第二章 亡霊のソースコード
小章① 隠蔽されたバグ
土曜日の朝。 システム管理センターは戦場と化していた。 非番のエンジニアも全員招集され、ホワイトボードには複雑なネットワーク図やコードの断片が殴り書きされている。 攻撃は一時的に収まっていた。犯人が宣言した「七十二時間の猶予」だ。だが、それは嵐の前の静けさに過ぎない。
真田は、地下のサーバールームに籠もっていた。 冷房の風が吹き荒れる「極寒の聖域」。ここにあるメインフレームの中に、犯人が仕込んだ「毒」が潜んでいるはずだ。 彼は、三年前のシステム更新時のログを洗っていた。 阿久津が失踪する直前の記録だ。
「見つけた……」
膨大なソースコードの海の中に、異質な一行を見つけた。 それは、通常は実行されることのない、コメントアウトされた数行のコードに見せかけた、隠しコマンドだった。 『Project: PHANTOM』。 そのコードは、特定の日付――つまり今日――をトリガーにして起動し、システムの管理者権限を奪取するように設計されていた。
「時限爆弾か」
真田はコードを解析した。 このプログラムには、解除コードを入力する「鍵穴」が用意されている。だが、その鍵が何なのかは分からない。 さらに解析を進めると、このプログラムが仕込まれた日付に目が止まった。 『2023年10月15日』。 阿久津が自殺したとされる日の、前日だ。
真田は端末を閉じ、サーバールームを出た。 技術的なアプローチだけでは限界がある。犯人の「動機」を探らなければ、解除コードにはたどり着けない。
彼はエレベーターで一階に降り、警備員に断って外の空気を吸いに出た。 朝日が眩しい。 ビルの入り口付近にあるカフェテラスで、一人の女性が待っていた。 水原沙織。週刊誌の記者であり、真田の数少ない飲み友達だ。
「呼び出してごめん。どうしても調べたいことがあるんだ」
真田はコーヒーを二つ注文し、彼女の向かいに座った。 沙織は不機嫌そうにサングラスを外した。
「ジェンダーバンクさん、大変そうね。昨夜からシステムが不安定だって、ネットでちょっとした騒ぎになってるわよ」
「……まだ公表できない。だが、危機的状況だ」
真田は声を潜めた。
「沙織、三年前の阿久津の死について、何か知ってるか?」
沙織の目が鋭くなった。
「阿久津誠? あの天才エンジニアの? ……警察発表じゃ、過労による鬱で自宅マンションから飛び降りたってことになってるけど」
「違うのか?」
「噂レベルだけどね」
沙織は周囲を警戒しながら、身を乗り出した。
「彼は死ぬ直前、ある『重大なバグ』を見つけていたらしいの。システム上のバグじゃない。銀行の経営に関わる、致命的な欠陥よ」
「致命的な欠陥……」
「ジェンダーバンクの創業期、資金繰りに困った経営陣が、反社会的勢力から巨額の資金を導入した。その金が、マネーロンダリングされて資本金に組み込まれている。阿久津さんは、システムのデータベースを構築する過程で、その『黒い金の流れ』を見つけてしまった」
真田は息を呑んだ。 それが、犯人の言う「過去の罪」か。 銀行そのものが、ヤクザの金で作られた虚構の城だったとしたら?
