「あの子がまた口をきかなくなりました」——子守を手放した子爵家で、四人が続けて倒れた
「お戻りいただけないのですか」
スコップを土に差し込みながら、カレナ・ランベールは顔を上げた。
薬草園の入り口に、年配の執事が帽子を胸に押し当てて立っていた。旅塵に汚れた上着の衿が半分折れている。目の下に濃い隈があった。かつてヴァルドワ子爵家の執事として三十年、完璧な身なりを崩さなかったフォスタが、これほど乱れた姿で立っているのを、カレナは初めて見た。
春の辺境はまだ空気が冷たく、薬草の芽が朝露を帯びていた。カレナは三ヶ月かけてこの土を耕した。荒れ地だったそれを掘り起こし、根を解きほぐし、育ちやすい土に変えた。子供の食事に使う薬草には、土の質が出る。それを知ったのは七年前のことだった。
「三度目ですね、フォスタさん」
声に感情を乗せないようにしながら、カレナはスコップを置いた。「はい」とフォスタが答えた。声がしぼんでいた。
「恐れ入ります。どうかお戻りを——ヴィクトール様がまた食事を受けつけぬと申しまして。医師も原因がわからず、子爵様も奥様も途方に暮れておいでで……」
カレナは土のついた手袋を外した。七年間、この手でヴィクトールの食事を管理してきた。禁忌リストを毎年更新し、厨房の入り口に毎朝貼り出した。食材が変わるたびに一つずつ確認し、秋の大晩餐の前には必ず料理長と二時間かけて摺り合わせた。その記録が今も、育児帳の中に眠っている。
「ヴィクトールの育児帳は七ページ目の先頭から始まります。禁忌リストの見出しは大きく書いてあります。お医者様にお見せになってください」
フォスタが息を呑んだ。「では、やはりアレルギーが……」
「全て書いてあります。わたくしが置いていったのは帳面だけです。記憶は持っていきました」
フォスタは長い間、帽子を胸に押し当てたまま動かなかった。北の春風が薬草の芽を揺らしていた。やがてフォスタが口を開いた。
「……お戻りいただけないのですか」
「いいえ」
一言だけ返した。フォスタは深く頭を下げ、砂利を踏んで引き返した。馬蹄の音が北の道を遠ざかっていく。その音が完全に消えるまで、カレナはその場に立っていた。
「また来たのか」
低い声がして振り返ると、石柱に腕を組んで立っていたアルヴァン・デュクレールが、静かにこちらを見ていた。デュクレール侯爵、この邸の主だ。日に焼けた顔に、いつも何かを見定めるような目をしている。
「はい」
「追い返したか」
「はい」
「そうか」
それだけで会話が終わった。アルヴァンが邸の方へ歩いていき、カレナはスコップを拾い上げた。北の春の風が、薬草の若葉をさわさわと揺らした。
七ヶ月前のことを思い出すとき、カレナはいつも育児帳の重さから始める。
十六冊。小型の革表紙、百二十ページ。七年分、四人分。食事・体調・睡眠・学習・社交の記録が細かな文字で埋まっていた。初期のものには子供たちの手形のシミがあり、後半のものは薬草煎じ汁の跡が滲んでいた。最後の一冊の背表紙は、次女ソフィーが転んだとき押しつけた土の跡で薄く汚れていた。その跡をカレナは、一度も消さなかった。
四人はヴァルドワ子爵の孫にあたる。子爵の長男夫妻が事故で亡くなったあと、幼い四人は祖父母の屋敷に引き取られた。カレナが十六歳で子女教育担当に呼ばれたのは、その翌年のことだ。屋敷に残っていたもう一人の息子——次男のロラン——が、いずれ四人の後見人になる。婚約は、そういう話だった。
ヴィクトール——長男。カレナが屋敷を出たとき十五歳だった——の欄が特に厚かった。
