プレゼンテーション・イン・ヘル
5キロを超えた。
もうすぐ、急な坂道が終わる。
その先も登り坂。
頂上まで16キロ。
動画で見ていた貯水池の水門が現れた。
道路の先が下がってきた。
空に向かって上昇していた道が横になった。
道路に水平線が見えた。
突然、風景が切れた。
木々の間に、
遠く、地平線が見える。
スタートした町並みが見える。
小さな家々、川が流れ、子供たちが遊んでいるのが見える。
きれい。
高みに登る。
苦しさが快感に変わった。
急な坂がないだけだけど。
まだまだ坂道が続く。フィニッシュまで続いているのだけれど……
風が気持ちいい。
頬を叩いてくれた。
山の木々が手を振るように動いている。
強い風が吹いている。
ポテトには、それだけで十分な安らぎだった。
「地面、平たいよ。タイラだよ」
わたしの心が、はしゃいでいる。
先頭のクマさんがペースをあげる。
「まだ、勾配のきつい坂があるが、マックスの80パーセント。各自のRPMの80%で」
「逃げておこう。そろそろ、後ろからくるぞ。フランスの王子さんが」
ブタさんが後ろに声をかけた。
クマさんこと、久保田さん。ブタさんこと、山谷さん。ふたりとも四年生のベテラン。
「さあ、ペース・アップ。トレインと行こうか」
城山さんの声が聞こえた。
クマさんを先頭に、一列になった。
自転車レース特有のレース運びだ。
前を走る選手が仲間を引っ張り、疲れると後方に下がる。
次の選手が先頭に出て、隊列を引いて走る。
クマ、ブタ、城山、ポテト、ネコ、ツル。
交代でトップに立つ。
交代で隊列を引っ張る。
登ってきた高さが、実感できる。
風景に、フモトの温泉街が現れる。
時折、見える、遠くに地平線が広がる。
山間の梨畑も林間に見える。
坂の苦しさから、暑さの苦しさに変わった。
例年、梅雨。雨の大会が、今年は晴れている。
すでに酷暑。
夏の陽射しが、暑さを重荷に変える。
5キロで受け取った給水のペットボトルを、回し飲みした。
ポテト。
よかった。
とりあえず、自分に負けなかった。
レースの序盤を無事通過した。
ヤクザとの約束、守れそうだね。
「守らなかったら、オシマイ。必ず、勝つ」
思い出すね。
犯されたって、変わらない。叫んでいたね。
「私は、世界で一番になる、って言ったのよ」
暴力団の事務所にポテトが入ったのは、九ヵ月近く前のこと。
金を出す代わりに、担保の土地売買でも人身売買でも行う地元組織だ。
ポテトは、親族の知り合いに進められるままに奨学金の契約した。
その後、紹介した親戚の知り合いが消えた。
10パーセントの紹介料をもって消えた。
暴力団の目的は、両親と祖父祖母の土地だ。
ポテトも、おばあちゃんも、暴力団とは知らなかった。
お金を貸してくれる安心な会社だとおじさんにいわれていた。
その会社なら聞いてもらえると出かけた。
純子さんとつくった計画の書類をもっていった。
前もって行く日を連絡して、当日の朝には、神様にお祈りもした。
神様から、特別のご加護がありますように。ポテトは祈って出かけた。
「嬢チャン、そんな夢よりも、脱いだらどうだ。金になるぞ。体、売ってみるか?」
フランスで活動するお金500万円がほしいとお願いした。
ポテトの発言に帰ってきた言葉だった。
ラッキーだったのか、アンラッキーだったのか、社長が相談相手だ。
部下の若頭という人が、事務所の中央にあるソファーに案内してくれた。
初めて、訪ねた時に話してくれたおばさんはいない、女性の従業員もいない。
ダークグレーのピンホール・スーツ姿の男性二人だった。
銀行員のような物腰で、笑顔なの。
だけど言葉と目つきは、十分にその世界の人らしさだった。
二人の前に、企画書を出した。
笑われた。
そして、服を剥ぎ取られた。脱がされた。
裸のほうが、金になるといったのに、ポテトの下着姿に、若頭の声が変わった。
ポテトの胸と股間を若頭が撫でながら、声を落とした。
「社長。こいつ、足が太いだけで、胸もないし、顔もソバカスばかり。色も黒い。まあ百万円程度。アキバでゴスロリにしても無理、メイドも……」
下着一枚だけにされて、会社の中に立たされた。
悔しかった。
怖かったのの最初だけだった。
脱げといわれて、最初、若頭の手がかかった時だけが怖かった。
脱ぎながら、怖さよりも悔しさが広がった。
これだけのことをされて、値踏みされたのが、体だ。
中学3年生。少女なら体。それしか、ない。
社会で裸にされれば、体しかない。
学校で笑っているだけの少女なら、100万円程度の価値しかない。
キレイやカワイイなら、追加で100万円か?
