第一章 1円の弾丸
小章① 深夜の警告
金曜日の深夜二時。 丸の内ヒルズギャラクシータワーの三十五階。急成長中のネット専業銀行『ネオ・ジェンダーバンク(通称:ジェンダーバンク)』のシステム管理センターは、冷房の効いた無機質な静寂に包まれていた。 壁一面を埋め尽くす巨大なモニター群には、世界中から流れ込むトランザクション(取引)の波が、緑色のグラフとなって穏やかに脈打っている。夜間の取引量は日中の十分の一以下だ。本来なら、監視員があくびを噛み殺しながらコーヒーを啜る時間帯だった。
シニア・システムエンジニアの真田和彦は、自身のデスクでキーボードを叩いていた。 三十四歳。色素の薄い茶髪に、無精髭。ヨレヨレのパーカー姿は、年収二千万円を超えるエリート銀行員というよりは、うらぶれたハッカーのように見える。 彼は「銀行員」ではない。「技術屋」だ。ジェンダーバンクが誇る最新鋭のAI融資システム『ジャッジメント』の設計主任であり、行内システムのすべてを知り尽くす男と言われている。
「……おかしいな」
真田の手が止まった。 サブモニターに表示されている、リアルタイムのアクセスログ。その数値が、奇妙な挙動を示していた。 エラーではない。システムダウンでもない。 ただ、口座間の送金リクエスト数が、深夜二時の平均値をわずかに、しかし確実に上回っている。 秒間五十件。六十件。百件。 グラフの波形が、さざ波から荒波へと変わり始めていた。
「おい、田所。このトラフィックは何だ?」
真田は隣の席でスマートフォンをいじっていた若手オペレーターに声をかけた。 田所は慌てて画面を確認する。
「えっ? あ、本当だ。急増してますね。……でも、DDoS攻撃のような外部からの大量アクセスではありません。すべて正規の認証を通った、正当な口座からの送金指示です」
「正規の送金だと? この時間に、何千人ものユーザーが一斉に送金ボタンを押したっていうのか?」
あり得ない。 真田はコンソールを操作し、送金内容の詳細を呼び出した。 画面に羅列されたデータを見た瞬間、真田の背筋に冷たいものが走った。
送金額:1円 送金額:1円 送金額:1円 ……
画面を埋め尽くす、無数の「1円」。 数千、いや数万の異なる個人口座から、ランダムな別の口座へ向けて、一斉に1円が送金されている。 まるで、見えない指揮者がタクトを振ったかのように。
「な、なんですかこれ!? 1円スパム?」
田所の声が裏返る。 その時、センター内の警告灯が赤く回転し始めた。 『Warning: System Load High(システム負荷増大)』 秒間の送金リクエストが五千件を超えた。勘定系システムCPUの使用率が危険域に達する。
「止めろ! ゲートウェイを遮断しろ!」
真田が叫ぶのと同時に、メインモニターがブラックアウトした。 いや、消えたのではない。 黒い背景の中央に、白い文字だけが浮かび上がっていた。システムのエラーメッセージではない。何者かが管理者権限で割り込ませた、テキストメッセージだ。
『告発の時が来た』
続いて、文字が流れる。
『我々は、ジェンダーバンクの預金者である。 七十二時間以内に、過去の罪を告白せよ。 要求が無視されれば、全預金口座の残高をゼロにする』
静まり返ったセンターに、サーバーのファンの音だけが虚しく響いていた。 これはハッキングではない。もっと質の悪い、内部からの反乱だ。 真田は、その手口に見覚えがあった。 かつて、この銀行の創業期に、一人の天才エンジニアが冗談半分で語っていた「理論上の攻撃手法」。
(まさか……生きていたのか?)