ヴィクトールが生後三ヶ月でラッカセイへの反応を起こしたのは、カレナが来るより前のことだ。前任の乳母が残した走り書きは、紙片が四枚あるきりだった。カレナはそれを一冊目の巻頭に貼り、七年かけて食材を一つひとつ確かめ、禁忌リストを毎年更新し続けた。侍女たちが「ヴィクトール様はこれが食べられる」と把握しているのは、カレナが毎朝、厨房の入り口に最新のリストを貼り出すからだった。
ある秋の午後、料理長が巻き菓子を持ってきた。「子供たちが喜ぶかと」と満面の笑顔で差し出した。刻んだクルミが生地に練り込まれていた。ヴィクトールが手を伸ばした瞬間、カレナは静かに皿を引いた。
「この菓子にはクルミが入っています」
料理長が青ざめた。ヴィクトールは首を傾け、「食べられない? 」と聞いた。カレナは「後でりんごを持ってきます」と答え、皿を厨房へ戻した。叱りも責めも一切しなかった。知らない者は知らない。知っている者が守ればいい。
翌朝、カレナは厨房の貼り出しに赤い線を一本引き加え、「クルミ・クリ・全てのナッツ類——絶対禁忌」と書き足した。料理長は「存じませんでした」と青い顔で頭を下げた。カレナは「お互いに気をつけましょう」と言っただけだった。
ヴィクトールはその後、「俺のために毎朝貼り出してくれるのか」と聞いてきたことがあった。カレナが「そうですよ」と答えると、ヴィクトールは短く「ありがとう」と言って窓の外を向いた。十二歳のことだった。その夜、カレナは育児帳のヴィクトールのページに小さく書き添えた。「ありがとうと言えるようになった」と。
七年分の記録の重みは、帳面の厚さだけではなかった。それはカレナの手の動きに、目の動き方に、声のかけ方に染み込んでいた。ページを繰らなくても、体が覚えていた。
ソフィーの欄は、また別の意味で厚かった。
次女のソフィーは小さい頃から口数の少ない子だった。発語が遅く、家庭医は「性格の違いでしょう」と言ったが、カレナは違うと感じていた。ソフィーは言葉が見つからないとき、右手の人差し指で左の手のひらをゆっくりなぞる癖があった。喜んでいるときは耳の後ろに触れた。怖いとき、あるいは誰かに叱られたときは、目を細めて口を引き結んだ。
「ソフィー、今日は何が食べたい? 」
声に出す前に、カレナはいつも正面にしゃがんで目線を合わせた。ソフィーが右手を動かす。カレナが「スープ? 」と聞く。ソフィーが小さく頷く。
言葉がなくても、会話は成立した。七年分のやりとりの積み重ねで、ソフィーは少しずつ変わっていた。五歳の頃には「いや」と首を振るようになり、六歳を過ぎたあたりから「おいしい」と声に出せるようになった。去年の誕生日には「ありがとう」と小声で言えた。カレナにとって、それはどんな賛辞よりも重かった。
育児帳の終盤、ソフィーのページだけは文字の勢いが少し違う。カレナが気づくたびに書き足した小さな観察が、七年分ぎっしりと詰まっていた。右手の癖の意味、好きな食べ物の変化、誰かに笑いかけた最初の朝、廊下でルカ(次男)と一緒に笑い声を上げた日付。
ソフィーの成長は帳面の中でだけ見える種類のものだった。
婚約破棄の日は、秋の光が差し込む書斎で告げられた。
ロラン・ヴァルドワは父の椅子に座り、横には若い令嬢を連れていた。エルミーヌ・クロワ。社交界で愛嬌のある笑顔で知られる令嬢だった。扇を手に持ち、カレナを見る目が笑っていなかった。
「カレナ、今日はお前に伝えることがある」
ロランの顔に申し訳なさはなかった。整理済みの事実を処理するような、平坦な表情だった。
「婚約を解消する。エルミーヌと正式に婚約を結ぶことになった。お前には——子守など誰でもできる道楽仕事だ。このまま続けていても先がない。実家に戻って別の縁を探すといい」
カレナは机の上の育児帳を一度見た。十六冊、きちんと積まれている。
