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■織田いちの編(壱)

「長信さんの妹の……」


「はい! 私、織田いちのです! 竜之介さん、分かりますか!?」


――あれ? 待てよ。俺はいちのちゃんの事をはっきり覚えてるぞ。確か、あそこには居なかったし、蛍さんからは説明はなかった筈だ――。


「うおっ!」


 竜之介が不思議に思ったその時、自分に向かっていちのが両手を広げて飛び込んで来た。


「い、いちのちゃん?」


「もう! 竜之介さんが目覚めたと聞いて、でも、私達の事を忘れてるって蛍さんが言っていて、でも、竜之介さんはちゃんと私の事を覚えてくれてたっ! もし、私の事を竜之介さんが忘れてたりしてたら――」


「いちのちゃん、お、落ち着いて――!」


 竜之介が宥めながら、いちのを引き離そうとした瞬間、右の耳朶に痛みが走った。いちのが噛みついていたのだ。


「――っ!」


「……そんな事になっては、私が困るからな。なぁ……竜之介?」


 耳朶からは鮮血が滴り落ち、それをいちのは愛しそうに吸って、竜之介から離れて微笑んだ。その明らかに先程のいちのと違う雰囲気に竜之介は直ぐに気付いた。


「あ、ああ……貴方は、いちのさん! 『あの時』もやはりあれは、いちのさんだったのか!」


「ふん、接吻の時か? まぁ、そんな事はどうでも良い。それよりしばらく見ない内に、すっかり以前の間抜け面に戻ってしまった様だな? しかも、秀光にしてやられるとは……全く不甲斐ない奴め」


