1話 天魔の落とし子
初投稿です!天界を追放された天魔の少年と、森の奥で暮らす元女神様の、温かく甘甘なお話です。二人の「居場所」がどんどん広がっていく様を描けたらいいなと思います。楽しんでいただけたら嬉しいです。
少年は、必死の思いで飛翔する。
鼓膜を激しく叩く、雨音と風切り音。雷鳴轟く暗雲の中を、死に物狂いで突き進む。
少年の名は、ネア。
泥に汚れた白いシャツに短パン姿ながら、その髪だけは真珠のごとき白銀を湛えている。
彼の背中には一対の異形な翼があった。
右側には、汚れなき白銀の羽。左側には闇を溶かしたような漆黒の翼。
本来なら決して混じり合わないはずの「天使」と「悪魔」の血。その両方を引き継いだ彼の後方には、十数人の天使が迫っていた。
ネアの体内で暴れ回る「光」と「闇」の力。相反する二つの神気が肉体を内側から食い破ろうとしており、まともに魔法を行使することすらできない。
瞬間、ネアの黒い翼は一筋の光に貫かれた。
「うぐっ……!」
追手である天使の一撃が、少年の翼を貫いたのだ。
抵抗する力は残っていない。重力という名の鎖が、ネアの華奢な体を地上へと引きずり込んでいく。
「どうします!? 追いますか!?」
若い天使の一人が慌てて問いかける。
ネアを撃ち抜いたのは、白銀の甲冑を纏う四十代ほどの威厳ある男だった。銀白の髪と整えられた髭を蓄え、背には軍を束ねる大天使長としての巨大な四枚翼を携えている。
白銀の礼服を着用し、美しい銀灰色の髪を持つ威厳ある天使。彼は、落ち行く少年を眼下に見ながら言った。
「放っておけ。地上に落ちたのだ……もう……助からんだろう……」
***
天界からは「穢れた血」と罵られ、魔界からは「弱者の血」と嘲笑われた。天使と悪魔、どちらの血も引いているのに、ネアの居場所はどちらにもなかった。
両親が断罪され、孤独になったネア。誰かの役に立ちたくて、必死に主人を庇ったというのに――。
(もう一度……お父様とお母様に会いたかったな……)
薄れゆく意識の中でぼんやりとそんなことを思い、ゆっくりと瞳を閉じた。
右目に金、左目に紫。最愛の人達から受け継いだオッドアイを隠すように――。
***
地上界――大陸オルテラの中央。
人間たちが決して足を踏み入れぬ絶対不可侵の死地、『終焉の森』。
瘴気に覆われたその森の最奥、『神獄の檻』の内側だけは、嘘のように穏やかな時間が流れていた。
鏡のように空を映し出す『銀の湖』のほとりで、優雅な紅茶の香りが漂っていた。
木製のテーブルの上には一式のティーセット。木製の椅子に腰を下ろした女性が手に持ったティーカップに口を付け、一口飲みほす。そして、呟いた。
「……今日の茶葉は、少し蒸らしすぎじゃないかしら」
磁器のカップを傾けていたのは、一人の美しい女性だった。
腰まで届く艶やかな翡翠色の髪。宝石を溶かしたような美しい黄金の瞳。森の木漏れ日に透ける肌は、深窓の令嬢だけが持つ無垢な輝きを放っている。
純白の薄衣を纏い、そのドレスは豊かな胸元や腰つきを優美に包み込み、見る者を魅了する色香を放っている。
彼女は文字通り『女神』だった。
ふと、彼女が黄金の瞳を細めた。
空を覆う瘴気の霧を突き破り、ひとつの影が急速に迫ってきたからだ。
「……あら。何かしら、そんなに急いで」
急速に迫る黒い影。それは流星でも、鳥でもない。重力に引かれ、力なく墜ちてくる小さな影――人影だ。このままでは地面に叩きつけられるのは避けられない。
だが、彼女は眉一つ動かさなかった。ただ、白磁のような指先を、指揮者がタクトを振るうように優雅に空へと向けただけだ。