「一つだけ聞かせてください」
ロランを見た。
「この子の笑い方、ご存じですか」
ロランが眉をひそめた。「……何の話だ」
「では、ヴィクトールが食べてはいけないものを一つ挙げていただけますか」
「そんなことを今——」
「わかりました」
カレナは育児帳を机の上に一冊ずつ揃えた。十六冊。まっすぐ整えた。
それから、書斎を出た。廊下に扉を閉める音が、低く響いた。
階段を下りながら、カレナは不思議なほど落ち着いていた。怒りが来るかと思っていたが、来なかった。七年分の記録は頭の中にある。帳面がなくなっても、記憶は残る。誰にも渡せない、奪えない種類の記録が。
北行きの乗合馬車に乗ったのは、婚約破棄から三日後のことだった。
行き先を決めたわけではなかった。ただ南の王都から離れたかった。人の顔を見ると、ついソフィーの癖を探してしまった。誰かが食事をしているのを見ると、禁忌リストが頭に浮かんだ。七年分の習慣は、そう簡単には抜けなかった。
乗合馬車は二日ごとに馬を替え、少しずつ北へ向かった。窓の外の景色が変わっていった。王都近郊の平らな農地が丘になり、丘が山に変わり、山裾に沿って白樺の林が続くようになった。乗客が話す言葉のなまりも、少しずつ変わった。
デュクレール侯爵領の市場に着いたのは、五日目の昼だった。
荷物を整理していると、噴水の縁に小さな女の子が一人座って泣いているのが目に入った。六歳くらいだろうか。金色の巻き毛が涙で湿り、布の人形をひしゃげた形で抱えている。右手の人差し指が、左の手のひらをゆっくりなぞっていた。
カレナは荷物を置いて、しゃがんだ。
「迷子になった? 」
女の子は涙をこぼしながら、こくりと頷いた。カレナは隣に腰を下ろした。いきなり手を引いてはいけない。この子は今、怖がっている。
「名前は? 」
「……エメ」
「エメ。いい名前ね。わたくしはカレナ」
市場の喧騒が少し遠のくような間があった。エメが人形を抱え直した。
「お父様を、探してる」
「そう。じゃあ一緒に探しましょうか」
立ち上がって手を差し伸べると、エメはほんの一瞬だけためらい、それからその手を握った。小さく、温かかった。
父親はすぐ見つかった——というより、父親が血相を変えて駆けてきた。
灰色がかった黒髪、広い肩幅、年齢より精悍に見えるが目には疲れが滲んでいる。従者を三人連れ、市場の人々に「子供を見なかったか」と訊いて回っていたらしい。エメを見るなり、男の顔がほどけた。
「エメ! 」
「お父様! 」
エメが駆け出した。男がその場に膝をついてエメを抱きとめた。「どこに行ったんだ、心配した」と絞り出すような声だった。
しばらくして、男がカレナを見た。「あなたが見つけてくださったのか」
「たまたまそこにいました」
「礼を言わせてください。私はアルヴァン・デュクレール」
侯爵だった。カレナは頭を下げた。名乗ると、アルヴァンは眉をわずかに動かした。「ランベール伯爵家の? 」
「元、です。今は仕事を探しております」
アルヴァンがエメを見た。エメはカレナの服の裾を握ったまま離さなかった。男の眉が、わずかに動いた。娘がそうするのを久しく見ていない者の顔だった。
「……少し、話を聞かせてもらえるか」
デュクレール侯爵邸での最初の一ヶ月は、手探りの連続だった。
エメは夜中に泣いた。食事を残した。侍女が近づくと身を固くした。それでも、カレナが絵本を読み聞かせているときだけは、少しずつ体の力が抜けた。
カレナはエメの癖を一つずつ覚えた。怖いとき、エメは右手の人差し指で左の手のひらをなぞった。ソフィーと同じ癖だった。それを知った夜、カレナは窓の外の暗い空を少し長く見つめた。
