婚約者と浮気相手の恋文、どちらも私が代筆していました
王都の裏通りに、「ふくろう堂」という小さな古書店がある。
その店の奥のカウンターには、青い封筒を入れる箱が置いてある。
恋文の代筆を頼みたい人は、そこに依頼の手紙と代金を入れていく。
三日後、同じ箱に、青いインクで書かれた恋文が届く。
代筆屋の名は、『青インクの君』。
王都の令嬢たちのあいだで、知らない者はいないほどの人気だ。
その正体が侯爵令嬢エレナ・ローゼンハイム、つまり私だということは、店主のノアしか知らない。
始まりは、十四歳の冬だった。
屋敷の若い侍女が、厨房の隅で泣いていた。
故郷に残してきた恋人に手紙を書きたいのに、どう書けばいいか分からないのだという。
私は彼女の話を一時間かけて聞き、便箋一枚の手紙を書いた。
恋人がどんな人で、何が好きで、二人で最後に見た景色が何だったのか。
聞いた話を、彼女の言葉の癖のまま並べ直しただけだ。
春になって、侍女は故郷へ帰っていった。
秋には、結婚の知らせが届いた。
その知らせを握りしめたまま、私は思ったのだ。
言葉には、人の人生を動かす力があるのだと。
それから三年。
ふくろう堂の奥のカウンターを借りて、私は数えきれないほどの恋文を書いてきた。
同じ三年のあいだに、婚約者であるルーカス殿下へも、たくさんの手紙を書いた。
季節の挨拶。誕生日の祝い。公務へのねぎらい。
返事は、一通も来なかった。
だから私の書く恋文は、上手になる一方だった。
届かない手紙を書き続ける人の気持ちなら、誰よりもよく分かっていたから。
「エレナ様。今週の依頼です」
閉店後の店の奥で、ノアが青い封筒の束を差し出した。
古書の匂いのする、いつもの夕暮れ。
「ありがとう。今週は多いのね」
「春ですから。それと、少し厄介なのが二通あります」
ノアは眼鏡の奥の目を、ほんの少しだけ曇らせた。
一通目を開く。
丸みのある、可愛らしい字だった。
『王太子ルーカス殿下の心を射止める恋文を書いてください。わたしは字も言葉も下手なので、どうかお願いします。ミリア・コルト』
コルト男爵家のミリア様。
この春から、殿下のおそばでよく見かける方だ。
二通目を開く。
こちらは、見慣れた字だった。
『男爵令嬢ミリア・コルトに贈る恋文を頼む。僕の気持ちが伝わる、最高のものを。代金は弾む。L』
手紙はもらったことがなくても、署名なら何度も見てきた。
私の婚約者、ルーカス王太子殿下の字なのだから。
「……ノア」
「はい」
「この二通、同じ週に届いたのよね」
「はい。お断りしますか?」
私は二通の手紙を並べて、しばらく眺めた。
殿下から私への手紙は、この三年で一通もない。
誕生日にも、婚約記念日にも。
その殿下が、誰かのために恋文を欲しがっている。
しかも、代金を弾んでまで。
「いいえ。お受けするわ」
私は青いインク壺の蓋を開けた。
「代筆屋は、依頼を選ばないものよ」
◇
それから、ひと月。
私は毎週、二通の恋文を書いた。
殿下からミリア様への恋文と、ミリア様から殿下への恋文を。
つまり私は、ひと月のあいだ、自分自身と文通していたことになる。
殿下の恋文は、少し気取って書いた。
殿下の依頼状には、いつも「最高のものを」としか書いていない。
だから私は、自分が婚約者からもらいたかった言葉を、そのまま書いた。
朝の光の中で、あなたのことを思い出す。
あなたの笑った顔を、もう一度見たい。
今度の休みには、二人で湖へ行こう。
書きながら、何度もペンが止まった。
ミリア様の恋文は、少し控えめに書いた。
ミリア様の依頼状は、毎回便箋三枚にわたる長いものだった。
殿下と廊下ですれ違ったこと、殿下が笑ってくれたこと、それだけで一日が明るくなること。
拙い字で、一生懸命に書かれていた。
私はそれを、少しだけ整えて清書した。
ミリア様の言葉には、私が三年間書けなかった素直さがあった。
どちらの恋文にも、代筆屋としての決まりごとを一つだけ忍ばせて。
