16話 女神様のひざ枕
天界を追放された天魔少年と、森の奥で暮らす元女神様の、温かく甘甘なお話です。
地上界、そして天界よりも遥か高みにある『神界』。
黒曜の神殿の奥深く、雲を見下ろす玉座にて。
深紅のドレスを纏った褐色の女神が、退屈そうにワイングラスを揺らしていた。
ピクリ。
女神の指が止まる。
世界で彼女だけが感じ取れる、微かな違和感。
それは、彼女が三百年前に地上に施した『檻』からの反応だった。
「……あら?」
女神はグラスを置き、黄金の縦長孔が入った瞳で、遥か下界――地上の『終焉の森』の方角を睨みつけた。
一瞬、ほんの一瞬、檻の異変を察知し眉をひそめる。
「……壊れた? まさか」
彼女は眼力を強め、地上の様子を千里眼で確認する。
だが、そこに映っていたのは、いつもと変わらぬ灰色の雲と、瘴気に覆われた結界の姿だった。
ネアが施したカモフラージュは完璧だった。神の目をもってしても、その綻びを見抜くことはできなかったのだ。
「……なんだ、気のせいか。あの頑丈な檻が、今の『あの人』に壊せるはずもないわね」
女神は再びグラスを手に取り、興味を失ったように背もたれに身体を預ける。
だが――彼女は、大胆かつ狡猾であり、そして退屈を持て余していた。
「でも、ノイズが走ったのは事実……。少し、気にかかるわね」
「……お呼びでしょうか、崇高なる母よ」
彼女は側に控えていた下級神を呼びつけると、冷酷な笑みを浮かべて命じた。
「私の地上の駒――神導国へと伝えなさい。……『森』の様子を探らせるように、と」
彼女は直接手を下すことはしない。
取るに足らない疑念のために自ら動くのは、支配者の流儀ではないからだ。
「そうね……もしネズミが紛れ込んでいるのなら、駆除してやりなさい」
『神獄の檻』を作った混沌と闘争の女神。
神界を統べようとしている女神から下された、気まぐれな命令。
それがやがて、地上界の動乱の始まりになるとは。
自分の鳥籠が既に空っぽであり、そこには世界を変える「最強の聖域」が生まれようとしていることに。
彼女はまだ知る由もなかった。
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「……んぅ……」
瞼の裏側に、柔らかな陽だまりのような光が透けてくる。
ネアの意識が、深い泥のような眠りの底から、ゆっくりと浮上していく。
最初に感じたのは、えも言われぬ幸福感と、ふわりと香る甘い花の香りだった。
(あったかい……。ここ、どこだろう……)
頭がまだ少しぼーっとする。
後頭部を支えている場所が、驚くほど柔らかくて温かい。
吸い付くような弾力を持った極上のクッションに包まれているような、不思議な安心感。
その心地よさに、ネアは無意識に頬をすり寄せた。
「ふふっ。おはよう、ネア。気分はどうかしら?」
頭上から降ってきたのは、鈴を転がしたような美しい声。
ネアは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視界いっぱいに広がっていたのは、翡翠色の艶やかな髪と、慈愛に満ちた黄金の瞳。
敬愛する女神、レフィーナの顔がそこにあった。
だが、今のネアの視点から見える景色は、いつもとは決定的に違っていた。
仰向けに寝かされた視界の半分を覆い尽くさんばかりに、圧倒的なボリュームを持った双丘が、薄い神衣越しに迫っていたのだ。
(あ、あれ……? レフィーナ様の顔が、近い……?)
