表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

グラスの氷が溶けきる頃には(読み切り)

作者: 鋏屋

 くたびれた体をつり革に吊しながら、山手線の窓から見る煌びやかな夜景を見ていたら、ふと胸に仕舞ったIphoneが震え、メールの着信を知らせてきた。俺は懐からそれを取り出し、パネルを操作して着信メールを確認した。送り主は妻からだった。


『今日はパート先でお寿司が余ったから貰ってきたの。伸也はそのお寿司で良いって言っているのだけれど、あなたはどうする? 何か作っておく?』


 『何か作っておく?』と聞くのは、寿司が嫌いな俺への配慮もあるだろうが、出来れば今日は作りたくないという妻の暗黙の意向が多分に含まれているのを感じる。俺は端末を片手に再び窓の外を眺めた。電車は上野にさしかっていた。

 上野駅に近づくにつれ、ネオンサインの量が多くなっていく。昔より幾ばくか横文字が多くなり、お洒落になった他は、昔とほとんど変わらない。俺はそんな風景を見ながら少し考え、妻に返信の文章を打ち込んだ。


『いいよ、今日は外で済まして帰る』


 短くそう打ち込み、俺が端末を仕舞う頃には電車は上野駅のホームに滑り込んでいた。

 今夜は久しぶりに上野で一杯やっていこうか……

 俺はそう考え、他の乗客の肩を擦りながらホームに降り立った。

 サマースーツを通り抜ける風が、熱気のこもった車内で汗ばんだ体を冷やす。日中はさほど感じないが、朝晩は少し肌寒く感じる風は、季節を夏から秋へ、そして冬へと急かしているようだった。

 乗車案内が流れるホームの階段を人の波に流されながら歩く。何気なく周囲を見やれば、俺と同じくスーツ姿のサラリーマンや澄ましたOL。耳からコードを吊し、手元の端末を操作する学生。出勤途中であろう派手な服を着た夜の女の後ろには、大きな旅行鞄を両手で持ちながら赤い顔をして階段を降りる初老の夫婦。上向き経済で利潤を得たであろう中国人の旅行者もいる。

 行き交う人の姿形は違えど、その多様さは30年前からさほど変化は無い。そんな上野駅の雑踏を流れながら、俺は広小路口を抜けて駅の外に出た。

 目の前の4号線は相変わらず車の量が多く、そこかしこでクラクションが鳴っていた。客待ちをしているタクシーの運転手同士の談笑を横手に聞き流しながら、俺はそのまま4号線を渡る横断歩道の前で信号が変わるのを待っていった。

 その時だった。

 俺が何気なく反対側の歩道に視線を投げたとき、ガラの入った麻のジャケットの上に揺れる、白髪頭に乗ったストローハットが目に付いた。その見覚えのある姿に俺は思わず息を飲んだ。

「親父……?」

 行き交う人の肩越しに見え隠れするその姿に釘付けになりながら、俺は信号が変わるのを焦れるように待った。その間にもそのストローハットの男は、すれ違う人を呼び止めなにやら話をしている。どうやら道を聞いているらしい。

 話し終わり相手に頭を下げ、何度か手で顔全体を拭くように撫でるその仕草は、俺の記憶にある親父の癖そのままだ。間違いない、あれは親父だ。

 親父は道がわかったのか、皮の旅行バッグを持ち直してゆっくりと歩道を歩き出した。

 そこでようやく信号が変わり、俺は通りゃんせの電子メロディーが流れる横断歩道を、人の波を避けつつ足早に渡った。

「親父っ!」

 200mほど先の路地を曲がる後ろ姿に俺はそう声を掛けたが、親父は俺の声が聞こえなかったのか、すぐに路地に消えて見えなくなってしまった。

「待てよ、親父っ!」

 俺は日頃の運動不足でもたつく足に鞭を入れ、小走りに親父が曲がった路地に飛び込んだ。路地を曲がると、親父はもうずいぶん先を歩いており、夜の街を歩く人の群れに埋もれていたが、被っていたストローハットだけは、まるで俺への目印のようにゆらゆらと揺れていた。

 ここから呼んだところで、この喧噪では聞こえまい。俺は軽い舌打ちをしつつ再び小走りにストローハットを追った。

 親父はゆっくりとした歩調で何度か路地を曲がり、俺はそれを小走りに追いかけるが、どういうわけかその距離は全く縮まる事が無かった。そうしていく内に、辺りは人通りが少なく、繁華街の喧噪が急速に遠のき静かになっていった。

 追いかけながら、俺は何故こんなに必死に親父を追いかけているのだろうと思った。30年前、当時10歳の俺を妹夫婦の家に置いて、水商売風の女を連れ立ってどこかに消えていった親父。

 あれから30年だ。5年ほど前に叔母から神戸の方にいるらしいと聞いたことがあるが、電話はおろか手紙一つさえ来ない。もっとも俺の方もガキの俺を置いて出て行った親父に話すことなど何も無く、親子の縁など、とっくの昔に切れているもんだと思っていたのだ。

 それが今になって現れたからといって何を話すというのだ。文句の一つでも言ってやろうかと言う気があるわけでも無い。そんな物、とうの昔にどこかへ置いてきたはずだ。

 だが、今俺は親父の背中を必死に追いかけている。何のために……?

 そんな自問を繰り返しながらも、俺は何かに急かされるようにストローハットを追っていた。

 そしてもう何度目の路地を曲がったのかもわからなくなったとき、俺はふと我に返り辺りを見回した。

「何処だ、ここ……?」

 そう呟き見渡す風景は、先ほどの夜の上野とはかけ離れた風景だった。しかし―――

「田中…… 商店…… だって……?」

 古ぼけた道路脇の電柱に備え付けられた、レトロな水銀灯が照らし出した右手の看板には、大きな文字でそう書かれている。俺はその店には見覚えがあった。

「まだ残っていたんだな」

 俺はその看板を見上げながらそう呟いていた。

 そこは昔住んでいた湯島の家の近くにあった雑貨屋だった。幼い頃、バス停に親父を迎えに行った帰りに、店の片隅に置かれた駄菓子のコーナーで親父によくプロ野球チップスを買って貰った。大の巨人ファンだった親父は、おまけで付いてくる選手カードで巨人の選手が出ると機嫌が良かった。そんな親父の顔を見るのが好きで、俺も巨人の選手が出ると得意になったものだ。

 親父を追いかけている間に、どうやら俺は湯島まで来ていたようだった。そういえば前は叔母に家も近くにあって、親父が乗って帰ってくるバスを待つ間は、叔母の家で時間を潰していたのを思い出す。

 この辺はあの頃と少しも変わっていないのだなと思いながら、俺はぐるりと周囲を見渡した。

 そうだ、あの角を曲がるとバス停があって、俺はベンチに座り少年漫画を読みながら親父を待っていたんだ……

 そう考えた時、目の前の道に明かりが差した。どうやらバスのヘッドライトのようだ。程なくして、今時では珍しいほどうるさいエンジン音が響き、1台のバスが横切った。そのバスは何故かとてもくたびれた感じのバスで、俺の子供の頃の記憶あるバスにとてもよく似ていた。

