3話 奉身
天界を追放された天魔少年と、森の奥で暮らす元女神様の、温かく甘甘なお話です。二人の「居場所」がどんどん広がっていく様を描けたらいいなと思います。楽しんでいただけたら嬉しいです。
※2026/1/27リライトしました
「……元、女神……?」
ネアはパチリと瞬きをした。
あんなにも神々しい光を纏っていたのに。「元」とはどういうことだろう。
そんなネアの混乱を察したのか、レフィーナは困ったように微笑んだ。
「ふふ、そんなに難しい顔をしないで。言葉通りの意味よ」
彼女はネアの眉間に寄った皺を、白く細い指先で優しく押し広げた。
「昔の話よ。神界の堅苦しい空気と、他の神様たちと……そうね、少し喧嘩をしてしまったの。私はもう随分と長いこと、ここで暮らしているわ」
おどけて肩をすくめて見せるが、その仕草さえも一枚の絵画のように優雅だった。
ネアにとっては、彼女が「元」だろうと何だろうと関係ない。
体内に吹き荒れていた魔力の嵐から自分を救い出し、こうして温もりをくれている。それこそが全てだった。
「では……ここは、どこなんですか?」
「ここは『地上界――大陸オルテラ』よ」
「地上界……!」
その単語を聞いた瞬間、ネアの身体が強張った。
地上界。そこは天界から見下ろす遥か下界。
混沌と争いが渦巻き、飢えた魔物が跋扈する、救いのない世界だと教わってきた場所だ。
自分は翼を貫かれ、”地上”に落ちてしまったらしい。
(……魔物に、食べられちゃう……!)
ネアの顔から血の気が引いていく。
そんな彼の恐怖を見透かしたように、レフィーナは静かに立ち上がると、窓にかかっていたレースのカーテンをさらりと開けた。
「大丈夫。まずは自分の目で見てごらんなさい」
促されるまま、ネアはベッドから窓の外へと視線を向けた。
そこにあったのは、教え込まれてきた”救いのない世界”などではなかった。
「……これは」
息を呑むような光景だった。
窓の外に広がっていたのは、瑞々しい緑の木々と、木漏れ日が踊る美しい森。
色とりどりの花が咲き乱れ、小鳥たちがさえずり、風がそよぎ草木を揺らす音が心地よく響いている。
天界の無機質な白い石畳よりも、ずっと鮮やかで、生命力に溢れていた。
「ここは『終焉の森』。地上に住む人々からはそう呼ばれている場所。人も、低級の魔物も近づけない、断絶された森の奥深くなの」
「……オメガ、ヴェイル……?」
ネアはその名を知らなかった。
だが、レフィーナが口にした「地上」という言葉の意味なら、嫌というほど知っている。
(地上……。一度堕ちれば二度と帰れない、絶望の監獄……)
かつて通っていた貴族学校での記憶が蘇る。
種族の壁を超えて共に学んだ幼馴染たち――同級生の天使や悪魔と机を並べて聞いた、教師の冷淡な声。
『よいですか。地上界とは、神に見放された汚泥の掃き溜めです。そこには理性を欠いた異形が跳梁し、空から堕ちた者を貪り食う。天界への道も魔界への扉も、地上からは決して開くことはありません』
つまり、ここは救いのない処刑場だ。
(僕はこれから……どうすれば……)
瞳に暗い影を落とすネアを見て、レフィーナは静かに窓を閉める。ふわりとレースのカーテンを戻した。
逆光が遮られ、彼女の優しい表情がはっきりと見えるようになる。
「暗い顔をしないで。……確かに本来なら、ここは人の子が息をするだけで肺を焼かれるほどの瘴気に満ちた場所よ。でも」
彼女はネアの頬にそっと触れ、慈しむように目を細めた。
「私の力は、あなたの祈りによって呼び覚まされたの。その輝きが、この家を中心に森の毒を浄化し、退けているわ。……だからここは、世界で唯一、私とあなただけに許された安全地帯なのよ」
蜂蜜のように甘く、柔らかな声。
その温もりに触れるうち、ネアの心を縛っていた強張りが、春の雪解けのようにゆっくりと解けていく。
帰る場所を失った絶望よりも、今はただ、この安らぎが愛おしかった。貴族学校や貴族の屋敷では得ることができなかった”本当の安息”が、ここにはあった。
その瞬間、ネアはハッとした。
安堵と共に理性が戻り、カッと顔が熱くなる。
(僕は……なんてことを!)