レフィーナがのぞき込むように顔を近づけているため、彼女の豊かな胸元が、まるでネアを包み込む柔らかな障壁のように視界を遮っている。
見上げた先にあるのは、神々しいまでの曲線美。
ネアが呼吸をするたびに、そこから漂うフローラルな香りが鼻腔をくすぐり、さらに思考を白く染めていく。
「あ……レ、レフィーナ、様……?」
「よかった。目が覚めたみたいね」
レフィーナは微笑みながら、ネアの額にかかった白銀の髪を、白く細い指先で優しく梳く。
指先から伝わる神気の心地よさと、頭の下に感じる肉感的な柔らかさ。
その時、ネアはようやく自分の状況を理解した。
自分が屋敷のリビングにある大きなソファに寝かされ、あろうことかレフィーナの膝の上――いわゆる『膝枕』をされていることに。
「ひっ、ひざ、膝枕っ!? し、しかもこんな、近いですっ!?」
ネアは弾かれたように飛び起きようとした。
神である彼女に、こんな真似をさせていたなんて。
そして何より、見上げれば視線の逃げ場がないほどに彼女の胸元が強調されるこの体勢は、純朴な少年には刺激が強すぎた。
だが、身体に力が入らない。手足が鉛にでもなったかのように重く、視界がぐらりと揺れる。
「あ、う……力、が……」
「だめよ、無理に動いては。まだ脳が休眠状態なんだから」
レフィーナが優しく、けれど有無を言わせぬ力強さで、ネアを寝かせる。
再び柔らかな太ももの感触が後頭部を包み込み、ネアは抗う術を失って沈み込んだ。
「お待たせいたしました、レフィーナ様。ネア」
そこへ、精霊の青が銀のトレイを持って静かに現れた。
トレイの上には、白く焼き上げられた細長いパンが乗っている。表面にはたっぷりの砂糖がまぶされ、中には甘いクリームが挟まれた『シュガーロール』だ。
青が即興で作ったそのパンから、抗いがたいほどに甘美な香りが漂ってくる。
「さあ、ネア。あーんして?」
レフィーナがパンを一口大にちぎり、ネアの口元へと運ぶ。
膝枕をされたまま、女神に食事を運んでもらう。
これ以上の不敬はないはずなのに、ネアの鼻先を掠める彼女の神衣の香りと、目の前の甘い誘惑に、理性が溶かされていく。
「え!? じ、自分で食べま……」
「あーん」
レフィーナは微笑んだまま引かない。その聖母のような、あるいは甘やかすことを心から楽しんでいるような瞳に見つめられ、ネアは観念して口を開けた。
「……あーん」
パクリ、と小さな口で受け止める。
口の中に、砂糖のジャリッとした食感と、クリームの濃厚な甘みが一気に広がる。
「……んっ……!」
その瞬間だった。
枯れ果てた荒野に清らかな水が染み渡るように、強烈な糖分が脳の芯へと駆け巡る。沈んでいた思考が急速に覚醒し、ぼんやりとしていた世界の色が鮮やかに戻っていく。
一口、また一口。
レフィーナの手によって与えられる甘味と、彼女の掌から伝わる神気の温もり。
その二つが合わさることで、ネアの身体から重い倦怠感が霧散していった。
パンを一つ食べ終える頃には、ネアの瞳に理性の光が完全に戻っていた。
「……はっ!?」
ガバッ、とネアが跳ね起きる。
今度こそ身体は軽く、頭も冴え渡っていた。
そして同時に、自分がレフィーナにどれほど甘え、あのような至近距離で彼女を仰ぎ見ていたかという記憶が鮮明に蘇る。
「ぼ、ぼぼ、僕は一体何を……!? レフィーナ様に膝枕なんて、そんな恐れ多いことを……!!」
顔をリンゴのように真っ赤にして狼狽えるネアを見て、レフィーナはクスクスと楽しげに笑った。
「ふふっ、正気に戻ったかしら? 驚かせてごめんなさいね。今の現象は、私が名付けるなら『糖分枯渇』といったところかしら」
「しゅがー……くらっしゅ?」
ネアが目をパチクリさせる。
「ええ。ネア、あなたの『理を書き換える力』は、その代償として脳に凄まじい計算負荷を強いるの。普通の魔導師が魔力を消費するように、あなたは脳の燃料である糖分を一気に使い切ってしまうみたい。そうすると、あなたの脳は自己防衛のために深い眠り――休眠状態に入ってしまうのよ」
レフィーナはネアの隣に座り直し、優しくその手を包み込んだ。
「それだけじゃないわ。私の神気とあなたの魂が深く結びついているから、糖分の補給と同じくらい重要なことがあるの」