 俺はそのバスを追いかけるように路地を曲がると、そのバスはバス停を離れ、古めかしい車体を揺らしながら走り去っていった。その脇のバス停から100mほど向こうに、先ほどと同じ姿の親父が立っていた。親父は道沿いの店の看板を見上げていた。

 俺はそんな親父に声を掛けようとして止めた。何を話せば良いのかわからなかったからだ。

 俺が足を止めて見ていると、親父はその店のドアに手を掛け、もう一度その店の看板を見上げていた。どことなく躊躇しているかのような仕草だった。しかしそれも僅かの間で、親父はゆっくりとドアを引き店に入っていった。

 俺はそのドアが閉じきるのを見守ってから、ゆっくりとその店に近づき、先ほどの親父と同じようにその店の看板を見上げた。

 トタンの白地に英語で書かれた文字を両脇からスポットライトが照らしている。そこにはバー『メモリーグラス』と書かれていた。

 看板もそうだが、店のドアもずいぶんと年季の入った木製の框扉で、全体的にレトロな演出がされていた。子供の頃この道を何度も通った俺が記憶に無い店だから、恐らくその後に出来た店だろう。親父はこの店の道を聞いていたのかも知れない。

 俺はしばしの間、店のドアを見つめながら考えた。いや、迷っていた。このまま回れ右をして、駅前で飲んでそのまま帰るか。それとも親父が入っていったこの店に入り親父に会うか……

 30年ぶりに見る親父はずいぶんと年老いていた。あれほど大きく見えていた背中が、さっきはずいぶんと小さく見えた。

 会って…… どうする?

 心の中で誰かが聞いた。俺はその質問に返す答えを持っていないままここまで来てしまった。

 どんな仕事も長続きせず、2年ほどしてすぐにまた別の仕事を始める。何処の会社にも長居しないせいか給料も上がらず、お袋はそんな親父を見限り出て行った。

 お袋が出ていった後も親父は職を転々とし、日銭を稼いでは飲みに行くことが多かった。確かに生活面ではどうしようもないダメな親父だったが、酔って暴力を振るうわけでもなく、俺には優しくて休日にはよく遊んでもくれていたので俺は嫌いでは無かった。居なくなる前までは……

 俺は店のドアに手を掛け、看板を見上げた。

 バー メモリーグラス

 こんな人通りの少ない場所にあるバーに、気の利いた名前など期待するだけ無駄だが、子を捨てた親と捨てられた子が再会する場所としては似合いかも知れない……

 俺はそんなことを考え、口元に自嘲の笑みを浮かべつつゆっくりと手を掛けたドアを開いた。





『グラスの氷が溶けきる頃には……』



 メモリーグラスはこじんまりとした店だった。左手にカウンター、右手にはテーブルが3,4台並んいて、その周りには時代を感じさせる革張りのソファーがテーブルを囲んでいた。

「いらっしゃい」

 入ってきた俺に、カウンターの向こうのマスターと思われる初老の男がそう声を掛けてきた。年の頃は60ぐらいだろうか。少し長めの白髪を後ろ手にまとめ、鼻下に揃えた銀色の髭が年相応によく似合っている。

 俺は店内をぐるり見回したが、親父の姿は何処にも無かった。トイレにでも行っているのかと思いながらカウンターに座り、カウンターの向こうに居る初老の男に声を掛けた。

「あの、先ほどこの店に入ってきた人はどちらに……?」

 俺がそう言うと、その男は眉を寄せ困ったような表情を作った。

「今さっき店を開けたばかりですから、今日はお客さんが初めてですよ」

 微かにかすれた声でその男はそう答えた。俺は一瞬言葉を失ったが、再びその男に質問した。

「いや、そんなはずは無い。私はその人が店に入るのを見てから店に入ったんです。ガラの付いたジャケットに皮の旅行バッグを提げた70歳ぐらいの人です。頭にストローハットを被って…… 入ってきたでしょ?」

 俺は自分の頭の上に手をかざし、帽子をすっとあげるゼスチャーをしながらそう言った。しかしカウンターの男は首を捻って「いいえ」と答えた。

 そんな馬鹿な?

 俺はこの初老の男が絶対に嘘を言っていると思った。しかし何故俺に嘘をつくのだろう? 実は親父は俺に気づいていて、この男に後を託して裏口から出て行ったのかも知れない。

 俺がそう考えていると、その男はまるで俺の胸中を覗いたようにこう言った。

「一応言っておきますが、この店には裏口はありません。私の後ろにあるこの扉も倉庫ですから」

 男はそう言って背中のドアを開けて見せた。そこには段ボールや発砲スチロールのケースなどが詰め込まれており、男の言うとおり倉庫のようだった。

「いや…… でも私は確かに……」

 狐に摘ままれるとはまさにこのことだった。確かに俺は店の前で佇む親父を見た。そばの古めかしい電柱に備え付けられた水銀灯は若干心許ない光量だったが、あれは親父だったと思う。

 仮に百歩譲って親父では無かったにしろ、誰かが俺の前にこの店に入ったのは確かなのだ。なのにその先客の姿は店の何処にも無い。俺は幻を見たのだろうか……

「でも、お客さんが仰るような格好の方は知ってます。ただ年齢はもっとずっと若い。そうですね…… お客さんと同じくらいですかね」

 カウンターの男のその言葉に俺は顔を上げてその男を凝視した。

「たぶん、その人は違います。だって私の言っている人は、今はもう70の筈です。私と同じであるわけが無い……」

 俺がそう言うとその男は「そうですか……」と呟き、背中の棚に置いてある古い形のレコードを操作した。初めにポツッ、ポツッという音が響いた後、ゆったりとしたジャズピアノの音が店内を包み込んだ。それからその男はグラスを取り出しつつ俺に聞いた。

「何にします? それともお帰りになりますか?」

 俺はその言葉に少し考えた。元々飲んで帰る予定だったって事もある。

「それじゃあ…… ウイスキーをロックで」

「ウチは角とオールドだけど……?」

 そう聞かれ、一瞬オールドと答えそうになったが、ふと思い直し「角で」と答えた。サントリーの角瓶は親父が当時よく飲んでいたウイスキーだった。

「かしこまりました。ああ、そうそう、私はこの店のバーテン兼マスターの久佐賀と言います。どうぞよろしく」

 その男、マスターの久佐賀はそう付け加え軽い会釈をしてからにっこり笑った。そうしたときの目尻のしわが良い具合に現れ、顔全体に品のような物が浮かんだ。そんな久佐賀の顔を見ていたら、ナイスミドルと言う言葉が浮かんだ。