知らないことだった。
でも現実だ。普通なら高校、大学と価値を高める準備期間がある。
ポテトにはそれがない。つねに社会にさらされる。
普通の少女がうらやましいと、心底から思った。
だが、裏に返せば、今、自分は、真剣に生きている。
日本各地で生きている、どの少女よりも生きて商売しているという、実感が沸いた。
今、勝てば、世界で生きることができる気がした。
「クズか……。しょうがねーな」と社長が言った。
「社長、私の足はクズじゃない」
こころが叫んでいた。
「足は一番だ。世界で一番になる。私には、この足がある。必ず一番になる」
悔しさに涙して、滲んだ社長に向かって、私は叫んだ。
「男儀を売るのが、社長の商売なら、私の商売は、女義を売ること。私の商売にお金を出してください。自転車競技、しかもツール・ド・フランス、有名レースです。女性が走った例がない。それだけでも、お金になるはず。しかも、チャンスがある。来年、フランスの財団が賞金を出す。私は、勝つ。大学生や大人にも負けたことがないこの脚で勝つ」
ポテトは、叫んでいた。
社長に向かって叫んだ。
社長の向こうの世界に叫んだ。
ポテトは、社長ににらみ返された。
沈黙の力で押さえつけられた。
昆虫を殺すピンのような目線で刺された。
「嬢ちゃん、本気か? ヤクザ相手にマジで売り込むつもりだな」
「本気です。犯されたって、変わりません」
「舐めてンのか。あ」若頭が怒鳴った。
社長が、若頭の前に手をかざした。
「面白い。嬢ちゃん、マジだな。処女どころか、両親とじいちゃん、ばあちゃんの土地も取られるかもしれんぞ。こころの底までボロボロにされるかもしれない。それでも変わらないと言い切きる。そのチカラ。信じてやろう。そのビジネス、美ヶ原のレースで勝てたら、乗ってやる」
社長が立ち上がると、ポテトの前に立った。
「今の嬢ちゃんを食っても、美味くねえ。処女など金にもならん。色気もねえ。が、意地はあるようだ。その意地、見せてもらおうか。本当なら、お前についてヨーロッパの社会ともお付き合いができるだろう、商売になるかもしれない。関東の山奥じゃ、金ができてもチイセえ。組にもいわれているし、な。嬢ちゃんのチャンスに、俺も賭けてやろうじゃないか」
社長、ポテトの前に立った。
右手でポテトの顎をつかんだ。
ポテトの頭を前後に揺すりながら話す。
「嬢ちゃん、ヤクザ憑きの怖さ、わからんだろうな。将来の汚点だぞ。が、強い陽射しの後ろには、影ができるもんだ。確かに、今の日本じゃ、お前に投資する会社などないからな。お前の働いている新聞屋も、俺たちがいくらか融通して、ビジネスが続いている。お前さんに、強い光が当たるなら、そいつは大きな力だ」
ポテトの唇に親指を押し当てた。
「この唇と目。書類などないが、契約したぞ。ヤクザとの契約だ。曲げられないぞ」
ポテトは、その手を払って、私、口を開いた。
「社長。この契約、対等じゃない。商売なら、男儀と女義が対等のはず。ヨーロッパに行くチャンスと、現地のヤクザとのビジネスのチャンスについてだけを売ります。それ以外は、契約外。私の将来とチカラのすべてを取るつもりなら、今、この場で現金10億円ください」
「ほう、言うな」
低い声。殺されても、おかしくない。
虫ピンのような目線で刺された。
殺される。そう心から思った。
でも、ポテトは引かない。前に出た。
「分かった。ひとつだけの契約にしてやろう」
「社長ぉ」若頭が、声をかけた。
「なんだ。若頭、おめえ、文句あんのか?」
「いえ」
「確かに、嬢ちゃんのいうとおりだ。商売は対等でないとな。この売り買いは、チャンスだけだ。俺は、ウソをつかねえ。くさいことしてるが、性根は正しいものの味方だ。だから、この地でバンを張っていられる。お前が生きている限り、約束は守る」
ポテトの顎をつかむと、もう一度ポテトの唇を親指で撫でた。
ポテトの背中で、ドアが開いた。
冴子さんと城山さん、亜衣ちゃんが入ってきた。
下着姿で、社長の前に立つポテトを見て、3人とも絶句していた。
ポテトは、振り返り、3人を見た。
チカラが抜けて座り込んだ。
亜衣ちゃんが、飛び込んできてポテトの肩を抱いて、泣き出した。
「おう、新聞屋のぉ。なんだ、用事か」
若頭が応じた。
冴子さんが早口でまくし立てる。中国語が入るマシンガン・トーク。
若頭が応対するが、冴子さんに完全に押されていた。
城山さんが、ポテトの服と荷物を拾い集めて、ポテトの前に差し出した。
ポテトは、黙って服を着た。
「よう、嬢ちゃん」
社長がポテトの前にしゃがむと、声をかけた。ポテトは、社長を睨み返した。
若頭をなじっていた冴子さんが、驚いて振り返る。
事務所が静まりかえった。
「ほお、嬢ちゃん。お前は、本当に強いな。いい商売になりそうだ」
「約束、忘れないでください。フランスでのチャンス、お願いします」
「9ヵ月後が楽しみだ」
「9ヶ月……、ツール・ド・フランスか?」城山さんが、驚いて口を開いた。
「うん、城山さん。私、勝つから。ツールを走るからね」
そう言うと、ポテトは立ち上がった。
涙など、なかった。
13キロメートルを過ぎた。
登り坂も残り約八キロ。
広い駐車場のあるレストランを越え、細い直線部分。
後ろから、道を開けるように指示が出た。
右側に一台分のスペースができる。
やがて、フランス国旗のキャップを被った男の姿が右の角に現れた。
ジョジだ。