レフィーナは一度言葉を切ると、ネアの目をじっと見つめ、これまで以上に甘く、蕩けるような声で告げた。
「私の『甘やかし』という、精神的な糖分補給が必要なのよ」
ネアは、雷に打たれたような衝撃を受けて固まった。
「あ、甘やかし、ですか……!? そ、そんな、僕の回復のためにレフィーナ様に甘えるなんて……! そんなの、あまりにも不敬というか、信徒としてあってはならないことじゃ……!」
自分の命の恩人であり、敬愛すべき主。
その方に、子供のように甘えることが、自分の力を維持するための必須条件だという。
あまりにも自分に都合が良すぎる、そして気恥ずかしさが限界を突破しそうな事実に、ネアは顔を伏せてプルプルと震える。
「あら、私は大歓迎なのだけれど? ネアが頑張った証拠ですもの。次は私がもっとたっぷり、とろけるほどに甘やかしてあげるから、覚悟しておいてね?」
悪戯っぽく微笑み、ネアの頬を指先でつつくレフィーナ。ネアは湯気が立ちそうなほど赤面したまま、返す言葉もない。
だが、そんな和やかな空気を破るように、青が申し訳なさそうに一歩前に出た。
「あの……ネア。実は、非常に申し上げにくいのですが、一つ現実的な問題がございます」
「は、はい、何でしょうか、青さん」
「先ほどのシュガーロールで……屋敷にある砂糖の在庫が、完全に底をつきました」
「…………えっ?」
ネアの思考が、別の意味で停止した。
「私たちは三百年の間、この場所で主様にお仕えしてまいりましたが……主様にとって食事はあくまで嗜み。ですので、お砂糖のような嗜好品を使うのは稀でして、備蓄もほとんどございませんでした」
「そうだったんですね……」
精霊たちの作る料理は、決して不味くはなかったが、どこか味気ないものだった。
当然ながらネアが作る料理のような、繊細な味付けや甘みを追求する文化もなかったのだ。
「……買いに行きましょう。お砂糖、それに新鮮な食材を」
ネアは、かつてないほど真剣な表情で言った。
それは単に自分の回復のためではない。
「精霊さんたちの料理も悪くはありませんが……僕は、レフィーナ様にもっと美味しいものを食べていただきたいんです。僕が作る料理で、あなた様を笑顔にしたい。そのためには、今のこのお屋敷では材料が足りなすぎます」
レフィーナのために最高の奉仕をしたいネアにとって、調味料の欠乏は致命的な事態だった。
自分の力を万全に保つため、そして何より彼女の豊かな生活のために、この事態は放置できない。
「あら、お使いに行くの?」
「はい! お砂糖と、僕が納得できる食材を調達してきます!」
ネアが立ち上がると、窓辺で風に当たっていた風の精霊である緑が、ニカっと笑って振り返った。
「へっ、面白そうじゃねえか! なら、俺が案内してやるよ。人間の村までひとっ飛びだ! それにネアに人間たちを知ってもらういい機会だ! おい、黄も行くよな?」
土の精霊、黄に目配せをした。
黄は一瞬目を輝かせたが、すぐに何かを思い出したように伏し目がちになり言った。
「あ……ボク……いかない、かな。やっぱり」
そんな黄を見た緑は、「はぁ」と一つため息をつく。
緑はそんな黄の頭をガシガシと乱暴に、けれど優しく撫でた。
「おいおい、そんな暗い顔すんなって! ネアも一緒なんだ、楽しいお使いにしようぜ」
「う、うん……。そうだね、ネアがいるもんね」
緑に強引に背中を押され、黄はどこか不安げな表情を浮かべながらも小さく頷いた。
ネアはそんな二人の様子を不思議そうに見守っていたが、緑の案内があるのは心強い。
「あ、あの。赤さんと青さんは……」
「ええ。今のレフィーナ様を一人にするわけにはいかないわ。赤と私は主様の警護をいたします」
青が冷静に告げる。
『神獄の檻』の件もあるし、青の判断も当然だろう。
「わかりました。レフィーナ様をよろしくお願いします!」
こうして、初めてのお使いメンバーは、ネア、緑、黄の三人に決定した。
目指すは、森を抜けた先にあるという『人間の村』。
それはネアにとって、聖域からの初めての旅立ちだった。
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