 程なくして俺の目の前にグラスと小皿にのったピスタチオが置かれた。グラスには大きめの氷が頭を出した琥珀色の液体が揺れていた。

 俺は一口それを口に含み、舌の上で転がす様にして喉へと流し込んだあと、皿の上のピスタチオを摘まみ口に放り込んだ。ほどよい塩っ気が心地よかった。

 とその時、背後の店のドアが開き客が入ってきた。久佐賀の「いらっしゃい」という声を聞き流しながら、俺はもう一口グラスに口を付けた。久々に飲む角瓶が思いの外旨かったのだ。

「やあ、今日は少し遅いね」

 久佐賀はそう入ってきた客に声を掛けた。その客は「そうかい?」と答え、カウンターの所までやってくると、俺の座る席から一つ空けて席に着いた。

「一昨日より10分ぐらい遅いよ。何にする?」

 久佐賀がそう言うと、その客は笑いながら「角のロックで」と久佐賀に注文した。

 何となく聞き覚えのある声だった。昔この辺に住んでいた事もある俺だったので、もしかしたら知り合いかも知れないと思いながら、チラリとその客を横目で見た。ほんの一瞬だけチラ見するはずだったのだが、俺の目はその客から釘付けになってしまった。

 そこに座って、お気に入りのストローハットを脱いでいた男は、紛れもなく親父だった。しかもその姿は先ほど見た白髪の老人では無く、俺を置いて出て行った頃の親父だったのだ。

 親父はストローハットをカウンターに置くと、右手で顔全体を拭うように撫でてから懐をまさぐり、セブンスターを取り出した。そして潰れかけたパッケージから一本取り出すとフィルターを下にしてトントンとカウンターに打ち付けた後、その先に火を付けた。

 俺はそんなあの頃と全く変わらない癖で煙草をすう親父の顔を凝視していた。

 そんな馬鹿な!? あり得ない、あり得るはずが無い。俺は夢を見ているのか? 俺は頭の中で何度もそう自分に問い続けた。

 すると親父は俺の視線に気づき、俺を見て軽い会釈をした。しかし俺の方は指一本動かせぬまま、俺と同じ歳の親父を見つめ固まっていた。俺は今どんな顔をしているのだろう……

 親父はそんな俺の姿を奇妙に思ったのか、僅かに首をかしげていた。俺は口から飛び出しそうな勢いで跳ねる心臓を押さえつけ、唇を動かした。

「あ、あ、あの……」

 かろうじてそれだけ声がでた。親父は「はい?」と俺に聞き返した。

「し、失礼ですが、お、お名前は?」

 俺の声は情けないほど震えていた。

「名前? 遠野だけど…… 遠野寛二」

 その瞬間全身に鳥肌が立った。それはまさしく親父の名前だった。

「あんた、どこかで会ったことあるかい? 何となく見覚えがあるような気がするんだよ」

 親父はそう言って俺の顔を覗き込んだ。

 当たり前だ。俺はあんたの息子なんだからな。

 そう心の中で答えるが、それを口に出せるほどの勇気は俺には無かった。

「あんた名前は? 名前聞いたら思い出すかも知れない。ほら、俺も名乗ったんだし、教えてくれよ」

 親父はそう言って煙草を灰皿に置くと、そのまま席を移動してきた。そう、当時の親父はよく言えば社交的、悪く言えばなれなれしいといった感じで、初めて会った人でさえ、まるで10年来の友人であったかのように仲良くなってしまう人だったことを思い出した。俺はそんな当時の親父のパワーに圧倒され、逆にドギマギしてしまっていた。

「す、杦田です。杦田明……」

 思わず妻の旧姓を名乗ってしまった。まあ親父は俺の妻には会ったことが無いから大丈夫だろう。

「杦田、杦田…… う~ん、ちょっと思い出せないな……」

 親父はそう呟いて首を捻った。当たり前だ。俺はあんたの子供で、当時俺は10歳なんだからな。

「ほ、ほら、湯島のなんて言ったかな? あの飲み屋。トマソンが1号打って騒いだじゃないですか」

 俺は当時親父が言っていたことを思い出しながら、そう言ってごまかした。

「あ、ああ! あん時の! ああ、ああ、そうか。あの時の人か! そうかそうか、道理で見た顔だと思ったよ。アレだろ? 原のデビュー戦。西本も良かったけど、あの試合はトマソンさ。ヤツの一発はビックリしたよな」

 親父は上機嫌でそう言いながら、久佐賀からグラスを受け取ると「じゃあ、杦田さん。再会を祝してかんぱ~い」と勝手にグラスをぶつけてきた。俺はほっとしながらも親父の乾杯を受けてグラスに口を付けた。

 それからしばらく親父の好きな巨人の話で盛り上がった。俺も何故か級友と話すような親しみやすさを感じ、当時の記憶を遡りながら親父と話していた。マスターである久佐賀も結構野球好きで、俺と親父の話を盛り上げてくれた。俺も妙にピッチが速く、久佐賀に4杯目のロックを頼んでいた。

「なあ杦田さん。あんた結婚はしてるのかい?」

 野球の話が一段落し、不意に親父はそう聞いてきた。俺は「ええ」と答えていた。親父は「子供は?」と聞くので、俺は「息子が1人ですよ」と答えていた。

「そうか…… それはいい」

 親父はそう言ってグラスに口を付け、煙草に火を灯した。俺はそんな親父の言葉に、さっきまで野球の話に盛り上がり、良い気分になっていた気持ちが急速に冷めてった。

 俺はそんな気持ちを払拭したくて、懐からIphoneを取り出し、写真を開いて親父に見せた。親父は食い入る様にそれを見ていた。

「なんだいこりゃ? おおっ!? これ写真か? おいおい、なんだよこの板っきれ!?」

 親父はIphoneを裏返しにしたりして素っ頓狂な声を上げていた。

「こりゃアレかい? 最近はやりのマイコンってやつかい? 若いやつには俺たちはついて行けなぁって思ったけど、あんた見たとこ俺と変わらないように見えるけど、たいしたもんだな」

 親父はそう言って感心したように俺を見た。どうやら親父はIphone を触ったことが無いようだった。俺は説明が面倒なので適当に相づちを打ちながら、親父に子供の写真を見せた。 

「口は嫁さん似? でも目元と鼻筋は杦田さんそっくりだな。なかなか男前だし」

 親父はそう言ってIphoneに写っている息子の写真を見入っていた。

 なあ親父、ここで俺が「あんたの孫だよ」って言ったら、あんたどんな顔するかな?

 俺は心の中でそう親父に語りかけていた。親父はまるでそれを知っているかのような仕草で、俺の息子が映し出されたiPhoneに顔を近づけていた。

「やっぱり子供は良い。特に男親にとって息子は特別に良いもんだ」

 親父はそう言ってiPhoneを俺に返した。それから親父はグラスを煽り大きなため息を吐いた。

 なら…… なんであんたは俺を捨てたんだ?