「阿久津さんはそれを内部告発しようとして、消された。……そういう説があるわ」
「殺されたのか?」
「確証はない。でも、彼の死後、彼のパソコンやデータはすべて銀行側に回収されて、跡形もなく消去された。警察もなぜか深入りしなかった」
真田は、昨夜の大崎常務の泳ぐ視線を思い出した。 彼らは知っているのだ。阿久津が何を知り、なぜ死んだのかを。
「ありがとう、沙織。助かった」
「待って、真田さん。あなた、何をする気?」
「バグ修正だ」
真田は立ち上がった。 「システム屋の仕事は、バグを見つけて直すことだ。それがプログラムのバグだろうと、組織のバグだろうとな」
小章② デッドマン・スイッチ
午後一時。 真田は再びシステム管理センターに戻っていた。 だが、彼の狙いはコードの解析ではなかった。犯人と「対話」することだ。 彼は、自身の管理者権限を使って、攻撃プログラムに対してメッセージを送った。通常はシステム間通信に使われる領域に、テキストデータを乗せる。
『阿久津、聞こえているか。俺だ、真田だ』
返事はない。 だが、数分後。 モニターの隅に、ポップアップウィンドウが表示された。
『真田。お前なら気づくと思っていた』
やはり、阿久津だ。あるいは、彼の思考を模倣したAIか。
『お前の目的は何だ。銀行を潰すことか?』
『浄化だ。この銀行は、腐った土台の上に建っている。黒い金を洗浄し、それを元手に肥え太った豚どもを、俺は許さない』
文字が次々と表示される。
『俺は殺された。大崎と、その手下の実行部隊にな』
真田の指が震えた。 阿久津はやはり、殺されていた。 このプログラムは、彼の死後、一定期間ログインがない場合に自動的に起動するよう仕組まれた「デッドマン・スイッチ(死者の報復装置)」だったのだ。
『俺の肉体は滅びたが、俺の魂はこのコードの中に生きている。七十二時間後に、すべての預金データと、裏帳簿のデータを全世界に公開する。それが俺の復讐だ』
『やめろ、阿久津! それをすれば、何も知らない一般の預金者まで巻き添えになる!』
『知ったことか。見て見ぬふりをした奴らも同罪だ。お前もな、真田』
画面が赤く点滅した。 拒絶。 阿久津の怨念は、もはや説得できるレベルを超えている。
その時、背後で足音がした。 大崎常務だ。 彼は警備員を二人引き連れていた。その目は血走り、殺気立っている。
「真田! 貴様、何をしている!」
大崎が怒鳴った。 彼はモニター上のチャット画面を見て、顔色を変えた。
「犯人と交信しているのか? ……貴様、まさか犯人の仲間か?」
「違います。説得していたんです」
「説得など不要だ! さっさとプログラムを止めろと言っているんだ!」
大崎は警備員に顎でしゃくった。 「こいつを拘束しろ。端末から引き剥がせ!」
「何をするんですか!」
真田は抵抗したが、屈強な警備員に取り押さえられた。
「お前はクビだ。後は我々がやる」
大崎は、別のエンジニアチームを呼び寄せた。彼らは外部のセキュリティ会社から雇われた、高給取りの傭兵エンジニアたちだ。
「力技でいい。サーバーを物理的に遮断してでも、攻撃を止めろ。手段は選ばん!」
真田は床に押さえつけられながら叫んだ。
「やめろ! このプログラムは、強制終了させると即座に『破壊フェーズ』に移行するように組まれている! 下手にいじれば爆発するぞ!」
「黙れ!」
大崎は真田の言葉を無視した。 彼は、阿久津の名前が出たことに恐怖しているのだ。自分の罪が暴かれるのを防ぐためなら、銀行がどうなろうと構わないと考えている。
傭兵エンジニアの一人が、メインサーバーの強制シャットダウン・コマンドを入力した。 エンターキーが押される。
一瞬の静寂。 次の瞬間、センター内の全てのモニターが真っ赤に染まった。 けたたましいアラーム音が鳴り響く。
『Critical Error: Data Corruption Detected』 (致命的エラー:データ破損を検知)
阿久津の笑い声が聞こえるようだった。 デッドマン・スイッチが作動したのだ。 預金データの消失が始まった。
カウントダウンは、七十二時間から、残り三時間へと短縮された。 真田は絶望の中で、天井を見上げた。 このままでは、月曜の朝、日本経済は大混乱に陥る。 そして自分は、その責任を負わされて社会的に抹殺されるだろう。
(……いや、まだだ)
真田の目の中に、冷たい光が宿った。 システムの中で勝てないなら、現実世界で戦うしかない。 阿久津が隠した「裏帳簿」。その物理的なバックアップがどこかにあるはずだ。それを見つけ出し、大崎に突きつければ、あるいは――。
真田は警備員の腕を振りほどき、全速力で出口へと走った。 もはや銀行員としてのルールなどどうでもいい。 これは、死んだ友と、腐った組織との、最後の戦争だ。