憧れの女神様を前にして、自分はずっとベッドに寝そべったまま会話をしていたのだ。
これは、毎日祈りを捧げてきた”信徒”として、あってはならない不敬だ。
「ど、どうしたの? 急に赤くなって」
心配そうに覗き込むレフィーナの前で、ネアは慌てて掛け布団を退けた。
ふらつく足でベッドから降りると、床に片膝をつく。
右膝を床に落とし、左膝を立てる。
そして両手を胸の前で固く組み、静かに瞳を閉じた。
それはまるで、騎士が主君に忠誠を誓う時のような、あるいは聖職者が神へ祈りを捧げる時のような、凛とした祈りの姿勢だった。
「申し遅れました。……自分の名も告げずに甘えてしまい、大変申し訳ございません」
ネアはハッキリと、凛とした声で、告げた。
「私の名は、ネアと申します。……天界より追放された汚れた身ではありますが……女神様にお会いできた奇跡、魂の底より感謝申し上げます」
その声は、13歳の少年が発するとは思えないほど恭しく、そして切実だった。
彼にとって目の前の女性は、命の恩人以上に、心の支えであり、生きる指針そのものなのだ。
幼い頃から両親と共に祈り続けてきた相手。
そして、奴隷として暗い部屋の片隅で生きることになったあとも、唯一の希望として祈り続けてきた相手。
その女神様が、今、目の前にいる。
ネアにとってこれ以上の奇跡はなかった。
一瞬の沈黙。
怒られるだろうか。汚れた天魔が名を名乗るなどおこがましいと、拒絶されるだろうか。
心臓が早鐘を打つ。
しかし、降ってきたのは叱責ではなかった。
ふわり、と。
柔らかな布が、ネアの肩を包み込んだのだ。
「……え?」
顔を上げると、レフィーナが自身の白いショールをネアの肩に掛け、視線を合わせるようにしゃがみ込んでいた。
彼女もまた、躊躇いもなく床に膝を突き、ネアと同じ高さで微笑んでいたのだ。
「丁寧なご挨拶をありがとう、ネア。……なんて美しい名前かしら」
彼女は組まれたままのネアの手を、自身の両手で優しく包み込んだ。
その瞳には、身分や種族の違いを気にする影など微塵もない。ただ純粋な喜びだけが揺らめいていた。
「でも、ここではそんなに畏まらなくていいのよ? 床は冷えるわ。さあ、立って」
「は、はい……」
引かれるままに立ち上がると、彼女は再びネアをベッドへと座らせた。
そして、まるで愛しい宝物を見つけた少女のように、頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
「ネア。可愛いネア。……素敵な名前。あなたが来てくれて、私は本当に嬉しいわ」
その笑顔を見ていると、ネアの胸の奥にあった「申し訳なさ」や「神様に対しての畏怖」が、春の雪解けのように溶けていく。
ああ、この人は本当に、僕が知っている女神様だ。
ネアは改めてそう確信し、今度は少しだけ緊張を解いて、はにかむように微笑み返した。
「……僕もです。レフィーナ様」
窓の外では小鳥たちが歌い、部屋の中は陽だまりのような温かさに満ちている。
ネアがその幸福感に浸り、ふぅと小さく息を吐いた、その時だった。
コン、コン、と。
不意に、部屋の扉がノックされた。
静かな部屋に、乾いた音が響き渡る。
「……え?」
ネアはびくりと肩を震わせた。
ここは人も低級の魔物も寄り付かないはずの、断絶された森の奥深くだと聞いたばかりだ。
レフィーナと自分以外に、一体誰がいるというのだろう。
咄嗟に身構えるネアとは対照的に、レフィーナは「あら」と少しも驚いた様子を見せず、口元に優雅な笑みを浮かべた。
「ふふ、どうやら……あの子たちが、挨拶に来たようね」
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