どこかで似たものを見てきたのだと、腑に落ちた。言葉にならないものを伝えようとして、体が先に動く。そういう子供を、自分はずっと見てきた。
二ヶ月目に入ったある朝、エメが「カレナ、見て」と言いながら窓の外を指差した。屋根の庇に小鳥が巣を作っていた。それがエメから自発的にカレナへ向けた最初の言葉だった。カレナは「本当ね」と答えながら、頭の中でそっと記録した。二ヶ月三日目、エメが初めて自分から話しかけた、と。
育児帳がなくても、記録は続けられた。
アルヴァンはぶっきらぼうで言葉が少なかった。ただ、夕食の後にエメが眠ってから、書斎で書き物をするカレナに声をかけることが増えた。
「どうやってあいつの心をほぐすんだ」
ある夜、アルヴァンが珍しく立ち止まってそう聞いた。
「聞くだけです」
「聞く? 」
「子供はわかってほしいことを、言葉にはできません。でも伝えようとはしています。その伝え方を覚えれば、会話できます」
アルヴァンが眉を寄せた。「俺には……その伝え方がわからない」
「では、エメが怖いときどんな顔をするかご存じですか」
カレナは自分でも気づかないまま、婚約破棄の日と同じ問いを口にしていた。アルヴァンが静かに答えた。
「目を細めて、口を引き結ぶ」
カレナは驚いた。「……よく見ていらっしゃいますね」
「毎日見ているからな」
アルヴァンが少し間を置いた。「見ることと、どうしていいかわかることは別の話だ」
「そうですね」
カレナはそう答えながら、胸の中で何かが緩んだのを感じた。見ているのに届かない、その不器用さが、七年前の自分に似ていた。ソフィーの癖がまだわからず、ただそばにいることしかできなかった、最初の頃に。
翌朝、アルヴァンが朝食の席でエメに「今日は何が食べたいか」と聞いた。エメが小さく「スープ」と答えた。アルヴァンが従者に伝えた。それだけのことだったが、エメの顔が明るくなった。カレナはその朝食の時間が、少し好きになった。
三ヶ月が経つ頃、エメは夜泣きをしなくなった。食事もほぼ残さなくなった。侍女には近づかれると少し身を固くするが、カレナの膝の近くでなら本を読んでいられるようになった。アルヴァンが書斎でエメに話しかけると、短い言葉で返せるようになった。カレナはそれらを全部、頭の中の帳面に記録していた。
ある昼下がり、エメが「カレナはどうしてここに来たの? 」と聞いてきた。カレナは少し考えてから、「居場所を探していたのよ」と答えた。エメが「見つかった? 」と聞いた。「見つかったみたい」とカレナは言った。エメは満足そうに頷いて、また絵本に目を落とした。
四ヶ月目の終わりに、ヴァルドワ家の知人を名乗る商人が侯爵領の取引で立ち寄り、近況を話した。カレナは食堂の隅でその話を聞いた。
ヴィクトールは先月の晩餐に出された菓子でアレルギーを起こし、顔が腫れて高熱を出した。育児帳は机の上にあったが、厨房の誰も読み方がわからなかった、と商人は言った。
カレナは食堂の石の床を見つめた。
情景が浮かんだ。広間に椅子の倒れる音が響く。厨房から侍女が走ってくる足音。ヴィクトールの顔が青ざめ、唇が腫れて言葉が出てこない。誰かが医師を呼べと叫ぶ。灯りが急いで増やされ、橙色の光の中で、記録の読み方を知らない者たちが互いを見合わせる。
禁忌リストの見出しには「必読」と書いた。赤い線まで引いた。それでも七年間その帳面を開かなかった者には、どこに何があるかわからない。
医師が来るまでの二時間、誰も「ナッツ類だ」と気づかなかった。帳面を手に持ちながら、頁をめくることさえしなかった。ヴィクトールはようやく快癒したが、三日間、床に臥せっていたという。子爵夫人が「いったい何を食べさせたんだ」と厨房を叱りつけた。厨房の者が「育児帳に何か書いてあったはずですが……」と口ごもった。その「はず」の意味が、カレナには痛いほどわかった。
