鏡6
「千里」
ぐっと泣きそうな顔で晃子は唇を噛むと私に抱き付いた。ふわりと心地いい石鹸の匂いがする。それはとても落ち着くような気がして小さく息を吐いた。
「ごめんね。ごめん。驚かせて――心配かけて。千里。私たちは何も変わらない。ずっと一緒だよ」
心底思う。やっぱりこの人を私は困らせたくないのだと。私はいつだって笑顔に励まされてきた。笑っていて欲しいと思う。
――本当に私は馬鹿だ。
「うん」
私は晃子の小さな背中を撫でるように軽く叩いた。
「――ありがとう。千里」
消え入るような彼女の細い声をかき消すようにして、この場に不釣り合いな携帯の着信音が響き渡った。歌だ。アイドルが歌っている物でずいぶんポップな曲。それはどこか晃子にはイメージとかけ離れている気がした。何となく一之宮の趣味なのだろうと頭を過ぎる。
そう。晃子のものだ。私は携帯を家に置いてきている。
「一之宮から?」
囁くように言うと彼女は『うん』と微かに言った。のろのろと私から身体を離すとジーンズのポケットから携帯を覗き込んだ。淡く光る画面が彼女の横顔を淡く照らし出している。
おそらく一之宮なのだろう。彼女は躊躇するように私を見た。
「大丈夫」
にこりと微笑んで言うと、少しだけ悩む様にして彼女は耳に携帯を押し当てた。その横顔は先ほどまでとはどこか違う。少しだけ幸せなように見えたのは私の気のせいなのかもしれない。
「うん。うん。大丈夫だよ。――うん。じゃあね」
通話が終わったらしい。思った以上に早かった気がする。おそらく私に遠慮したのだろう。と思った。
そんな気を遣わなくていいのに。
「あ、晃子。先、帰って。私もう少しここで頭冷やすから」
ニコリと微笑んで見せた。
「――でも。危ないわ」
女の子がこんな人気のない夜に一人で。晃子は眉を寄せた。心配も分かる。近頃は物騒だ。けれど私はまだ帰りたくなどなかった。
まだ――駄目だった。手の中のものをほとんど縋るようにして強く握る。
「大丈夫だから」
根拠のない言葉に晃子は語尾を強めた。それはそうだろう。私でもそうする。だけれど帰りたくなんてなかったのだ。本当にわがままだとは自分でも思う。
だけれど落ち込んだ気持ちはもう少しここに居れば治るようなそんな気がして。
「だめだよ――千里」
「大丈夫だってば!」
思わず弾けるように言って私は口を押えていた。声を他人に――ましてや晃子に荒げたことなど一度だってないのに。それには私自身が驚くしかない。まるで感情が一瞬だけ爆発したかのようだった。
ただ晃子は驚いた様子で目を皿にしていた。
「……ごめん。けど大丈夫だから」
気まずくて目を反らす。
暫く沈黙が落ちた後で晃子は苦々しく笑みを私に浮かべた。泣きそうな表情――いや。すでに泣いていたのかもしれない。暗闇に溶けてよく分からなかった。
それがとても申し訳ないように思え私は視線を地面に落とした。そんな顔をさせるつもりではなかったのに。
「ごめん」
力なく、発せられたそれは蚊の鳴くような声だと自分でも思った。聞こえたかどうかは定かではない。
「――分かったわ。後で連絡するから」
ため息一つを残して彼女は音も無く静かな足取りで公園を後にした。元々華奢なその背中がさらに小さく見える。
「ごめん」
その声は聞こえたのか聞こえなかったのか。彼女がもう一度振り向くことはなかった。
「ごめんなさい」