 俺は心の中でそう呟きながら、当時の事を思い出していた。

 

 当時の親父はそれなりに男前で、しかも金が無い割にはお洒落だったので夜の街の女には人気があったようだった。親父と一緒に街を歩いているときに、少し派手な格好をして香水の甘い臭いを纏った女に何度か声を掛けられていたのを覚えている。

 親父が居なくなる何日か前に、親父はある女を家に連れて帰ってきた。

 バス停を降りた親父に近づいていくと、親父の後から薄い紫色のブラウスを着た女が、親父に手を引かれて降りてきた。その女は俺を見下ろした後、しゃがみ込んで「君が明君ね、こんばんは」と声を掛けてきた。

 俺も「こんばんは」と挨拶をして、親父の目を見ながら「誰?」と無言で聞いた。

「俺がよく行く飲み屋のお姉さんだ。ちょっとウチに遊びに来たんだよ」

 親父はそう言って笑ったが、その女の目は笑っていなかった。確かに顔は笑っていたが、俺を見るその目は邪魔者を見るそれだった。俺はその一瞬でその女を嫌いになった。

 しかし親父はその女を家に連れてくることが多くなった。休みの日にするキャッチボールも、親父がその女と出かけるので極端に少なくなったし、帰りも遅くなっていった。

 それから少しして、その女が家に来たときに叔母から電話があり、何でもトウモロコシを余計に貰ったのでお裾分けするとの事で、俺は叔母の家に行った。叔母からトウモロコシを受け取り、家に戻ったときに親父とその女が話しているのを聞いてしまった。

「子連れで仕事が出来るわけ無いでしょ。それに私はあの子と一緒は嫌、上手くやっていけるとは思えないわ!」

 そうヒステリックに言うあの音あの声が、玄関まで聞こえてきた。俺はビックリしてそっと靴を脱ぐと、そこに座り込んで聞き耳を立てた。

「大丈夫だ。明は妹夫婦に頼んでいくから。もう話も済んでいる。あの子も俺と居るよりその方が良い」

 親父の声だった。俺は耳を疑った。あの子とはどう考えても俺のことだ。

 俺は…… 捨てられるのか?

 そう考えた途端、目の前が真っ暗になり心臓がどきどきして苦しかった。

「あの子に黙って出て行くつもりなの?」

 人を端から信じていないような、そんな声で女は言っていた。

「ああ…… それしか無いだろう?」

 そんな親父の声が後に続いた。俺は抱えたトウモロコシを包んだ新聞紙の音が出ないようにしながら、慎重に靴を履き直し、静かに玄関のドアを開けて外に出た。そしてそのまま夕方まで近くの公園で過ごした。辺りが暗くなり、俺が家に戻るとあの女は帰った後で、親父が夕飯の支度をしていた。

 その日の夕飯の時、親父は嫌に優しかった。そしてこんなことを言い出した。

「次の休みに後楽園に行こう。最近アキ坊ともキャッチボール出来なかったしな」

 その瞬間、俺の心臓は飛び出しそうなほどドキンと跳ねた。俺はおそるおそる顔を上げて親父を見た。親父はビールが入ったグラスを片手に、TVの巨人戦を見ていた。

「ほらアキ坊、今チラッと写ったろ? 落下傘みたいなヤツ。あれも乗ってみるか?」

 そんな親父の言葉に、俺はチラリとTVを見ると、7回表の相手の攻撃が終わり、巨人の外野手がベンチに戻ってくるところだった。そのライト側のスタンド席の向こう側に、親父の言った乗り物がチラッと写ったのを見た。

「何だよアキ坊、嬉しくねぇのか?」

 親父はビールをグラスに注ぎながらそう聞いてきた。俺は「ううん、嬉しいよ」と答えていた。だが心の中では正反対のことを叫んでいたのだ。

 そんなのいいよ! そんなの乗らなくていいから、僕を捨てないでよ、父ちゃん!!

 そう声を出して叫びたかった。声に出して、泣き叫びたかった。でも出来なかった。

 俺は「楽しみだよ」と呟き、愛想笑いを浮かべながら、TVを見ていた。親父はそんな俺を見ていたが、俺は親父の顔を見ないようにしていた。その時の親父の顔を見る勇気が無かったのだ。


 そして、約束の日曜日がやってきた。俺は親父と一緒に後楽園遊園地に行った。親父はいつも以上に優しく、俺は必要以上にはしゃいだ。そうしないと泣き出しそうだったからだ。

 中でも一番つらかった乗り物は観覧車だった。西に傾いた太陽をだた黙ってみていることが出来なかった。俺は親父が高所恐怖症であることを知っていながら何度も籠を揺らした。そのたびに青くなった親父に怒られたが、俺はしつこくやり続けた。仕舞いには親父に背中から捕まえられ身動きが出来なくなった。でも親父にギュッと捕まえられたときの感触は今でもよく覚えている。

 痛くて、苦しくて、そしてとても暖かかった。

 俺は「離せよ~」とふざけたように言いながら、目から溢れそうになる滴を必死にこらえていた。

 その帰り、親父は俺を寿司屋に連れて行った。店構えから小学生が見ても見ても一目で高そうだとわかる店だったが、親父は「何でも好きな物を頼め」と言って笑った。それでも遠慮がちに頼む俺に親父は「何を遠慮しているんだよ」と全て上で頼み直していた。

 あの時の寿司の不味さを、俺は一生忘れない。あれ以来俺は寿司が一番嫌いな食い物になった。その夜俺は全然眠れず、寝付いたのは明け方だったと思う。

 そして次の日の朝、俺は眠い目を擦りながら親父をバス停まで送って行った。バス停まで行くまでの間、俺は昨日の遊園地の話や、帰りの寿司の話をした。何を話していたのかよく覚えてはいないが、俺は終始喋り続けていた。

「じゃあ行って来る。送ってくれてありがとうな。ちゃんと帰れるか?」

 親父の言葉に俺は「大丈夫だよ」と無理に笑って答えた。そして程なくして遠くからバスのエンジン音が聞こえてきた。

「ああ、そうだアキ坊、今日はちょっと遅くなるから、学校終わったら美代叔母さんの家に行っておけよ」

 親父は思い出したように俺にそう言い、脇においた皮の旅行カバンを手に取った。そうこうしているウチに、バスは目の前のバス停に停車した。

「ねえ父ちゃん、遅いって、何時ぐらいになるの?」

 バスに乗り込む親父に、俺はそう聞いた。それが当時の俺の、精一杯の抵抗だった。

 親父は振り向き俺を見下ろした。親父はとても困った表情をしていた。

「アキ坊が寝ている頃だと思うぞ?」

「ぼく、寝ないよ。父ちゃん帰って来るまで、僕起きてる。このバス停で待ってるから」

 俺がそう言うと、親父は何とも言えない、悲しい表情をしていた。

「それはダメだ。子供は9時になったら寝る。たとえ叔母さん家だろうとそれは守らなくちゃダメだ」

 親父がそう言った瞬間、バスのドアが閉じた。俺はその閉じたドアに向かって叫んでいた。

「待ってる。ずっと待ってるっ! 今日も、明日も、明後日も、僕はずっと待ってるからっ! だから帰ってきてよ、父ちゃんっ!!」

 俺は走り出したバスを追いかけながら、ありったけの声で叫んでいた。

 俺を置いて行かないでくれっ!