「ソフィー嬢は今もお声を出さないそうですよ」
商人が続けた。「新しく雇われた方がいろいろと試されたそうですが、四ヶ月たっても……」
ソフィーの沈黙が、頭の中に広がった。
あの子は言葉がないのではない。言葉を渡せる相手がいないのだ。右手の人差し指が、今も左の手のひらをなぞっているはずだった。怖い、わかってほしい、でも誰もこちらを見てくれない——その繰り返しの中で、ソフィーはどんどん奥へ引っ込んでいく。
目に浮かんだ。手のつけられた形跡のない皿。「食べなさい」という声が食卓に落ちる。ソフィーが音もなく皿を横へ押しやる。誰かのため息。また一枚、ソフィーの上に薄い膜が重なる。新しい子守が「この子はどうしたらいいのかわからない」と首を振っている。
それを作ったのは自分ではない。わかっている。でも、その沈黙の重さが胸に当たった。
「ルカ様も、先々月に階段で腕を折られたそうで」
商人はまだ続けた。「叱られて走り出されたのを、新しい子守の方が後ろから追いかけたとかで」
カレナは膝の上で指を組んだ。育児帳のルカの欄には、三行だけ大きな字で書いた箇所がある。「叱ると走る。追うな。先に回り込め」。追われた分だけルカは速くなる。速くなった分だけ、転ぶ。七歳で額を切って以来、カレナは一度も後ろから追わなかった。
「アデル様は、その前の月の集まりでお倒れになったと聞きました。大勢の前で刺繍を褒められて、そのまま息が上がってしまわれたそうです。五日ほど寝ついておいでだったとか」
長女のアデルは、褒められると耳の先が赤くなる。赤くなったら、そこで止める。人前では褒めない。褒めるのは扉を閉めてから、二人きりのときに。育児帳の最終ページに、カレナは文字を大きくしてそう書いた。下に線も引いた。
四人が、順に倒れていく。ヴィクトールの唇、アデルの耳の先、ルカの走る背中、ソフィーの右手。全部、帳面に書いてある。机の上に、揃えて置いてきた。
「新しい子守の方は、もう辞められたとか。三人目だそうです」
商人が付け加えた。「子爵様が『前の令嬢を呼び戻せ』とおっしゃっているとも聞きましたが……もうランベール伯爵家も、北に移られたとかで」
「エルミーヌ嬢は先月、実家に戻られたとか」
商人の声が遠のいた。「ロラン様が子供たちに手を焼いておられると聞きましたが……それで縁談が、だいぶ難しいことになっているとか。子爵様と奥様も、この春の茶会はすべてお断りになったそうです。四人ともあの有様では人をお招きできない、と」
カレナは何も言わなかった。
怒りは来なかった。思い浮かぶのはただ、今朝の朝食でエメが「りんご食べた」と言い、アルヴァンが「そうか」と答えたやりとりだった。短い。素っ気ない。それでもエメの目が嬉しそうに光った。
七年かけて育てた関係は、去ればそこで止まる。それを続けるかどうかは、自分ではなく残った者が決めることだ。カレナはそれを、七年かけて学んだ。
フォスタが帰った後、薬草園には風の音しか残らなかった。
カレナはラベンダーを一本摘み、茎の固さを確かめた。エメの枕元に置くと夜泣きが減る——三ヶ月前に気づいた。今では薬草園で一番よく育っている。土が合っているのだろう、と思う。この北の地が、カレナ自身にも合っている気がした。
「ロランとはいつ正式に縁を切るつもりだ」
アルヴァンが石柱から離れて近づきながら、唐突に言った。
「婚約は既に解消されています。縁を切るも何も……」
「法的な話ではない」
アルヴァンが庭の向こうを見たまま言った。「頭の中での話だ」