「――舞いなさい、風よ」
途端、意思を持った風の渦が少年の身体をふわりと包み込む。
少年は綿毛のように、音もなく湖畔の草地へと降ろされた。
「あら……随分と、可愛らしいお客さんね」
彼女はティーカップを置くと、衣擦れの音を響かせて少年のもとへと歩み寄る。しかし、その優美な顔に浮かんでいた微笑みは、少年の姿を間近で見た瞬間、スッと消え失せた。
「これは……『天使』と『悪魔』の翼……?」
草の上に横たわる少年の背には、無残に貫かれた翼があった。右には神々しい純白の翼。左には闇を固めたような漆黒の翼。本来ならば決して交わることのない「天」と「魔」が、一人の少年の背に同居している。
「……ひどい怪我。それに、神気が肉体を内側から食い破ろうとしている……」
彼女は泥で汚れることも厭わず、少年の傍らに膝をついた。少年の顔は土気色で、触れた肌は氷のように冷たい。
(……翼を貫かれた上に、これほどの力の暴走。生きているのが不思議なくらいね……)
彼女はそっと、震える少年の頬に手を添えた。掌から伝わるのは、世界から拒絶された孤独と、消え入りそうな命の鼓動。
それはまるで自分自身を見ているようだった。
「……それにしても」
彼女は、少年の泥に汚れた頬を指先で優しく拭う。少年は、長い時間を生きてきた彼女でさえ息を呑むほどに美しかった。透き通るような白銀の髪に、整った鼻梁。長い睫毛が落とす影さえも絵になる。
「……泥にまみれても隠せない気品。まるで、天界の職人が作った最高級の宝石のようね。気に入ったわ」
そう微笑んだものの、彼女の瞳には深刻な色が宿っていた。治療は一刻を争う。だが、それはあまりにも危険な賭けだった。
少年の体内では相反する『天』と『魔』の力が暴風のように吹き荒れている。そこに、彼女の持つ『第三の力』を注げば、調和をもたらすか、あるいは器が耐えきれず滅んでしまうか。
何より、今の彼女には、他人を救う余力など残されていなかった。
長い時を過ごし、以前の力を失った彼女の存在は、今や風前の灯火。この治療は、自らの消滅を早めるに等しい行為だ。
(本来なら、見捨てるのが道理……。けれど)
彼女の視線が、少年の背にある「白と黒の翼」に吸い寄せられる。
貫かれてもなお美しい翼。どちらも持ち合わせているがゆえに彼は拒絶され、こんな場所に堕とされたのだろう。
――それはまるで、かつての自分を見ているようだった。
(……ふふ。まさか最期に出会ったのが、私と同じ『世界のあぶれ者』だなんて)
どうせ消えゆく命ならば、この理不尽な世界に一矢報いるために燃やし尽くすのも、悪くはない。
「……ねえ、可愛い迷子さん。もしあなたが消滅してしまっても、私を恨まないでちょうだいね」
彼女はぽつりと呟くと、穏やかな表情で少年の胸に手を当てた。
目を閉じ、自身の根源たる神気を練り上げる。
「《神命譲渡》――世界があなたを拒むなら、私がその理を書き換えましょう」
その瞬間、世界から音が消え、静寂と光だけが二人を包み込んだ。
彼女の身体から溢れ出したのは、眩いばかりの黄金の粒子。その粒子は瞬く光となって優しく、しかし力強く、壊れかけた少年の器へと注ぎ込まれていく。
惜しげもなく注がれる命の輝きが、少年の傷を塞ぎ、暴れる神気を優しく包み込んでいく。
黄金の粒子は傷を塞ぎ、砕けた骨を繋ぎ、体内で荒れ狂う嵐を鎮めていく。まるで時間を巻き戻すかのように、死の淵にあった少年の肉体は生気を取り戻していく。
その様は、まさに奇跡と呼ぶにふさわしい光景だった。
「……あら、少し張り切りすぎたかしら」