「う……あれは、つい油断をして――」


「笑わせるな、竜之介。お前は戦の最中でも敵に斬られる度、『油断した』などと、言い訳をするのか? そんな事でいちのを守れるとでも思っているのか?」


「ん? なんだって? 駄目だ、こいつを甘やかすと為にならんぞ」


――どうやらいちのさんは、中のいちのちゃんと会話しているらしい。


「……それに先程から見ていたが、お前、獄龍を抜刀出来なくなってるではないか」


「そ、それは……」


「まさか、それも『油断した』なんて、言うんじゃないだろうな? 我が兄様の代わりとなって秀光を討たねばならぬ者が、そのような事でどうする?」


「はは……いちのさんは相変わらず、手厳しいなあ……少しは優しくしてくれても……」


「な……わ、私はそういうのは向いていない」


――ん? 今少し、優しさの片鱗がちらっと見えた気がする。


「と、とにかくこれか獄龍を抜刀する練習をしてですね――」


「……ふうっ、あ。竜之介さん、私は『いちのちゃん』ですよ?」


「え? あ? いちのさんは引っ込んだの?」


「彼女はああ見えても、優しいところがたくさんあるんですよ……って、余計な事言うなって、でもちゃんと竜之介さんに分かって貰わないと……」


――これは、流石にややこしいな。


「あ。そうだ、私、竜之介さんに力を付けて貰おうと、お弁当を作ってきたんです!」


 いちのは嬉しそうに弁当が入っている風呂敷を竜之介の目の前に差し出した。


「いちのちゃんが――俺に? それは有り難たい」


「それで、皆さんに遅れを取ってしまったんですけど、偶然此処で竜之介さんに会えるなんて私、今日は運が良いみたいです。ささ、其処に座ってください」


「其処にって……ここは長信さんの墓の前だよ? 何だか凄く怖いんだけど……」


 恐る恐る、長信の墓を見つめながら横並びに積み重ねられた大きな石の上に腰掛ける竜之介。何処か嫌な空気が流れている。竜之介はそう、感じてしまっていた。


「はい、そうですね。お兄ちゃんのお墓の前ですね」


「そんなにあっさり言われても、困るんだけど……」


「またまた、竜之介さんったら。大丈夫ですよ、だって竜之介さん私の事を『好き』だと言ってくれたじゃないですか、まさか……忘れたりなどしてませんよね……?」


「はは……顔が笑ってないよ? いちのちゃん」


――あ、あれは確か、他の隊長を含めてって……いや、言うまい。言ったら入れ替わってきそうで怖い。


「あ、ああ。忘れるもんか……あはははは」


「……まさか、竜之介さん『も』、私より『桜子』さんの方が良いって言うのではないのでしょうね?」


――桜子さんって、さっき医務室で何かを呟いてた人か。


 その名前を竜之介が頭の中で再び復唱した時、今度は鮮明に長信と桜子の関係を思い出した。


――な、何だ? 急に記憶が繋がり出した。桜子さんは、長信さんの彼女で……そうだ、思い出したぞ! 桜子さんは、俺にあのペンダントを……。


「どうしたのですか? 竜之介さん、何だかお顔の色が悪いですよ?」


「い、いや、大丈夫。なんでも無い」


――今は、いちのちゃんには、桜子さんの事は伏せておこう。


「そうですか、それなら良かったです。じゃあ竜之介さん。早速ですけど、あーんしてください」


 大勢の隊の者のが二人に注目している最中、いちのは平然とした態度で言い放った。


――いちのちゃん、なんだかんだ言っても、流石長信さんの妹だ。人目など全く気にしていない。と、いうか、天然なのか?。


「どうしたんですか? はい、口を大きく開けてください」


「うう……長信さん、すみません……あ、ああ――」


 竜之介が口を開けた時だった。椅子替わりにしていた大石が横に大きく崩れ、箸の先が竜之介の鼻の孔を襲撃する結果となってしまった。


「ふごうっ!」


「ああっ! りゅ、竜之介さん! 大丈夫ですか! お鼻から、ち、血がっ!」


――うおおおっ! 長信さんは絶対にご立腹だぁあああ!。


 その後、竜之介は座る場所がしっかりしている事を、ありとあらゆる角度から何度も確認して、なんとか弁当を食べ尽くす事が出来た。


「あ、ありがとう……とても美味しかったよ」


「はい。そう言ってくれると、私も嬉しいです」


――そして、長信さん、本当にごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさいっ!。


 何度も長信の墓に向かって頭を下げる竜之介。いちのはその様を不思議そうな顔を浮かべながら見ていた。


「では、竜之介さんも、私のお弁当を食べて元気になった事だし、そろそろ――」


「そろそろ……?」


「お前が獄龍を再び使える様に、特訓をしなくてはならん……」


 いきなり、もう片方のいちのへと変わる。


「う、いちのさん、お、俺、病み上がり――」


「――聞こえんな」


 竜之介の声はいちのには届かず、その場でバッサリと斬り捨てられてしまった。ただ、竜之介は自分で病み上がりとは言っているものの、眠れるチェスの力によって、その傷口は殆ど、完治しているのであった。


