フラッシュ・バック、パニック・イン・ヒルクライム
赤い屋根の家の向こう、坂道が見える。
左から右上、空に向かって鋭角に登っている坂が見えた。
坂道の脇には、応援や警備のクルマが並ぶ。
ひと目でそこがレースコースと分かる。
コースが緑の山の中に消えて見えた。
急坂だ。
先頭集団がさしかかる。
何人か、立ち上がった。
入口からダンスするほどの坂なんだ。
坂を登るサイクリストを数えてみる。
ひとり、ふたり、さんにん……先頭まで三十人くらい、か。
今年は賞金レース。賞金はフランスへの切符。
賞金ゲットを目指して、荒れたレースになっている。
坂道につく前に、もう15台が落車している。
傷だらけ。バトルレースだ。
うしろには900を超える敵がいる。
落ちたら、戻れない。
停まったら、走り出せない。
登りの坂道が始まる。
「いくよ」
目の前に、登りの入り口が広がった。
地面がせりあがってくる。
道は、山の中に消えている。
見上げる。
見上げても、見上げても、坂だ。
壁を登っていくように感じる。
「坂というより、発射台みたいだ」
空へのカタパルト。
ポテトが回わすペダルにチカラが入る。
私のつま先に熱を感じた。
筋肉イッポン一本に、チカラが入る。
大殿筋、中殿筋、大腿二頭筋、大腿四頭筋……、
特に足首の筋群にチカラがこもる。
踏み込む。回す。チカラで登る。
「い、意外と、キツイかも……」
ハンドルを引き付ける指先にもチカラが入る。
「城山さんから聞いていたより、速い。き・つ・い」
ぜんぜん違うね。動画で見てたのに。
「城山さんが、手を……振っている。力を……抜け?」
忘れていた。
ギアを抜く。
ラクにまわせるギアを選ぶ。
ペースをキープする。
ペダルを、上げる、前に送る、下げる、後ろに送る。
「回すんじゃないよ」
踏んじゃダメだ。
ペダルを送る。
「そう。送る感じで」
ポテトが肩をゆする。
リラックスしよう。
口をすぼめて、息を吐く。
シートの位置を変える。
前に、後ろに、左右にも、振る。
疲れないように。
ポテトは、城山さんに向けて、親指を突き出した。
城山さんの目が、笑ってくれた。
坂が続く。
息をつかせない、切れ目がない。
つねに登り坂なんだ。
右に曲がる。
登る。
短い登り坂に出る。
左に曲がる。
そして、また登る。
長い登り坂がつづいて、先を空に見る。
きつい登り。
ゆるい登り。
また、左に曲がっている。
また、登り坂があって、登る。
選手の心が揺れる。
疲れる。嫌だ。
腿がしびれる。
足を停めたくなる。
足が重くなる。
やめればラクになる。
ラクになりたい。
「自由に走らせて。自由に走りたいの」
ポテトのどこかで、わたしに問いかけてくる。
だめ。
ダメだよ。
意識を集中するんだ。
前を走る仲間、路面と自分の体、意識を切らないで。
おしゃべりが消えたまま。
荒い呼吸でペダルを回す。
楽しくない。
自分らしくない。
自分を出せない。
つらいから、こころが挫けそうだ。
思い出した。
痛い記憶。
お母さんがいなくなった日。
お父さんが死んだ日。
私が犯された日。
フラッシュバックしている。
こころが痛い。
唇を噛んだ。
1カット1カット、シーンが流れる。
猛烈なスピードで映像が流れる。
殴られた。下着を取られた。
吐き気を感じる間もない。
肌と体内に残った痛み。
怒りとか、哀しいとか、つらいとか、怖いとか
思い出した。
お爺ちゃんが倒れた。
頭の中が、血だらけになっていた。
大声で叫んで倒れた。
自分の頭を両手で持って、飛んで倒れた。
暴れていたのは、数秒。
鼾をかいていた。
あいた口から、だらだらと水が出ていた。
戸の隙間、自分の指……。
ポテト!