光が収束していく中、彼女は自らの手を見て苦笑した。
少年の胸に置いたその指先が、陽炎のように透けていたからだ。世界に留まるための力が枯渇し、彼女の存在そのものが希薄になり始めていた。
(でも……これでいいわ。こんな可愛い子を救えるなら、悪くない最期よ)
消滅への恐怖はなかった。
むしろ、安らかな気持ちで、彼女は少年を見守った。
そのとき――。
ピクリ、と少年の長い睫毛が震えた。
「……う……ん……」
少年の長い睫毛が震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。
現れたのは、右に金、左に紫の、神秘的な輝きを放つオッドアイ。
「あら……瞳まで美しいだなんて……」
彼女は少年の瞳に視線を奪われ、つい見惚れてしまっていた。
少年は、自分の顔を覗き込む彼女の姿を、ぼんやりと見つめた。逆光の中で微笑む、透き通るほどに美しい女性。
痛みは消え、凍えていた体は温かな陽だまりのような力に満たされている。
――知っている。
「あぁ」と少年は確信する。
――僕はこの御方を知っている。
少年は祈った。
自分はもう死んでいて、ここはきっと天国で、目の前にいるのは――。
僕らがずっと祈り続けたあの御方――。
「……レフィーナ……様」
その一言が、世界の理を塗り替えた。
ドクンッ!!
二人の心臓が、ひとつの生命であるかのように共鳴し、跳ねる。
瞬間、少年の内側から溢れ出した純粋無垢な想いが、枯渇していた彼女の魂へと雪崩れ込んでいく。
天使と悪魔、二つの血を引く規格外の存在が、絶望の淵で捧げた、極上の祈り。
「――っ、これは……!? 神気が……溢れてくる……!?」
彼女の瞳が驚愕で見開かれた。彼女の体内に流れ込んできたのは、単なる神気ではなかった。
消えかけていた彼女の神気が、少年の『祈り』を受けて歓喜に震え、熱く脈打つ。透けていた指先に血色が戻るどころか、彼女の体内の神気を爆発的に増幅させていく。
同時に、少年の体内で相反する「光」と「闇」が、彼女の「神気」と融合する。三つの力が螺旋を描き、無限の循環を生み出していく。
「この子……私の名前を……」
ゴゴゴゴゴゴゴッ……!!
轟音と共に、森を覆っていた瘴気が一瞬で吹き飛ばされる。
湖面は虹色の光を放ち、大地からは色とりどりの花々が祝福するように咲き誇る。
二人を中心に巻き起こった光の渦は、天を突く光柱となって立ち昇った。
それはまるで、新たな神話の幕開けを告げる狼煙のようで――。
「ふふ……まさか、救うつもりが、私が救われてしまうなんてね」
光の中で、完全なる顕現を果たした彼女は、愛おしげに少年を抱きしめた。伝わってくる鼓動は力強く、二人の魂は今、断ち切ることのできない絆で結ばれた。
傷が完全に癒えた少年は、彼女の腕の中で穏やかに眠っている。
彼女はそんな少年の髪をそっと撫で、慈しむように微笑んだ。
「……ありがとう。私の、小さな救世主さん」
彼女の名は、『レフィーナ・エル・アストライア』。
三百年前、神界の政争に敗れた女神。地上へと追放され、歴史からその名を抹消された『安息と救済の女神』。
誰からも忘れ去られ、ただ孤独に消えるはずだった彼女は、今、目の前の少年のためだけの『神』として、再びその真名を世界に刻んだ。
この瞬間、孤独だった二つの魂は溶け合い、世界でたった一つの温かな場所が生まれた。
――それは、やがて世界を照らす最強の聖域となる、二人の居場所の始まりだった。
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