「エレナ様、また返信が来ています。殿下から」
「早いわね」
「『先週の手紙は最高だった。この調子で頼む』だそうです」
ノアが、なんとも言えない顔をする。
「殿下は、ご自分のところに届いた恋文も、エレナ様が書いたとは思っていないのでしょうね」
「思っていたら、代金を二重に払わないわ」
私は小さく笑った。
笑いながら、胸の奥が少しだけ痛む。
殿下は、あんなに言葉を欲しがる方だったのだ。
私には、一度もくださらなかったのに。
その週の終わり、王宮の回廊で殿下とすれ違った。
婚約者としての定例のお茶会は、この二か月、殿下の都合で三度続けて取りやめになっている。
久しぶりに見る殿下は、ずいぶんと機嫌がよさそうだった。
「やあ、エレナ。相変わらず地味な顔をしているな」
「ごきげんよう、殿下。お元気そうで何よりです」
「ああ、元気だとも。最近、文章を書くのが楽しくてね」
殿下は胸を張り、上着の内ポケットを軽く叩いた。
青い封筒の角が、ちらりとのぞいている。
「君も少しは僕を見習うといい。言葉というのは、心から湧いてくるものなんだ。君の手紙みたいに、季節の挨拶ばかりじゃ誰の心にも届かないぞ」
「肝に銘じます」
私は微笑んで一礼した。
殿下は満足そうに頷き、足取りも軽く去っていく。
その封筒の中身を書いたのは、三日前の私だ。
「心から湧いてくる」言葉の最初の一行を考えるのに、二時間かかった。
回廊の窓から、春の風が吹き込んでくる。
笑えばいいのか、怒ればいいのか、自分でもよく分からなかった。
◇
そして、王宮の春の夜会。
大広間には、王都じゅうの貴族が集まっていた。
天井のシャンデリアには、この夜のためだけに千本の蝋燭が灯されている。
私は父の選んだ紺色のドレスを着て、壁際で静かにグラスを傾けていた。
殿下は今夜も、私を迎えには来なかった。
代わりに、ミリア様の手を取って入場した。
その時点で、今夜何が起きるのか、大広間の半分くらいの人は察していたと思う。
「エレナ・ローゼンハイム! 今この場で、君との婚約を破棄する!」
楽団の演奏が止まり、大広間じゅうの視線が集まった。
殿下は、ミリア様の手を握りしめて立っている。
もう片方の手には、青い封筒の束。
「僕は真実の愛を見つけた。ミリアとは、恋文で結ばれたんだ!」
「恋文で?」
「まあ、なんて素敵なの」
「殿下が、ご自分で?」
ささやきが広がる。
殿下は胸を張った。
「そうだ。僕は自分の言葉で想いを綴り、ミリアも自分の言葉で応えてくれた。君にはできないことだろう、エレナ。君の手紙はいつも、決まり文句ばかりだった」
決まり文句。
それは、殿下から一度も返事が来ない手紙に、何を書けばいいのか分からなかったからだ。
「証拠を見せてやる。ミリアが僕にくれた手紙だ!」
殿下は封筒から便箋を取り出し、高らかに読み上げ始めた。
「『だれよりも貴方を想う夜が、今宵もまた更けてゆきます』」
ああ、それは三週間前に書いたものだ。
「『いつか貴方の隣で、同じ朝を迎えられたなら』」
ミリア様が、頬を赤く染めてうつむく。
大広間のあちこちから、うっとりとしたため息が漏れた。
殿下が息を吸う。
私は、その続きを口にした。
「『ひとひらの花びらにさえ、貴方の面影を探してしまう私を』」
殿下の声が止まる。
「『つたない言葉ですが、どうか笑わないでくださいませ』」
「な……なぜ、君がそれを……」
大広間が、しんと静まり返った。
私はゆっくりと殿下の前に進み出る。
「殿下。その便箋、各行の最初の一文字だけを、上から順に読んでいただけますか?」
「何を言っているんだ」
「お願いいたします。一文字だけで結構ですので」
殿下は眉をひそめ、便箋に目を落とした。
「だ……い……ひ……つ……」
殿下の顔から、すうっと血の気が引いていく。
「だいひつ。代筆、ですわ」
私は、にっこりと微笑んだ。
「代筆屋『青インクの君』は、書いた恋文すべてに、この印を残します。万が一、恋文が悪用されたときのための決まりごとですの」