今は、それどころじゃ、ないよ。
昔を噛み殺して、前を見て。
上り始めて、まだ1キロメートル。
まだ。でも、長い。
もう、嫌になってきた。
道幅が狭い。
両端にミゾがある。
狭くなったり、
狭くなったり。
夏草が茂っている。
枝が選手をなぶる。
タイヤが跳ねる。
でこ、ぼこ、でこ、ぼこ。
雨が流れた後の砂、アスファルトの亀裂……。
坂道に、
肩が触れるほどに敵があふれている。
タイヤが重なるほどに敵と競っている。
停まったら、走り出せない。
坂道のレース。
ミゾに落ちたら、どうなる。
速度が落ちたら、どうなる。
ぶつかったら、
絡まったら、
どうする?
ちょっとビビリ、ときどき恐怖。
「それでも、やめないよ」
ペダルを回す。
息を楽にして
心を揺らす。
もう、心臓は鐘を打ってる。
足が、ペダルを回し続けている。
痛いよ。
やめたら、楽になるよ。
1キロを平均3分で登ればいい。
最初の5キロを20分で斬り抜けられれば、勝利が見える。
前に、山城さんの姿がある。
山城さんの言葉、そのままに走る。
ポテトが、ギアを下げた。
短い直線、すぐに左に曲がる。
ペースを変えず、速度を上げる。
回転数を変えず、登っていけばいい。
ギアを坂に合わせて入れ替える。
雑なチェンジにならないよう、
すばやく動かす。
やさしく上げ下げしないと、壊れちゃう。
だから、親指と人差し指の繊細な感覚でシフトを操る。
コーナーを立ち上がると、直線。
ギアをまた上げる。速度がすこし上がる。
時速10キロから20キロで登る。
平地ならウォーキングのような速度だ。
平地の直線、60RPMで時速70キロを超えるポテトのグラインド。
70RPMで時速20キロ以下の速度では肉体より感覚が疲れる。
足もつらいけど、心がつらいよ。
ラストシーンまで、チカラを残すために。
最高のフィニッシュにするために。
今は我慢だ。
つらいのを、ガマンして、我慢して。
山城さんの背中も我慢している。
「山城さんの背中があるから、我慢している」
話す? 話せる?
「とっても話す気にならないよ」
道は曲がりくねり。
あちらこちらに危険が落ちている。
強い意識で乗りこなさないと、
ダンスしてしまいそう。
強い意志でチカラを使わないと
ラインを外してしまう。
死のダンスだと分かっていても。
ギアを入れ替えるより、立ち上がるほうがラク?
「ラク」
でも、やらない。
「する、もんか!」
斜め右の選手が立ち上がった。ダンスしている。
加速する。どんどん先に行くが、10秒数後に落車した。
そして、後ろに下がって、
やがて900人の中に消えた。
ポテトは呼吸をリズムカルに整えている。
息が上がる。
はく、吸う。
はく、吸う。
リズムカルに繰り返す。
思い出した。
勝手にフラッシュ・バックしてきた。
おじいちゃんの葬式。
暴力団が来た。
お金の取立て。
おばちゃんとおじちゃん、いなくなった。
おばあちゃんと私だけが残った。
落ちてゆく日々、朽ちてゆく世界。
「やめてよ。もう、やだよ」
フラッシュ・バックだから……。
「わたしを、出して! 出してよ」
いいかげんにして!
ポテト、乗り越えて。
「分かってるわよ。分かってるけど……」
仲間を見て。
走る。
仲間も、私も、走る。
中学生だった私のことを、真剣に考えてくれたじゃない。
役所の人も、警察の人も、かき回しただけ。
生きていくための気持ちをくれたのは、仲間だったじゃない。
すべて、自転車からはじまった。
小さな体を、タフに鍛えた。
目の中に、光を灯した。
走れ。わたし。
これからだ。
弱気になっちゃだめ、ポテト。
記憶に、パニクることなんて、ないよ。
まだ、始まったばかりじゃない。




