窟の中に重圧を掛ける。竜之介は洞窟の中には十分な酸素があるという事を理解していたが、重苦しい重圧によって押さえつけられた僅かな酸素を求める様にして、息を荒げ始めた。
「ねえ、竜之介さん、これってきっと、神様が私に罰を与えたんですよね? 私が桜子さんを憎んだから……」
「だから、神様は私から大好きなお兄ちゃんを奪い――」
「そして……竜之介さん、貴方さえも連れて行こうとした……何故だか分かります?」
「それはね……桜子さんが、私から竜之介さんを奪おうしたから」
「――え?」
竜之介はその言葉を聞いて、背筋が凍り付いた。
「私、知ってるの、竜之介さん、桜子さんに随分気に入られているでしょう? 今までの事、全部知っていますよ? 勿論、あのペンダントの事も……私、貴方が獄龍の技を放った時からずうっと竜之介さんの事、目で追っていましたから……」
「そして、二度と恨む事が無いって思っていた桜子さんを見た時、『ああ、またこの女は私から大切な人を奪っていくんだ』って思った時、心の奥底から悍ましい何かが蠢き始めて……だから、竜之介さんが死にそうになったんです」
「いちのちゃん、それは違う――!」
「あーあ……竜之介さん、やはり桜子さんの事を思い出していたのですね?」
特に定まってなかったいちのの視線は、ゆっくりと竜之介の両目に焦点を合わせると、その目元が怪しく縮んだ。
「しまっ――!」
「別に隠さなくてもいいんですよ。私が最初、桜子さんの名前を口にした時、竜之介さんの顔に若干の動揺が見て取れましたから、私、直ぐに分かっちゃいました。だって、竜之介さんって、とても素直で、本当、お兄ちゃんみたいで……」
「だ、だとしても、いちのちゃん、さっき言った事は違う!」
必死に取り繕うとする竜之介。その様を見たいちのは抱えていた不安を爆発させた。
「違いませんよ! だってそうでしょう? 私では、お兄ちゃん同様、竜之介さんを引き留める魅力も力もないんだから! あの桜子さんに勝てる訳がないっ! だから竜之介さんも必ず桜子さんの所にいってしまう! 私がそう思ったから、あの女を二度も恨んでしまった、だから、竜之介さんは――!」
「違うよ! それは、違うっ!」
二人の大きな叫び声は洞窟内で更に増幅され、まるで何人ものカップルが口喧嘩をしている様な感じで、木霊した。
「それなら……竜之介さんが絶対桜子さんの方に振り向かないって私に誓ってくれるのなら、今直ぐ私を抱いて下さい……お願いです」
先程の怒りから一転、いちのは冷ややかに言い放つ。重圧に加え、今度は冷気が竜之介の体を襲った。
「――なっ!?」
「ねえ、竜之介さん、こんな肝心な時に何で、もう片方のいちのと入れ変わらないんだ? って今、思ってるでしょう?」
「知ってますか? もう片方の私が必ずしも起きてるとは限らないんですよ? 残念ながら、今は深い眠りに付いていますよ。私達は入れ替わった時、それが分かるんです」
「――だから、ねえ、竜之介さん、『邪魔者』はいませんよ……? さぁ、竜之介さん……」
色っぽい吐息を吐き、ゆっくりと這いずりながら、竜之介の足元に近付いてくる。そのままいちのの両手が竜之介の両足を支配すると、それを伝って上半身へと移動し始める。やがて、いちのの豊満な胸は容易に竜之介の上半身に重圧を加えると、瞬く間に占拠してしまった。
「いちのちゃん、俺は……」
――このまま流れに任せてしまうか……。
竜之介が本能に身を任せ、背中に回した手をいちの体を覆おうとした瞬間、あの言葉が竜之介の心に響いた。
『良いか竜之介、その真意を見極めろ』
――ああ、そうだった。いちのさんはそう俺に言ってたな。それなら、本当にいちのちゃんが俺に求めている物が何なのか……良く考えるんだ、俺。
――自分が大切に想う人が離れると、その相手を恨み、その結果、大切な人が消えて無くなる……長信さんが死んでしまった事でそう思い込んでしまっている。だから、いちのちゃんは俺に……なんて、なんて不憫な娘なんだ!。
竜之介が一つの結論に達した時、今度は長信が別れる際に言い残した言葉が、竜之介の心の中で響いた。
『竜之介……いちのを、悪夢から救ってやって……くれ……』
――そうか、だから長信さんは、俺に『救え』と言ったのか……いちのちゃん、君は何処も壊れてなんかいない。ただひたすらに『純粋』なだけなんだよ。
「もう、いい……もういいんだ、いちのちゃん」
「え? 竜之介さん、何がもういいのですか?」
「いちのちゃんは俺との絆を深め、自分の傍に居させれば、誰も恨む事は無い――その結果、俺が長信さんの様に死ぬ事は無い……そう考えたんだろ?」
「――え?」
「それだけじゃない、君は長信さんと俺を重ねてはいないという実証が欲しいが為に、俺に抱かれようとしている。でもな、君はまだ俺と長信さんを一緒にしてしまっている、それを認めるのが怖いんだよな?」
「ち、違います! そんな事は決して――!」
「いいじゃないか、俺が長信さんでも。お兄ちゃんでも。俺の事をそう思ってくれればいいんだ。何故なら君は獄龍を通して、ずっと俺を長信さんとして見てたのだから……」
「りゅ、竜之介さん……わた、わたし」
「それなら俺は、必ず獄龍を抜刀し、君の傍から離れないと誓う……そして、君を置いて、絶対に死なないと誓う」
「わた、わたしわぁ……」
「今は俺を長信さんと思って見てくれていい。でも、俺が長信さんを超えたその時は俺を一人の男――竜之介として見てくれないか?」
「ああ……あああっ!」
「だからいちの、今は俺が――お前のお兄ちゃんだ」
その瞬間、いちのの目には、優しく微笑んだ竜之介の顔が長信に映って見えた。
「あああああっ! お兄ちゃん! ごめん、ごめん、ごめんなさいいいっ!」
「いいんだ……だが、これだけは言っておくぞ。お前が桜子を恨んだから、俺様が死んだんじゃあないって事、そして、それを繰り返したから、竜之介が死に掛けたんじゃあないって事を――」
「そんな風にずっとお前を苦しめている原因は、全部秀光の野郎のせいだ。なぁに、心配するな。俺様が獄龍の大技で直ぐにぶっ倒して来てやる。だからお前はもう苦しまなくてもいい。分かったか? 俺様の愛しい妹、いちの」
「うん! うん! うんっ! 分かったよ、お兄ちゃん!」
「良し、いい娘だ。そのまま目を閉じて、ゆっくり眠れ」
竜之介は自分に必死にしがみ付く、いちのの頭を何度も撫でてやった。
「……うん、お兄ちゃん……帰ってきてくれたんだね……私、凄く……うれ……しいな」
やがて、いちのは静かに寝息を立て始める。初めて見せたその穏やかな寝顔を、灯柱がゆっくりと回転しながら、静かに見守っていた。