真田は震える手で、ポケットの中のミントタブレットを口に放り込んだ。 七十二時間。 金曜の深夜から、月曜の朝九時、銀行が開くその瞬間までのカウントダウンが始まった。
小章② 見えない敵
一時間後。 ジェンダーバンク本店の役員応接室には、重苦しい空気が充満していた。 役員応接室で真田を待ち受けていたのは、システム担当常務の大崎と、頭取の氷川だった。 氷川頭取は、財政省出身の天下り官僚だ。金融の知識はあるが、テクノロジーに関しては素人に毛が生えた程度。プライドだけは高い、典型的な「お飾り」だった。
「どういうことだ、真田君! 全預金がゼロになるなどと、そんな漫画みたいなことが現実に起こり得るのかね?」
氷川は顔を紅潮させ、テーブルを叩いた。
「技術的には可能です」
真田は淡々と答えた。感情を排して事実だけを述べるのが、彼の防衛本能だった。
「犯人は、我々の銀行の『即時決済システム』を悪用しています。AIを使って数万件の休眠口座を乗っ取り、そこから1円単位の送金を高速で繰り返すことで、勘定系システムに過負荷をかけ、データベースの整合性を破壊しようとしています。いわば、デジタルな『取り付け騒ぎ』です」
「犯人は外部のハッカーか?」
「いえ。これほど精密にAPI(接続仕様)を操作できるのは、内部のシステム構造を熟知している人間だけです。外部からの侵入形跡はありません」
「内部犯だと?」
大崎常務が口を挟んだ。彼は真田の直属の上司だが、技術畑ではなく営業畑の人間だ。常に数字とコストカットのことしか頭にない。
「真田、お前の部下の誰かじゃないのか? 最近、待遇への不満を漏らしている奴がいただろう」
「私のチームに、そんなことができる人間はいません」
真田は即答した。 できるとすれば、それは自分自身か、あるいは――。
「犯人の要求にある『過去の罪』とは何だ?」
氷川頭取がいらだたしげに尋ねた。
「心当たりがないわけではないだろう。我々は急成長の過程で、多少強引なM&Aや、グレーゾーンの金融商品を扱ってきた。だが、全預金を人質に取るほどの『罪』など……」
その時、真田は二人の役員の顔色を観察した。 大崎常務の視線が一瞬泳いだのを、真田は見逃さなかった。 間違いなく、ある。 この銀行には、真田たち現場のエンジニアには知らされていない、致命的な秘密がある。
「犯人は七十二時間の猶予をくれました。月曜の朝までに要求に応じなければ、プログラムは『破壊フェーズ』に移行し、全口座の残高データがスクランブル(撹乱)されます。バックアップも同時に汚染されるようにプログラムされているようです」
「警察に通報するか?」
「だめです!」
大崎が叫んだ。 「こんなことが公になれば、信用は失墜する! 株価は大暴落、取り付け騒ぎが本当に起きてしまう。月曜の朝までに、極秘裏に解決しなければならない」
保身。 この期に及んで、彼らが守りたいのは顧客の資産ではなく、自分たちの地位だ。 真田は冷めた目で上司たちを見た。
「真田、お前に全権を与える。システム部を総動員して、犯人を特定し、プログラムを解除しろ。……失敗すれば、分かっているな?」
責任の押し付け。 いつものことだ。 真田は無言で一礼し、部屋を出た。
廊下に出ると、深夜の静寂が戻ってきた。 ガラス張りの壁の向こうに、東京の夜景が広がっている。 真田はスマートフォンの連絡先を開き、ある名前に指を滑らせた。
『阿久津 誠』。 三年前、この銀行を追われるように退職し、その後謎の失踪を遂げた元同僚。そして、ジェンダーバンクの基幹システム『オメガ』の生みの親。
真田は通話ボタンを押さなかった。 阿久津は死んだと聞かされていた。自殺だと。 だが、今の攻撃コードの書き癖、変数の命名規則、そして何より、この悪意に満ちたユーモアのセンス。 それは、阿久津そのものだった。
「……生きてるのか、阿久津」
真田は呟いた。 もし彼が生きていて、復讐のために牙を剥いたのだとしたら、この銀行は終わりだ。彼が作ったシステムを、彼以上に理解している人間はいない。