 あの時、俺は何故そう言えなかったのだろう。

 どうして出て行くんだ? 俺が嫌いになったのか? 邪魔になったのか?

 何故そう聞けなかったんだろう。

 俺の中に、そんな後悔だけが取り残された。そして、その日から親父は帰ってこなかった。しかし俺は毎日夕方になるとバス停に行き、親父を待っていた。そして5日目の夕方、バス停に叔母さんがやってきた。その日は雨が降っていて、俺はベンチに座り、傘をさしながら漫画を読んでいた。

「風邪ひくから帰ろ、アキ坊」

 叔母さんのその言葉に、俺は素直に従った。自分の子供でも無いのに嫌な顔一つせずに色々してくれる叔母さんを困らせたくなかったからだ。そしてその帰り道、俺は叔母さんに色々な事を話した。

 学校の事、漫画の事、TVのアニメの話や巨人戦の話。俺は休む間もなく喋り続け、叔母さんはそれを黙ったまま笑顔で聞いてくれた。多分俺は叔母さんから親父がもう帰って来ない事を聞くのが怖かったんだと思う。

 そして叔母さんの家の玄関先に着いた時、今まで黙って聞いていた叔母さんが俺を正面に立たせ、しゃがみこんだ。俺は何か話題が無いかと必死に考えたが、何も浮かんでこなかった。

『お父さんはもう帰ってこないんだよ』

 そんなセリフは聞きたくなかった。叔母さんに言われたら、それは決定されてしまう。

 嫌だ、聞きたくないっ!

 しかし、叔母さんの口から出た言葉は全然違っていた。

「アキ坊、子供は遠慮なんてしちゃいけない。悲しい時や辛いときは、泣いて良いんだよ?」

 そう言ってニッコリ微笑む叔母さんを見た瞬間、俺の中で何かが切れた。それが限界だった。俺は叔母さんに抱きつき、声を上げて泣いた。そしてその日はご飯も食べずにそのまま泣き疲れて寝てしまった。

 その日を境に、俺はバス停に行くのを止めた。あれから30年、一度も親父と会う事はなかった。


 今、その親父が俺の横に居て一緒に酒を飲んでいる。それもあの日の姿で、しかも俺と同じ歳で……

 俺はあの頃の親父と同じように煙草を吸い、酒を飲み、そして父親になっていた。人の親になり、親が子に抱く愛情も今ではわかる。だからそれだけに、あの日親父が俺を置いて消えた事が理解できない。

「杦田さん、あんたは良い親父みたいだな……」

 不意に親父がそう呟いた。俺は「え?」と聞き返した。

「何となくわかるんだ。あんたは立派な父親だ。でも俺は違うな…… ダメ親父だ。今までも、これからも……」

 親父は手に持ったグラスをかざし、中の氷を眺めながら続けた。

「どんな仕事も長続きしないし、何をやっても中途半端。仕舞いには女房も他に男作って逃げちまった。ホント、甲斐性無しの親父だ」

 その親父の言葉に俺はちょっと驚いた。お袋が他に男を作って出て行ったなんて初耳だったからだ。

「でも女房が出てった後、俺がどうにかやってこれたのは息子がいたからなんだ」

 親父はそう言ってかざしたグラスを煽り、静かにカウンターに置いた。グラスの中で、少し小さくなった氷がカランと鳴いた。

「こんなダメな俺を、あいつは『父ちゃん』って呼ぶんだよ。流行のおもちゃの一つも買ってやれないのに、キャッチボールしてやると良い顔して笑うんだよなぁ。俺が親父じゃなかったら、もっと良い暮らしが出来たはずなのに、旨いモンも腹いっぱい食えたろうに…… それでも『父ちゃん、とうちゃん』ってさ。

 なあ杦田さん? 世間じゃ親が子を育てる、親が子を生かすみたいに言うだろ? でもホントは親も子供に生かされてるんだよ。少なくとも俺はそうだった」

 そんな親父の話を、俺は手にしたグラスの中の氷をゆっくり回しながら黙って聞いていた。

「あいつは俺より頭も良いし要領も良い。俺よりもずっと立派な人間になる。けど俺はこの通りダメな人間だ。将来きっとあいつの足を引っ張っちまう。俺はあいつの重荷だけは死んでもなりたくない」

 親父はそこで言葉を切り、セブンスターに火を付け、深いため息と共に紫煙を吐いた。

「―――あいつは俺を恨むだろうな。当然だ、人として、親として、外道な事だってわかってるんだ。恨まねぇ方がどうかしてる。でも俺は……

 ホントはいつかあいつが大きくなって、こうやって一緒に酒を飲みてぇって思ってたんだが、あいつは絶対俺とは飲んじゃくれないだろうなぁ……」

 そこで親父は言葉を切り、隣で黙って聞いてる俺の方を向きながら大して吸ってない煙草をもみ消した。

「あ、ごめんごめん、つまんない話で湿っぽくなっちまった。悪い、このとーり」

 親父はそう言ってまた右手で顔を拭うと俺に頭を下げた。俺はそんな親父に「い、いえ……」と呟いた。そんな俺に親父は「ホント、すまんね」と右手で拝んでいた。

「さて、俺はこれからやらなきゃならない事があるからこれで失礼するよ。杦田さん、俺はこれから訳あってこの街を離れるんだ。最後にあんたのおかげで旨い酒が飲めたよ。たぶんもう会うことも無いだろうけど、元気でな」

 親父はそう言って俺の肩をぽんっと叩き、財布を出しマスターを呼んだ。俺はそんな親父に軽く頭を下げるだけしか出来なかった。そして勘定を済ませた親父はカウンターに置いてあったストローハットを被り、足下の皮の旅行バックを持つと店を出て行った。俺は終始無言で親父を見送った後、カウンターに向き直りグラスに口を付けた。俺と親父しか客が居なかったので、親父が居なくなると店には、静かなジャズの旋律が妙に寂しく耳に響いた。

 また、言えなかったな……

 あの時と同じように、そんな言葉と後悔が、また俺の中に取り残された。

「また言えなかった…… 本当にそれでいいんですか? 遠野さん」

 突然カウンターの向こうで久佐賀がそう言った。俺はビックリして久佐賀を見た。久佐賀は細い目で俺をじっと見つめていた。

「なんで…… 私の名前……」

「30年前に聞けなかった事、言えなかった想い…… 今ならお父さんに伝えられるかも知れないんですよ? あなたとお父さんは、そのためにここに来たのですから」

 久佐賀は優しそうな目で私を見つめていた。しかし俺にはその視線が辛くて手許のグラスに目を落とした。

「今更言ったって何になるんです? 親父が出て行ったことは、俺が捨てられたのは変わらない。過去は変えられないでしょう? それなのに今更……」

「あなたはあの時言えなかったことをずっと後悔して生きてきた。しかしお父さんも、あの日あなたにちゃんと言えなかった事を後悔して生きてきたんです。

 あなたとお父さんの心の時間は、あの日から止まったままだ。けれどあなたはずっと思ってきたのでしょう? もう一度お父さんに会ってちゃんと話がしたいって。止まった時の中で……」

