プロローグ アレ・ジャポネーゼ
フランス東南部の7月は、ツール・ド・フランス一色に染まる。
アルプスへの連なりが、世界的な自転車レースの舞台になる。
今年のツール・ド・フランスの第10ステージは、
緒戦の最後にふさわしい、山道が連続する超難易度コースとなっていた。
ラ・トゥーシールがフィニッシュの地に用意されていた。
山間のかわいい町、ラ・トゥーシール。
アルプスの少女が出てきそうな町並みも、今日はフェスティバルに彩られている。
光りに輝くフラッグ、プロモーション・カーゴにスパンコールの紙ふぶき、町の中のパレード、中世ヨーロッパのファッションを楽しむ人、人、人。興奮と熱気をくすぐるように、町のセントラル・カフェには、朝からとびきりのスィーツ、ボンボンが並んでいる。
標高千七百五メートルのラ・トゥーシールの周りには二千メートル級の山々が顔を並べ、遠くにアルプスの頂が立ち上がっている。
町を離れれば、牧草地ばかりだ。
赤いとんがり屋根のお家と、糸杉が数本見える風景がある。
まさにアルプスの少女の世界、牧羊の背景画が今日のウイニング・ロードだ。
コース・サイドには観客が何十の人垣をつくり、待っている。
誰もが、勝利者たちを待っていた。
勝利に向かい、4台の自転車が競っている。
フランス、ジャパン。スペイン、アメリカの選手がトップを競う。
フィニッシュ・ラインまで、3kmほどのところを、
フランス選手が先頭を駆る。
ジョジ・イノーだ。
苦しそうに自転車を揺らしてダンスを繰り返している。
ラスト三キロメートル、斜度10度、悪魔の登り坂。
ダンス、ダンス、ダンス。
ジョジが攻めている。
苦しい。トップギアに入れたままの全力疾走だ。
日本の選手が二番手にいる。
ジョジまで五十メートルほどの距離に、少女は近づいてきた。
いけるかな?
「もち! 私のトップギアはまだまだ。3キロメートル。余裕よ」
少女は、すでに210キロメートルの距離を自転車で走ってきた。
途中には標高2,200メートルの峰越えが二つあった。
最大傾斜14度の急坂を2つ踏み越えた。
先頭集団の中で何度もスパートを繰り返してきた。
迎えたラスト3キロメートル、斜度10度、悪魔の登り坂。
積み重ねた疲労を、苦痛で塗りつぶす争いとなった。
少女はジョジ・イノーの後ろで、ステージのトップを狙っていた。
さすがに、呼吸が荒い。でも、
日本の少女として、今を踏みしめている。
「さあ、いくよ」
少女の前には、世界の頂点がある。
左横のバイクにはカメラマンが乗っている。
トップ争いを記録映像に収めようとカメラを回している。
太い脚、気にしないのかい?
ソバカス、数えられるよ?
世界の人々に見られちゃう。
「関係ない。頂点へ行くんだ」
少女は漆黒のポニーテールを横に振り上げると、左の指を唇に当てた。
カメラに向かって、勝利へのベーゼを投げる。
カメラマンが驚き、ファインダーを外して、少女を見た。
そして、笑うと親指を立てて、あいさつを返した。
少女は前方に目線を帰し、ペダルを踏む。
カチャ。ギヤを上げる。
息を飲み込むと、一気に加速した。
ジョジの背中が近づいてくる。
ジョジの腰が落ちた。サドルに尻を乗せた。
ジョジの顔に、明らかな絶望が見える。
口をだらりと開き、天を仰いでいる。
すでに、体力を使い果たしてしまったジョジには、ダンスを続けるエネルギーがない。
少女はジョジ横に並ぶと一気に抜き去った。
軽々と風のように、まったく無理がないように見えた。
十代の少女に抜かれる苦痛をいたわるように、
そして二度と戦わないで済むように、
少女の切れるようなスパートが始まった。
自転車を揺らさない。
持てるチカラのすべてを加速に変えていく。
それが少女の走り方だ。
紅色のバルーン・アーチの下をくぐる。
センターの三角推に、残り二キロメートルの表示が見える。
拍手する人、シャツやフラッグを振る人、人、人。群集の垣根が続く。
輝く色は、エメラルド、ゴールド、プラチナ、カーマイン、ビリジアン……。
スパンコールの彩でコースに観客が群がっている。
大歓声だ。
「アレ・ジャポネーゼ。アレ・ジャポネーゼ」
声が聞こえる。
ルビーのピアスを入れた少女の耳に、追いかけてくる自転車の音が聞こえる。
スペインのトップ、カルロス・コンタドール。
アメリカのトップ、トム・シンプソン・ジュニア。
歴代優勝者の血を引くサラブレッド達の追い上げだ。
彼らの鼻息が聞こえてきそうだ。
ハンドルの両サイドをもって、ダンスしているだろう。
一匹はラテンの血をたぎらせている。
一匹はアングロサクソンの肉を漲らせている。
二頭の肉食獣が追いかけてくる。
小さな東洋の少女のお尻に向かって、牙を剥いた。
化け物が食いついてきた。
ポテト、行けそうかい?
「ええ、次が、私のトップギアよ」
残り一キロメートルのバルーン・アーチが飛び去っていく。
ポニーテールが飛び跳ねた。
ハンドルを両サイドに持ち直す。
トップギアへ、レバーを押し込む。
カチッと入る瞬間、車体が跳ねるような喜びがある。
少女は、背中を丸める。
子猫が駆け出すように。
背中のスペースを広げる。
広背筋、僧帽筋を張り、肩甲挙筋で肩甲骨を引き上げた。
顔をつき出して、背中を高くして、太腿のスペースをつくる。
腹筋群と腹腔内筋群のもつチカラを全開にする準備を整えた。
小さなお尻を高く上げて、太腿を胸に当てるように持ち上げる。
大殿筋と大腿筋のコラボレーションが始まる。
マシンを踊らさず、グリップを軽く握り、回転を上げる。
ピンクのプリーツ・スコートの下、ニッカーの中で筋肉が膨らんだ。
チームカラーのジャージのあいた胸元にクロスが見えた。
彼女が全力でテンションをかけた。チェーンが震える。
回す、回す、回す。
加速、加速、加速。
後ろに大きな獣たちが押し寄せてくるのが分かる。
少女は、全身でエキサイトしていた。
フィニッシュ・ラインが見えた。
あの日に、夢見ていたフィニッシュ・ラインだ。
あの日も、少女は自転車に乗っていた。
ニュースペーパーを積んで、日本の山間の町並みを走っていた。