明星10
「そう言われると助かります。ありがとう。――けれど、もう大丈夫ですよ。凪とは話が付きましたから」
「話?」
訝しげに言う私に、一瞬だけ芹は顔を曇らせた気がした。だけれどそれはすぐいつもの笑顔に戻る。
「はい――千里様。まぁ、でもこれは個人的に前から思っていたんですが」
「うん?」
「私、今日でお暇させていただきますね」
あまりにそれが何でもないことの事かの様に、まるでトイレにでも行ってくるかのように言うので私はすぐにその意味が読み取れなかった。
何を言われているのか分からず目を瞬かせながら私は芹を見つめた。
「いとま?」
彼はゆっくりと立ち上がって私を見た。
「はい。もう会わないですね。これで最後です」
と言う事はどうやらこれは別れの場面でであるらしい。にしてもあまりにも緊張感の無い笑顔のままだ。
実感など感じることは出来なかった。
「……は?」
「あ、そうそう」
芹は私に手を差し出させるとその手首に私が送ったブレスレットをつける。やはり大きい。すぐに取れてしまいそうだった。
「芹――これは」
軽く叩いて私の手を離した。
「持っていてください。それはあくまでも私のものなのですから、無くさないでくださいね」
「――いつ、返せばいい?」
いつ、会えるか。と聞いているようなものだったかもしれない。だけれど私はその問いで――彼の一瞬だけ浮かべて見せた悲しげな表情で『もうだめなのだ』と知った。これは本当なのだと。
もう、逢えないのだと。知った。
「さぁ? 次に会えた時に、ですかね――」
「……じゃあ、そうだね。次に」
ノイズが入る気がする。世界すべて。視界も聴覚も。何も感じたくないのだとそう言っている気がした。鮮やかに目に入るのは机の上に置かれた銅鏡だけだった。
――いかないで。そういえばいいのだろうか。そう、願えばいいのだろうか。願えば芹は居てくれるかもしれない。――けれどそれはまた違う事も知っていた。それは違う。そう願うのはとても怖いことだった。私にとっても、彼にとっても。
「あ、ありがとね。芹――何もできなかったけれど、今まで楽しかった」
ニコリと微笑んで見せた。まともに笑えているだろうか。よく分からない。そんな私を見て芹は笑っているのでまぁ、大丈夫なのかもしれない。
「はい。私の方こそ。現実に――出てこられたのは久しぶりでしたので」
ドクン。と心臓が震える。『嫌だ』と頭の中で声が響く。それはまるで子供のようだ。だけれどすべて閉ざすようにして私は顔を上げた。
大丈夫。そう何度も言い聞かせながら。
「じゃあね……今度は私の子供よろしくね」
いつか。そんな日が来ればいい。と思う。本当に。すべて忘れてしまって私は結婚して。子供が生まれて。
けれど。
彼は少しだけ困ったように笑って見せた。
「――ええ、もちろんですよ。千里様。ご検討を」
「うん」
踵を返した芹の背中に手を伸ばしかけて私は耐えるようにして拳を固く握った。芹が振り向くことなどもうない。軽く階段を降りていく音を聞きながら私は糸が切れた人形の様に、崩れるようにして床に座り込んだ。
茫然と目に映るのは天井。だけれど見ている先はどこともない。
ぽつりと涙が落ちるのを感じながら私は目を閉じた。
――だけど、そんな日なんて来ることなど無い気がした。




