ポテト 彼と小指の約束
「ポテト。ごめん。驚かせた? 食べよう。僕も食べるから」
城山さん、笑っている。
「(どうしよう。見られた)」
しかたないよ、気にしない。
薄目で、城山さんを見て。
とにかく食べて。口を動かす。
「シロー、遅いじゃない」
麻婆豆腐をウドンに盛り付けている城山さんの後姿に、冴子さんが声をかけた。
「西谷ターミナルの配送が終わってから来たんので、すいません。冴子さんの飯が食えるならと、車を飛ばしましたよ」
「ありがとお。仕事、たいへん、ね? あなた西谷ターミナルのホープ。だから、仕事多くなる。大変なってないか? 学校もあるからね」
「冴子さん、心配症だな? 大丈夫、大丈夫。最近、夕飯とオムツ配達を個人宅パーティー先に届けるようになって、ラクしていますから。昨日なんか内海のばあさんが二〇人集めて盛り上がっていた。そういえば、冴子さんによろしく、といってましたよ」
トレーに山盛りのご飯と赤い色の麻婆豆腐を盛り付けた皿を持ち、冴子さんの横にショルダーバッグをそのままに、腰掛けた。
「ありがとう。シローもいい男ね」
私は様子を見ていた。
頭の中には「恥ずかしい。口の中、いっぱい。顔、パンパン。城山さんに、見られた。もうだめ。恥ずかしい」そんな、言葉が渦巻いている。
もう顔を上げよう?
「ポテト。あれ、どうしたの?」
城山が、声をかける。
「シロー? ダメダメ。ポテト、恥ずかしいね。わかってあげないと、いい男になれないよ」
「冴子さんのいうとおり。色男。女心と秋の空、天皇賞のマン馬券だ」ナベさんがつっこむ。
「ナベさん、昨年のマン馬券の負け、まだ根にもてるの?」
ナベさんのつっこみにヤッサンが答えた。
誰も笑わず、冴子さんだけが苦笑いしている。
「ポテト、ごめん。食べよう。僕も食べるからさ……いただきます!」
そういうと、皿をかこって、一気に食べ始めた。
「辛~」というと、冴子に向かって「でも、うまい!」とほめた。
「ポテト、うまいぞ。麻婆豆腐、うまいだろう。明日の勝利のために食べよう。勝ったら、ツール・ド・フランスだ。カーボ、カーボ。ごはんを食べた選手が勝つよ」
ほら。勝てば、ツール・ド・フランスだ。食べよう、食べよう。
冴子さんが笑っている。
私は、顔を上げて、様子を見ると、落とした箸をひろって食べはじめた。
「オッケー。明日、僕は、ポテトが勝つところが見たいからね」
亜衣ちゃんたちも、「ポテト、よかったね」などと話しかけてくれた。
「ところで、シロー。明日の、どんなレース?」
「明日の? パンフレットじゃ……、分かんないか」
食べながら、城山さんが美ヶ原ロードレースのことを話す。ポテトと同じコトを話していたけど、昨年もレースに出ていた城山さんの話だから、分かりやすい。
ツール・ド・美ヶ原。
距離五十一キロメートル、高低差千二百七十メートルの自転車レース。
市の陸上競技場をスタート。
道路を美ヶ原高原のヒルトップ駐車場までの二十一キロメートルを登る。
駐車場をUターンした後に、
降り坂十七キロメートルと、
登り坂三キロメートルを疾走して、
高原ホテルの温泉にフィニッシュする。
楽しいレースなんですよ。
城山さん、ニコニコだ。
冴子さんは顔をしかめてしまった。
「めちゃめちゃハードよ」真顔で眉間にシワを寄せている。
「ハード? ですか?」
「シロー、駅前の川向こう、九十九休坂、あれが二十キロメートルも続く。二千回も休むような坂。そこでレース。普通、ないよ」
「普通じゃない? そうだろうなあ。山岳レースは、自己満足の世界ですから。どんな坂道でも登れるっていう満足。それがレーサーです。でも、本場、ヨーロッパのレースでは、こんな坂道はごろごろ。一日二〇〇キロメートル以上も自転車で走るツール・ド・フランスなら、九十九休程度の坂道なんか、毎日走るコースの坂道のひとつですよ」
「私、分かんない、ね、どこ、楽しいのか……。明日、勝つの? 大学の自転車部のシローはオッケー? 高校生になったばかりのポテトはどうよ?」
「冴子さん、ポテトのほうが勝つかも。僕はそう思ってます。小さな体で軽い。高い筋力。稼働域の広い下半身。すごく恵まれている。これまで体格が大きくて、パワフルほうが速いといわれてきたんですよ。でも、ポテトは、それを覆すんじゃないかな。現に、僕ら大学の自転車部でも彼女に勝てるのは数人だけですよ。女子にいたっては、比較できるような選手がいない。もはや別格」
「たしかに、二人、ダントツ」
「六時前に帰ってくるのは、シローとポテトちゃんだけよ。ねえ、ヤッサン」
「バイクで配達している俺らが、シローとポテトの二人に抜かれることあっても、抜くことがない」
「そうそう、配達するの、見たことあるけど、すごいの。ゲーニン的よ」
「直美ちゃん、それ、芸術的っていうんじゃない?」
「そう、それ! 理香ちゃん、ナイス。片手で抜いて投げ込むのよね、ポテト」
「すごいよね、ポテト」
「あ、ありがとう」
ポテトは、うつむいたまま、お礼をいった。
会話が滑っている。本心とは別のところで話されているのが分かる。若干十六歳になったばかりの少女にとって、お世辞に言葉を合わせるのが気分悪い。
ポテトそろそろ、時間じゃないか?
食事していたポテトが箸を置いた。
「冴子さん、ごちそうさま。おいしかった。たくさんいただきました。亜衣ちゃんと理香さん。明日、お願いします。城山さん、そろそろ帰ります。自転車、お願いです。自宅に帰らなくっちゃ」
「おっと、もうそんな時間か? ポテトのおばあちゃん、か?」
「うん。帰らないといけないから」
「オーケイ。ポテト、明日のレース用の自転車、乗せるよ」
「はい」
「それじゃ、冴子さん、ごちそうさま。みんな、頑張ってくるからね」
「がんばれよ、シロー」
「おう」
「がんばって、ポテト」
「ありがと」
城山とポテトは立ち上がると、駐輪場に出て行った。
ドアの後ろでは、陰口が叩かれていた。
「ポテト。気にせず、いこう」
城山さんがカバーしてくれる。
ポテトがかすかにうなずいた。
駐輪場には、配達用のピンク自転車の群れ。
銀色の一台の自転車が混ざって、置かれていた。
ポテトのおじいさんの形見、おじいさんが「シルバー」と呼んでいた自転車。
見たことないフレームとサスペンション機構が人目を引く。
チタンとアルミの細いパイプを二本の松葉に組み合わせた独特のマシンだ。
自転車が好きだったおじいさんが知人と作り出したスペシャル・モデルだ。
城山さんが、サドルに手をかけるとポンポンと叩いた。
「ポテト、明日は走ろう。ギア比をちょっと下げて、登り優先にしておくから」
「うん」力強くうなずいた。
「いい返事だ。おれも負けないからな」と、城山さんが笑った。
「うん。勝つよ。城山さんと勝負だ」
ポテトも笑顔になった。顔が上気して、赤い。
「おう。ツール・ド・フランスを目指して、全力を出そう」
城山さんが右小指を出した。
「はい。がんばります」
ポテトがおずおずと右小指を出して、指きりをした。
「優勝できますように」
二人の小指が、明日に向かってダンスした。