 止まった心の時間。

 そうかも知れない。俺と親父の心の時間は、久佐賀の言うとおり、あの日あのバス停で止まっているのかも知れない。だから俺は……

「あなたの言うとおり過去は変わらない。でも明さん、その後悔を無くすことで、あなたと、あなたのお父さんの心の時間は動き出すんです。

 それがお2人にとってどういう結果になるのかは私にもわかりません。何も変わらないかも知れない。でもあなたは強く想い、あなたのお父さんも強く願った。だから私がここにいるんですよ。今更というなら、今更何を遠慮するんです? その後悔を一生背負って生きていくんですか? 心の時間を止めたままで」

 グラスを持ったまま、俺は久佐賀の言葉を黙って聞いていた。グラスの中で小さくなった氷がカランと乾いた音を立てた。

「実はもうあまり時間が無いんです。あなたにも、そしてお父さんにも。そうですね…… そのグラスの氷が溶けきるまで。明さん、私に出来るのはここまでです。後はあなたとお父さんの問題です。今ならまだ間に合いますよ?」

 カランっ

 再びグラスの氷が音を立てる。見ると少し薄くなった琥珀色の液体に、小さくなった氷が浮いていた。俺は静かにグラスをカウンターに置き、鞄を手にとって席を立った。

「お勘定、お願いします」

 俺がそう言うと久佐賀はにっこり笑ってこう言った。

「もうお父さんにいただきましたよ」

 そう言う久佐賀の笑顔は、悪戯をした子供のようだった。

 先程の親父と久佐賀とのやり取りにそんな物はなかった筈だ。だか俺はそんな久佐賀の心に甘える事にした。

 俺は苦笑しながら「ごちそうさま」と言ってくるりと振り向き、急いで店のドアを開けた。とその時、久佐賀が「明さん」と声を掛けてきた。

「親子の縁っていうのは、切っても切れないように出来ているんですよ」

 そんな久佐賀の言葉に俺は頷き店を飛び出した。

 店を出た俺は、かつての記憶を頼りに家に向かって走った。田中商店の前を通り過ぎ、最初の路地を曲がったところで、少し先に水銀灯に照らされた揺れるストローハット見付けた。

「親父!」

 俺は走りながら叫んだ。だが親父には聞こえていないようだった。俺は笑う膝に懸命に力を込め、もう一度親父を呼んだ。

「父ちゃんっ!!」

 その時、親父の足が止まった。親父はゆっくりと俺の方を向いた。

「アキ坊……」

 俺は親父の元に走った。すると不思議なことに俺の体はみるみる小さくなり、親父の前に着いた頃にはすっかり子供になっていた。

「父ちゃん……」

 俺はそう呟き、親父の太ももにしがみついた。

「父ちゃん、行かないでよ。僕を置いて行かないでよ。どんな父ちゃんだって良いよ。父ちゃんが大好きだもん! 父ちゃんは…… 父ちゃんは……」

 俺は大きく息を吸い込み親父の太ももに顔を埋めて叫んだ。

「父ちゃんは僕を嫌いになったの? 僕が邪魔になったの?」

 俺は大声でそう叫び、それから声を上げて泣いた。「父ちゃん」と叫ぶ度に涙が溢れてきて止まらなくなった。親父はそんな俺をしゃがんで抱きしめた。親父も俺の名前を呼びながら泣いていた。

 どれくらいそうしていただろう。

 いつの間にか俺は大人に戻り、そして親父は、俺が駅前で見た老人の姿になっていた。

「アキ坊…… 大きくなったな」

 親父はそう言って泣き顔のまま俺の肩を叩いた。

「ごめんな、アキ坊。本当にすまなかったよ。お前にどうしても謝りたくてな。あのバス停でお前が待っている姿が、ずっと夢にでてきてたんだ。父ちゃんもな、アキ坊が大好きだよ。邪魔だなんて一度も思ったことが無い。あの日からずっと…… 後悔しながら生きてきたよ……」

 親父は右手で顔を拭い、ストローハットを脱いで俺に頭を下げた。その瞬間、俺の中で何かがスッと抜けたような気がした。

「もう良いよ、俺もずっと後悔してきた。あの日『行かないでくれ』って言えなかった事を。でももう良いんだ。なあ親父、さっき見せたろ? 伸也の写真。俺の息子なんだ。俺も親父になったんだ。親父の孫だぞ。少年野球をやっててさ、流し打ちが上手いんだよ。篠塚みたいだろ? 将来は良い選手になるぞきっと……」

 俺は矢継ぎ早に親父にそう話かけていた。親父は俺の言葉に何度も頷き、泣きながら笑っていた。俺も涙が溢れていたが、嬉しくて拭うことも忘れて話しまくっていた。

「ああ…… 良かった。立派になったお前を見ることも出来たし、夢だったお前との酒も飲めた。もう思い残すことは何も無い……」

 親父はそう言ってまた手で顔を拭った。俺は親父のその物言いに少し不吉な物を感じた。

「何言ってるんだ? 変なこと言うなよ。なあ親父、俺の家に来いよ。たいして広くないけど、親父一人ぐらい増えたってどうってことない。嫁も紹介したいし、孫とも話したいだろ? なあ、そうしろよ」

 しかし親父はゆっくりと首を横に振り、手にしたストローハットを被った。

「俺にはもったいない申し出だがな、それは出来ない。言ったろう? お前の重荷にはなりたくは無いって……」

「重荷って…… そんなこと無いよ。子が親の面倒を見るのは当たり前じゃないか。遠慮するなよ」

 すると親父はまた首を振った。

「もうあまり時間が無いんだ…… 今まで散々馬鹿やってきたツケを支払うときなのさ。だからそっちには行けない。悪いな」

 親父はそう言ってまた俺の肩をポンと叩くと、足下の皮の旅行バッグを手に持って俺から離れた。

「お、おい、親父、待てって……」

 俺はそう言って親父の腕を掴もうとしたが、俺の手は親父の腕をするりと通り抜けた。

「お、親父、ちょっと待ってくれよ。また俺を置いていくのかよ? やっと帰ってきたってのに…… また行っちゃうのかよ? 酷いだろそんなの」

「ああ…… 酷い父ちゃんだな。ゴメンな、本当にゴメンな……」

 そう言って遠ざかる親父はみるみる若返り、またあの日の親父の姿になった。

「でもなアキ坊、お前は俺のアキ坊である前に、亭主であり伸也の親父なんだ。加えて俺はお前を捨てた親…… 今更親父でございなどと、縋れる道理がねぇ。終いぐらいはお前に格好付けたいよ。俺の最期の痩せ我慢、汲んでくれや」 

 俺はフラフラとそんな親父の後をついて行く。だが親父はどんどん先に行ってしまった。

「待ってくれ父ちゃん! まだ話したいことが山ほどあるんだ。だから行くなよ、行かないでくれよ! 俺、あのバス停でずっと待ってたんだぞ。バスが行っちまう度に…… 次は乗ってるって…… そう自分に言い聞かせてさ……」

 最後は声にならなかった。涙で滲んだ先の親父がぼやけていく。遠ざかる親父は何度も「ゴメンな」と言っていた。

「父ちゃんっ!!」

 俺が腹の底からそう叫んだ瞬間、パァっと目の前で光が弾け、俺の声と意識はその光の中に飲み込まれていった。


 気が付くと、俺は自宅のベッドで寝ていた。洋服もサマースーツではなく、ちゃんと寝間着に着替えていた。しかしいつ帰ってきたのか、どうやって帰ってきたのか、全く記憶がなかった。

 あれは夢だったのか……?