カレナは少し考えた。「頭の中では、とっくに切れています」
「そうか」
アルヴァンはすぐには答えなかった。横顔が、珍しく硬かった。北の風がラベンダーを揺らした。
「カレナ」
「はい」
「ここに残れ」
カレナは動かなかった。
「エメのためだけではない。俺が——お前にここにいてほしいと、思っている」
風が薬草園を渡った。ラベンダーが波打つように揺れた。カレナはその茎を持ったまま、しばらく声が出なかった。
七年間、子供の声に耳を澄まし続けた。誰かに自分の声を聞いてもらうことを、いつの間にか考えなくなっていた。
胸の中に何かが満ちてくる感じがした。静かな、でも確かな感触だった。一筋、涙がこぼれた。
「わたくしも」
やっと声が出た。
「ここが好きになりました」
アルヴァンが小さく息を吐いた。長い、緊張が解けるような息だった。
「ならよかった」
素っ気ない言い方だった。でもそれがアルヴァンらしかった。カレナは思わず笑った。薬草の香りが風に乗って流れた。北の春の空が、広く青かった。
「カレナ! お父様! 」
邸の扉が開いて、エメがよたよたと走り出てきた。昼寝で乱れた金の巻き毛が、風に揺れていた。
「起きたの? もう少し寝ていていいのに」
「だって、お父様がいなかったから」
エメはアルヴァンにぶつかるように飛びつき、次にカレナにも腕を伸ばし、両側から二人の手を一本ずつ握った。小さな指が、しっかりと絡んだ。
「お父様、カレナとずっと一緒にいるの? 」
アルヴァンがエメを見下ろした。「ああ」
「ずっと? 」
「ずっとだ」
「お嫁さんになるの? 」
「そうなる」
エメが目を輝かせた。「本当に? 」
アルヴァンが目を細めて頷いた。エメの前でその顔をするのを、カレナは初めて見た。
「やったあ! カレナがお嫁さんになる! 一緒にずっといる! 」
エメが大声で笑った。澄んだ笑い声が薬草園に広がり、屋根の庇から鳥が一羽飛び立った。カレナはエメの巻き毛を撫でた。ふっくらとした頰が喜びで赤く染まっていた。
七年間、四人の子供の声を拾い続けた。その記録は今も頭の中にある。
ヴィクトールの禁忌リスト。ソフィーの右手の癖。ルカが転んだとき必ず口をへの字にすること。アデルが褒められると耳の先が赤くなること。それらは誰にも渡せない種類の記録だった。
育児帳は王都の書斎に置いてきた。
でも、この手のひらの温かさだけは——どこにも置いてこなかった。
歩人です。最後まで読んでいただきありがとうございました。
「子守など誰でもできる道楽仕事」と言い捨てた人たちの、その後を書くのが今回のテーマでした。カレナは声を荒げません。怒りの代わりに、育児帳を机の上にまっすぐ揃えて置く。「この子の笑い方、ご存じですか」——その問いだけを残して、静かに去ります。反論でも宣言でもなく、ただ問いかける。その静けさこそが、もっとも致命的な言葉だと思っています。
育児は「誰でもできる仕事」でしょうか。そうかもしれません。でも「七年かけてこの子だけの記録を持つこと」は、誰でもできることではありません。カレナが去って初めて、周囲の人間はそれを知る。手遅れになってから気づく——それがこのシリーズの王道です。恋愛パートでは、「見ているのにどうしていいかわからない」不器用な父親と、静かに諦め上手になった令嬢の距離が縮まる過程を丁寧に描きました。エメを通して少しずつ近づく二人の朝食の時間が、個人的に好きなシーンです。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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