「そんな……では、ミリアは……」
「ええ。ミリア様のお手紙は、私が代筆いたしました」
ミリア様が、びくりと肩を震わせる。
「そして殿下。殿下が代金を弾んで『青インクの君』に頼んだ、ミリア様宛ての恋文も」
私は小首をかしげた。
「頭の文字を、読んでみてくださいな」
殿下が、はっとしてミリア様を見る。
読むまでもなかった。
ミリア様が、自分の胸元から大切そうに一通の手紙を取り出し、行の頭を指でなぞったからだ。
「……だ、い、ひ、つ」
ミリア様の小さな声が、誰も口をきかない大広間に響いた。
◇
「う、嘘だ! そんなもの、偶然だ!」
殿下が叫ぶ。
「偶然が、ひと月で八通続くでしょうか?」
「く……っ!」
貴族たちのささやきが、さざ波のように広がっていく。
「では、殿下の恋文も代筆?」
「『自分の言葉で想いを綴った』とおっしゃっていたのに」
「それも、婚約者のご令嬢に書かせていたなんて……」
殿下の顔が、赤くなったり青くなったりする。
「エレナ、君は……君は、僕を騙していたのか!」
「いいえ、殿下。私はご依頼どおりに書いただけです。騙したのは、ご自分で書いたとおっしゃった殿下のほうですわ」
殿下は言葉に詰まった。
「それに、殿下」
私は、ずっと言いたかったことを口にする。
「三年間、私に一通もお手紙をくださらなかった方が、代金を払えば恋文が手に入ると思っていらした。そのことのほうが、私には悲しゅうございました」
大広間に、気まずい沈黙が落ちた。
そのとき、ミリア様が一歩前に出た。
「あの、エレナ様」
私は身構えた。
責められても仕方がないと思っていた。
けれど、ミリア様は胸の前で両手を握りしめ、目を潤ませて言った。
「じゃあ、わたしが毎晩読み返して、泣いていた手紙は……全部、エレナ様の言葉だったんですか?」
「ええ、そうなります」
「わたし、あの手紙の言葉が好きで。殿下のことが好きなんだと思ってました。でも……」
ミリア様は、ちらりと殿下を見た。
それから、もう一度私を見た。
「わたしが好きになったのは、あの言葉だったんです!」
「ミ、ミリア!?」
殿下が素っ頓狂な声を上げる。
「殿下、ごめんなさい。殿下とお話しするの、正直ちょっと退屈でした。手紙のときはあんなに素敵なのにって、ずっと不思議だったんです」
どこかで、誰かが噴き出した。
それが合図のように、くすくすという笑い声が大広間に広がっていく。
「エレナ様! わたしに、字の書き方を教えてください! 今度は自分の言葉で、手紙を書けるようになりたいんです!」
「え、ええ。私でよければ」
「やったぁ!」
殿下は、その場に立ち尽くしていた。
握りしめた青い封筒の束が、手の中でくしゃりと潰れる。
「ルーカス」
低い声が、大広間の奥から響いた。
人垣が割れ、国王陛下が姿を現す。
その手には、一冊の薄い本があった。
「先週、お前が文芸院に献上した詩集だ。『真実の愛の書簡集』。王太子自らの筆による、とお前は言ったな」
「ち、父上、それは……」
「文芸院長が、今年の文芸賞に推していた。取り下げさせる」
陛下は詩集を閉じ、深いため息をついた。
「言葉を金で買い、それを己のものと偽った。王太子として、これ以上の恥はない。ルーカス、お前は明日から文書院の見習い書記として、自分の手で文字を書くことから学び直せ」
「そんな……!」
「エレナ嬢との婚約は、お前の望みどおり解消する。エレナ嬢、三年間すまなかった」
私は、深く一礼した。
顔を上げると、殿下と目が合った。
殿下は何か言いたそうに口を開き、それから閉じた。
言葉が出てこないのだ。
この方は、ご自分の言葉を持っていないから。
近衛騎士に促されて、殿下は大広間を出ていった。
ミリア様はその背中を見送り、それから小走りで私のそばへやってきた。
「エレナ様、さっそく明日から字の練習をしたいです。お時間ありますか?」
「ええ。でも、その前に一つだけ」
「はい」