 だとしたら、俺はいつから夢を見ていたのだろう? 

 広小路口の横断歩道から見えた揺れるストローハット。30年ぶりに歩いた、あの頃と変わらない路地。古めかしいバスと、親父の帰りを待ったバス停。そしてあの奇妙なバー『メモリーグラス』……

 今思えば、何もかもが現実感の無い映画のように思えて来る。そもそも30年前に別れた親父と、お互い同じ歳で酒を飲むなど、現実にはあり得ない事だ。

 俺はベッドからのそりと起き上がった。窓に掛かったカーテンの隙間から差し込む休日にふさわしい陽光をあびながら、俺は居間に向かった。居間に繋がるキッチンでは妻が朝食を作っていた。

「おはよう。もうちょっと掛かるから少し待ってて」

 妻はそう言って戸棚から茶碗を出していた。

「あ、そうそう、あなた昨日何時に帰ったの? いつの間にか隣で寝ていたからびっくりしちゃった。私全然気が付かなかったわ」

 そんな妻の言葉に俺は少し考えるが、全く記憶がなかった。

「時間まで覚えてないなぁ……」

 俺はそう言って誤魔化した。

「珍しいわね、あなたがそんなになるまで飲むなんて……」

「昔の知り合いと上野でばったり会ってさ。調子に乗って飲み過ぎたみたいだ」

「ふ~ん…… よし出来た。伸也ーっ! ご飯っ! 伸也ぁーっ! あなた、ちょっと伸也呼んで。あの子今日試合なのよ」

 妻がそう言った瞬間、息子の伸也が「聞こえてるよ」と言いながら2階から降りてきた。少年野球のユニフォーム姿だった。後々を考えて少々大きめのを買ったせいか、少しだぼついており、着ていると言うより『着られている』と言った方が良いかもしれない。伸也は慌ただしく席に着き、運ばれてくると同時に朝食に手を付け初め、妻から「いただきますは!」と小言を言われていた。

 俺はそんな息子の姿を見ながら、昨夜のあの不思議な夢の中で親父が言った言葉を思い出した。

『―――男親にとって息子は特別に良いもんだ』

 ああ、そうだな、親父……

 俺は心の中でそう呟き、運ばれてきた茶碗と箸を手に持ち「良く噛んで食えよ」と息子に注意した。


 それから2日後、叔母から俺の携帯に連絡が入った。神戸に居た親父が亡くなったと言う知らせだった。叔母はとりあえず神戸に行くと言い、俺も誘ったのだが、俺は丁寧に断った。叔母はそんな俺をしつこく誘うことはしなかった。きっと俺の心を察してくれたんだと思う。

 それから数日経ち、叔母がまた俺に電話をよこした。叔母は親父の葬儀に参列して帰ってきたとのことだった。俺は仕事の帰りに湯島にある叔母の家に行き、親父のことを聞いた。

 親父は俺と別れた後、やはりあの女を連れ立って街を離れたらしい。

 どうもあの女は暴力団に関係していたようで、麻薬とか売春とかそう言った物で組と揉めていたらしい。親父は飲み屋でその女に絡んでいた男からその女を助けて連れて逃げたのだそうだ。

 叔母は親父はあの女に利用されたんじゃ無いかって言っていた。たぶんその通りなのだろう。親父は案外に人が良かったから。

 しかしその暴力団はかなり大きく、また凶暴な組織だったようで、親父は暴力団から俺を遠ざけるため急いで俺の前から姿を消す必要があったようだ。

 親父とその女はその後神戸で細々と暮らしていたが、その女が親父の前から消えていくのにそれほど時間は掛からなかったらしい。それから親父は小さな家電の修理屋を始めたようだった。

 親父は昔から手先が器用で、俺と暮らしている頃家電屋に勤めていたことがあり、そこで修理などを受けていたことがあった。あまり長続きしない親父の職の中で、そこだけは割と長かったように思う。

 今でこそ家電は故障すれば買い換えるのが当たり前になっているが、当時家電は総じて高く、修理して使うと言うのが多かった。そんな中で親父の店は中々評判が良かったようだ。

 その後親父は、修理だけで無く販売にまで手を伸ばしたらしい。

 親父は家電以外も取り扱うようになり、同じ物を大量に仕入れ、個々の販売価格を大幅に下げて売るという、今で言う『ディスカウントストア』の走りのような物だったらしい。その頃は数人の従業員も雇って好調だったと言う話だ。親父にそうした商才があったのは意外だった。バブル後も店はそこそこ客が入っていたとのことで、その商才はたいした物だったと思う。

 しかし、その後例の震災で親父の店も被害に遭い、店を閉めることになったのだそうだ。親父はそこそこ財を蓄えてあったようで、再起をはかることも可能だったようだが、親父はそれまでの商売を綺麗さっぱり止め、店の内装を改造して孤児院を始めた。震災で身よりの無い子供を引き取っては育てていたらしい。結局、家電ディスカウントで儲けた金は全てその孤児院の経営に使ったとのことだった。

 そして半年前、親父は倒れて入院、肺癌と診断されたらしい。もうずいぶんと進行していたようで、回復の見込みはゼロに等しいとのことだった。

 俺はその話を聞き、親父らしいと思った。親父が商売を止めて孤児院を始めたのは、東京に置き去りにしてきた俺へ、罪の意識があったのかも知れないと叔母は言っていた。現在その孤児院はOBの一人が引き継ぎ、今では幼児虐待の保護施設としてもやっており、政府からの援助も受けて存続しているとのことだった。その施設の名前は『父ちゃんの家』と言うらしい。

 親父は俺と別れた後1度結婚していたらしいが、2年ほどで別れたらしい。その人との間に子供は居なかったのだそうだ。親父の葬儀はその孤児院で育ち大人になった孤児達が中心となって行われ、参列者にはOBやそのOBの子供、そして現在その孤児院に居る子供達も多く、葬式とは思えないほど賑やかだったそうで、『湿っぽいのが嫌いなあんちゃんには似合いの葬儀だったよ』と叔母はにこやかに言っていた。