「そ、それに俺、風神は使えると思います、いちのさん、ちょっと見ててくれませんか?」


 慌てて、いちのから距離を取って、鍔を握りながら抜刀の体勢に入る。


「ふぅ……落ち着け俺。確か風神は無心だった筈」


「――いくぞ」


「抜刀――風神」


 竜之介が無の境地に入った時、竜之介の脳裏に自分を厳しく指南する針鼠の姿が横切った。


「針鼠……ああっ! し、師匠っ!」


 そこで自分の師匠でもある天竜の事を思い出し、今の自分が天竜の命によって救われている事を痛感した竜之介は、風神を握りしめたまま、暫くその場で立ち尽くしてしまった。


「どうした竜之介? 抜けぬのか?」


 不思議に思ったいちのが声を掛けると、顔を俯けていた竜之介が目に涙を滲ませながら抜刀の体勢に入った。


「何だ? 竜之介、お前、泣いているのか?」


「――いちのさん、何でも有りません。いきますよ」


――師匠。ありがとうございます……。


 一呼吸置いた竜之介は静かに瞼を閉じた。


「抜刀――風神」


 その声に応える様にして、青剣がその姿を現した。


「良し……俺は棋将武隊で、まだ戦える……師匠、俺まだやれますよ!」


「竜之介、その鍔を私に見せてみろ」


 感極まって、解除した鍔を見つめている竜之介に向かって、いちのが冷ややかな顔をしながら手を差し出す。


「え? この風神をですか? 良いですけど……はい」


 すると、いちのは風神をそのまま胸の谷間に挟んでしまった。


「え、ええっ!? いちのさん、いきなり、何て事をするんですか!」


 その行為により、天竜との感動の場面は、一変に吹き飛んで行ってしまった。


「お前が幾ら風神を扱えようが、そんなのものは認めない。お前が振るうべき剣は獄龍なのだからな」


「よって、風神は私が預かっておく。返して欲しくば実力で私から奪うがいい」


「そ、そんなあ!」


 胸の谷間に挟まっている風神へ手を差し述べる等、今の竜之介ではとても実行する勇気など持ち合わせてはいない。そのまま、がっくりと頭を項垂れた。


「では、少し、此処で待っていろ、特訓の準備をしてくるから」


「ん? 準備って何の? って、いちのさんもう其処かに行ってしまった」


「すまん、待たせたな」


 暫くして、いちのが何やら大きな荷物を沢山抱えて、戻ってくるとそれを竜之介に向かって投げ渡した。


「ほら、あれを見て見て。織田さんと竜之介様よ」


 いちのと同じ薙刀武隊に所属している一人の女が竜之介達に気付き、指を差して仲間に知らせた。


「本当、織田さんったら、あんな大荷物と竜之介様を引き摺って一体、何方に向かう気なのかしら?」


 その様は誰がどう見ても、荷物を背負った竜之介を、いちのが強引に引っ張って行くという、絵柄であった。


「でも、織田さんって凄く大人しそうだけど、何かのタイミングで性格がガラリと変わる所あるよね?」


 少し嫌味を含んだ口調で、別の女が言い放つ。 


「俗に言う『二重人格』って奴じゃない? にしても、竜之介様は他の隊長に可愛がられているというのに、織田さんも度胸が据わってるわよねえ……」


 最初に竜之介達を指差した女が、そのまま十洞山へ向かう二人を見ながら、感心する様に呟いた。









「……いちのさん、もしかして長信さんの修行場所に行く気ですか?」


 竜之介は自分の足が、嘗て長信が修行をした場所に向かっている事に気付いていた。何故なら自分の耳にはあの懐かしい滝の音が聞こえて来ていたからだった。


「そうだ。あの場所なら寝泊り出来るし、十洞温泉にも近い」


「寝泊りって……日帰りじゃないんですか?」


「お前は馬鹿か。特訓だぞ? 当然泊まりだ」


「でも、俺が急に居なくなったら、皆が心配するんじゃあ……」


「それには及ばん。既に手は打ってある。玄真様に『目覚めた竜之介は私だけを覚えている。それならばこの私が、竜之介を温泉に連れて行き、暫く療養させてやりたい』と言ったら、快く快諾してくれたぞ、ついでに他の隊長達には一切の手出し無用と釘も差しておいた。ふふふふ」


「……そうなんですか」


「それにしてもいちのさん、長信さんの修行場所を良く知っていましたね?」


「無論だ。私といちのは、とても兄様を慕っていたからな……知らない事などありはしない」


「例えば……兄様の起きられる時、お出掛けされる時、湯あみの時、お休みになられる時、更に言えば、好きな食べ物、好きな書物それに……兄様のお気に入りの場所」


「更に、更に……兄様に蟻の様に群がってきた女共の貢ぎ物の数、兄様が隠していらした如何わしい本の隠し場所……」


 いちのが口を開く度、その内容が益々濃い物へと変化していく。


「も、もうその辺でいいんじゃないかな……」


「他人事の様に聞かれては困る。これからは兄様に変わり、竜之介、お前がそうなるのだからな、言っておくが、心開いた相手に対し、いちのはひたすら一途になる。肝に銘じておけ」


「……はい」


「あと、身の回りの世話はいちのに任せる、だが、私と入れ替わっても変な気は起こすなよ? その逆もだ……」


「え? その逆って?」


「それは今に分かる。とにかく、耐える事だ。良いか竜之介、その真意を見極めろ、分かったな?」


「は、はい……?」


 その逆とは竜之介がいちのを襲うのではなく、竜之介がいちのに襲われるという事であるが、大人しい、いちのイメージしか浮かんでこない竜之介にはそれが何を意味しているのか理解出来なかった。また、更にいちのに真意の見極めと問われ、益々混乱してしまっていた。


 いちのが何を言わんとしているのかを考えながら、足を運んでいた時、何時しか竜之介達は長信の修行の場所に到着していたのだった。


「うお……懐かしい。俺はここで長信さんと――」


――あれ? 俺は何をしたんだっけ? 記憶が曖昧で思い出せないぞ。


 確かに此処で竜之介は長信に指南を受けていたが、この時の竜之介は修行した内容がすっかり抜け落ち、長信が木刀を振っている姿しか浮かんでこなかった。


「荷物はこっちに置いておけ。すぐ特訓に入るぞ」


「成程……此処から入ると、この洞窟に辿り付くのか、知らなかった」


 以前、滝壺の滝の裏側は大きな洞窟になっていた事を竜之介は覚えていたが、いちのは滝壺から少し離れた所にある人が四人程度横並びで入れそうな穴から入り、その洞窟に行き着いていたのであった。


「ふん、私は先程から何でも知っていると言っているだろう?」


 荷物を置いて、洞窟から出たいちのは、竜之介から少し間合いを測ると、直ぐに薙刀を構えて、その鋭い刃先を向けた。


「さて竜之介、どこからでも私に掛かってくるがいい」


「分かりました――って、今、俺はいちのさんに風神を取られてるから、見ての通り丸腰ですよ? せめて木刀とか使っては駄目ですか?」


 恨めしそうにして竜之介は、いちのの胸の谷間に挟まっている風神を見た。


「それはならん。今のお前は、究極に追い込まれないと、その獄龍を抜刀する事が叶わぬ」


「さあ、早く獄龍を抜刀して、私に向かって来い。来ないのなら私から行くぞ?」


「行くぞって、薙刀の刃先がぎらぎら怪しい光を放っているのが、こっちから見ても分かるんですが、まさかとは思うけど、そのままこっちに向かって来る気じゃあ無いでしょうね?」


「竜之介、何を今更戯言を言っている? やるからには、私は本気で行く」


 力強く地面を踏みしめたいちのは、目にも止まらない速さで竜之介に向かってきた。


「わ! いちのさん、ちょっと待ってくれ! ば、抜刀、獄龍! だ、駄目だ、このっ! ばっとうごく

――」


「あんぎゃああああああ!!」


 こうして、竜之介の断末魔は、滝壺に落ちる滝の音で空しく掻き消えていくのであった。


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