「あなたの依頼状、とても良い文章だったわ。私はそれを、少し整えただけよ」
ミリア様は目を丸くして、それから、ぱっと顔を輝かせた。
◇
翌日の夕方。
私は、ふくろう堂の奥のカウンターにいた。
昨夜の騒ぎが嘘のように、店の中は静かだ。
「お疲れさまでした、エレナ様」
ノアが、湯気の立つ紅茶を置いてくれる。
「代筆屋は、もう店じまいですか?」
「どうかしら。正体は王都じゅうに知られてしまったし」
「今朝から、依頼の封筒が三倍に増えていますが」
「それは困ったわね」
ノアが、青い封筒の山をカウンターに積み上げる。
一番上の一通は、見覚えのある、ひどく乱れた字だった。
『エレナへ。文書院の書記長に、謝罪の手紙を自分で書けと言われた。書いたので読んでくれ。ルーカス』
便箋を開くと、三行だけ書いてあった。
『昨日は悪かった。僕も反省している。これからもよろしく』
私はしばらくそれを眺めてから、赤いインク壺の蓋を開けた。
「ノア。添削用のペンを貸してくれる?」
「返事を書かれるのですか」
「いいえ。代筆はしないわ。添削だけ」
私は余白に、小さく書き込んだ。
『何が悪かったのかを、具体的に書きましょう』
『「これからもよろしく」の意味が分かりません』
『あと十回、書き直してください』
ノアが、肩を震わせて笑いをこらえていた。
ミリア様からの封筒も入っていた。
字の練習帳の最初の一頁が、同封されている。
まだ拙いけれど、昨日よりずっと丁寧な字で、こう書いてあった。
『エレナ様の言葉が、わたしのお手本です』
読みながら、胸の奥がじんわりと温かくなる。
代筆屋を続けてきて、一番うれしい手紙かもしれなかった。
私は笑った。
婚約してから三年、ずっと張りつめていた肩の力が、ようやく抜けた気がした。
ノアは少し黙ってから、カウンターの下から一通の封筒を取り出した。
青い封筒ではない。
真っ白な封筒だ。
「これは、依頼ではありません」
「え?」
「私が、私の言葉で書いたものです。代筆屋のあなたに読んでいただくのは、とても勇気が要りましたが」
ノアは耳まで赤くなっている。
ノアは、三年前にこの店を継いだ若い店主だ。
先代の祖父が亡くなり、王立書庫の写字生の職を辞めて帰ってきたのだと聞いている。
代筆屋を始めたいと相談したとき、ノアは理由を一つも聞かずに、奥のカウンターを空けてくれた。
依頼の手紙を受け取り、代金を数え、できあがった恋文を箱に戻す。
それだけの役目を、ノアは三年間、一日も休まずに続けてくれた。
私が書き損じて丸めた便箋を、黙って拾って暖炉にくべてくれたのも、ノアだった。
私は封を切った。
几帳面な、少し角ばった字。
店の帳簿や本の値札で、三年間ずっと見てきた字だ。
『すずしい顔で、あなたはいつも他人の恋を書いていた』
『きっと自分の恋文は、一通も書いたことがないのでしょう』
『できることなら、その最初の一通を受け取る者でありたい』
『すぐにとは言いません。返事を、待っています』
私は便箋を持ったまま、しばらく動けなかった。
代筆屋の癖で、目が勝手に行の頭を拾ってしまう。
す。
き。
で。
す。
「……ノア」
「はい」
「あなた、代筆屋の決まりごとを、真似したわね」
「三年も隣で見ていましたから」
ノアは、困ったように笑った。
私は青いインク壺を引き寄せ、いつもより丁寧にペンを浸した。
書くのは、四行だけ。
生まれて初めての、自分のための手紙。
代筆ではない、私の言葉で。
『わたしも、ずっと隣のあなたを見ていました』
『たぶん、あなたが思うよりずっと前から』
『しんと静かな、閉店後のこの店が好きでした』
『もう一度言いますね。この手紙は、代筆ではありません』
頭の四文字を、ノアはきっと、すぐに読むだろう。
わ。
た。
し。
も。
↓番外編「白い封筒」(ノア視点。三年間カウンターの隣で見ていたこと)
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