 親父は大勢の子供達に見送られ旅立ったと言うわけだ。

 ただ、不意に叔母が思い出したようにこんなことを言った。

「あんちゃんが息を引き取るとき、それまで昏睡状態だったあんちゃんが目を覚ましたんだって。そして『末期の酒は旨かった』って言ったそうだよ。病院じゃお酒なんて飲めないからお医者さんも首を捻ってたって。夢でも見ていたんじゃかいかって話さ。まったく最後まで、夢でも飲みに行ってるんだから、あんちゃんもたいしたもんだよ」

 叔母さんはそう言って笑いながら目元を拭っていた。

 俺は叔母の話を聞きながらふと思い出す。

 末期の酒……

 俺はその親父が夢で飲んだという酒が、サントリーの角瓶だったのではないかと思う。もちろんオンザロックで。

 バス停の脇にある小さな店内には先客が居て、親父はその客から名前を聞かれる。

 名乗った代わり名を聞くと、その客は杦田と答えたのだろう。

 お互いに巨人の話で盛り上がり、その客の息子の写真を見せて貰って「あんたに似ている」と答える……

 そんなに旨かったか、親父……


 叔母はその後、俺に小さな札をくれた。札には親父の戒名が書いてあった。位牌は叔母さんの家の仏壇に置くとのことだったので、経を上げて貰ったお坊さんに書いて貰ったのだそうだ。俺はその札を家に持ち帰り、居間のカウンターの壁に貼り、その前に水を供えた。

「父さん、それ何なの?」

 息子の伸也がそう俺に聞いてきた。俺は「父さんの親父だ」と答えた。

「父さんの親父って…… おじいちゃん?」

 伸也はそう言って首をかしげた。俺は息子に「おじいちゃんはいない」と言ってきたから戸惑うのも無理は無い。

「おじいちゃんって、どんな人だったの?」

 伸也がそう聞いたとき、キッチンにいた妻が「伸也!」と息子を注意した。妻には俺の親父のことを言ってあるので、俺に気を遣ってくれたのだろう。俺は「いいんだ……」と妻を制した。

「おじいちゃんは昔な、父さんを置いて行っちまったんだ。父さんがちょうどお前くらいの時だった……」

「あなた……」

 俺の言葉に妻は驚いたようだった。

「父さんを置いて…… それって子供を捨てたってこと?」

 伸也は眉を寄せてそう聞いた。俺は「ああ」と頷いた。

「親父は俺を捨てた。理由はどうあれそのことに変わりは無い。そのことをずっと引きずって生きてきた。親父も、そして俺も……」

 伸也は俺の話を聞き「ちょっと酷くね?」と言った。俺は「ああ、そうだな」と答えた。

「父さんは寂しくなかったの? 怒らなかったの?」

「寂しかったさ。一時は親父も恨んだりもした。しばらくして親父を親父だと思わなくなったよ」

 すると伸也は俺の顔から視線を外し、チラリと壁に貼った札を見て、再び俺に目を向けた。

「それなのに、拝むの?」

 そんな伸也に俺は「ああ」と静かに答えた。

「それでもな…… 父さんは父ちゃんが大好きだったんだよ」

 伸也は俺の言葉に首をかしげ「わかんねぇ」と言った。俺はそんな伸也に「だよな」と言って笑った。

 わからなくても良い。俺もそうだった。

「なあ伸也、一つお願いがあるんだけど」

「なに?」

「俺のことを父さんじゃなくて『父ちゃん』って呼んでくれないか?」

 すると伸也は嫌な顔をして「嫌だよ、なんかダッセ」と答えた。

「そんなこと無いだろ? 俺もお前の頃親父を『父ちゃん』って呼んでたんだ。親しみがあって良いじゃんか」

 そう言う俺に伸也は「ダッセェから嫌だ」と言い張った。俺は「そんなこと言わずに……」と手を伸ばして伸也を捕まえようとしたら、伸也はスルリと俺の手から逃げていった。

「父ちゃんなんてダッサい呼び方なんて、絶対しないよ」

 と言いながら逃げる息子に、俺は「待てよおい!」と言いながら右手で顔を拭い、逃げる息子を追いかけた。背後で妻が「2人とも近所迷惑でしょ!」と怒鳴る声が聞こえていたが、俺はかまわずヒラリヒラリと逃げ回る息子をムキになって追い回した……


 今でもふと思うことがある。

 あの日、あの上野で親父を見た時のことだ。

 あれは本当に夢だったのだろうか…… と。

 あれから俺は、あの店のあった場所に行ったのだが、バー『メモリーグラス』があった場所はマンションが建っていた。

 周りは綺麗に整備された道路で、あの日俺が歩いた路地とは似ても似つかなかった。

 あのレトロな水銀灯に照らされた田中商店の看板も、五月蠅いエンジン音の古めかしいバスも、みな俺の過去の記憶が作り出した幻だったのかも知れない。

 ただ、あのバー『メモリーグラス』だけは、俺の過去の記憶には無い。

 

 『親子の縁っていうのは、切っても切れないように出来ているんですよ』

 

 全てが微睡みのような記憶の中で、店を出るときに言った久佐賀の言葉が、妙にハッキリと耳に残っている。全てが幻だったとしても、俺はあのマスターが、どこか俺の知らないところで、過去を引きずった客相手に酒を振る舞っている気がしてならない。

 俺はたぶんこれから、ウイスキーを飲む度に思い出すだろう。

 親父と飲んだウイスキーの味を。

 あの日のグラスの氷が溶ける音を。

 カラン……

 それを聞き過去に想いを馳せ、また時は流れ始めるのだ。

 そう―――

 グラスの氷が溶けきる頃には……



おしまい

初めての人は初めまして。お馴染みの人は毎度どうも。

鋏屋でございます。

なんか色々書き散らかし、中途半端で申し訳ないです。

なので何か完結する物を残したくて、以前書きかけて止めた物に手を加えて投稿しました。いつもは厨二+ギャグ多めな私ですが、今回はそれはいっさい無しです。ずいぶんと毛並みの違う物に挑戦したなぁと自分でも思います。

でも書いたのは良いけど、これはちょっと失敗だったかも知れないです。評価が怖い……

まあ、怖い物見たさってのもあるんですけど。

それでは感想、苦情等々、お待ちしております。

鋏屋でした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点]  このような作風が好きなので一気に読ませていただきました。 とにかく面白かった。 沢山の人に読んでもらいたい作品です。 [気になる点] 特になし
[一言] 拝読いたしました。 作中に出てくるバーが、映画『パプリカ』で描かれた仮想バー (名前は忘れましたが)を彷彿とさせますね。 バーのマスターも、いまは亡くなった今敏監督を、 どことなく思わせま…
[一言] はじめまして。 仕事の休息時間に読ませて頂きました。 つい涙してしまい慌てて化粧室へ直行。 目とお鼻が真っ赤っかです。 いつも素敵なお話しありがとうございます。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