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キャシーの実家、ガードナー子爵家へ行く――。
その予定が立ったのは、ふとした朝の会話からだった。
「そろそろ、挨拶に行ったほうがいいのかなと思って」
キャシーが朝食のパンをちぎりながら言う。
クラウスはスープをすくう手を止めた。
「……ご家族は、本当に気にされているのか?」
「そりゃあ、急に結婚したわけだし。しかも、ほとんど書類だけで決めた結婚だもの。お父さまは……多分、気絶しないよう気をつけてるはず」
「気絶……?」
「田舎の子爵家だし、結構大事なのよね」
気絶する父親がどれだけ大袈裟なのか、クラウスには想像できない。
とはいえ、結婚に際しての挨拶を避ける気はなかった。
「分かった。仕事の休暇を取る。日帰りで行ける距離か?」
「もちろん。馬車で三時間くらい。景色が良くて、のどかで……ちょっと驚くかも」
キャシーの言い方に、クラウスはわずかに眉を寄せる。
驚くとはなんだろう。治安の悪い地域なのか、それとも独特の風習でもあるのか。
しかし――その予想はすぐに裏切られた。
ガードナー領に近づくにつれ、街道沿いの風景は見事に変わった。
高い建物はなく、広大な草原が広がり、遠くには穏やかな丘陵。
羊の群れ、風車、白い柵。
そして何より――
「……牛が多くないか?」
クラウスがつぶやくと、隣のキャシーが笑った。
「うち、酪農で有名なの。だから牛はまだ序の口よ。屋敷の近くはもっといるわ」
「もっと……?」
王都で見る牛はせいぜい市場で数頭。
しかしここでは、ひたすら牛、牛、牛。
深い黒色の毛並みの牛、まだら模様の牛、のんびり草を食む牛。
何百頭いるのか想像もつかない。
「酪農って、ここまで大規模なのか……」
「田舎子爵家だからこそよ。土地だけは広くてね。代々、酪農の名家なのよ」
キャシーが誇らしげに胸を張る。
クラウスは一瞬、その姿に目を奪われた。
王都では見ない、自然の中で育った少女特有の輝き。
その無邪気な笑顔を見ると、胸の奥が静かに温まる。
(……育った環境が目に浮かぶな)
そして馬車はガードナー子爵家の前に止まった。
屋敷は大きくも小さくもない。
白い壁に茶色の屋根、手入れされた庭には季節の花が咲いている。
そこに、快活な笑顔の男が両手を広げて立っていた。
「キャシー! よく帰ったな!」
「お父さま!」
キャシーが軽く駆け寄る。
その後ろで、父親――ガードナー子爵はクラウスを見て固まった。
「……あ、あの、そちらが、キャシーの……?」
クラウスは丁寧に頭を下げた。
「クラウス・セラフィスと申します。キャシーさんとは、家同士の事情があり、急ぎ婚姻した形ではありますが……今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」
「……!」
ガードナー子爵の顔が一瞬、青くなり――
「きょっ……」
「お父さま、深呼吸! ほら、前言ったでしょ、落ち着いてって!」
キャシーが父親の背中を叩く。
子爵は息を吸い込み、胸を押さえながら何とか踏みとどまった。
「す、すまない……まさか、こんな立派な青年だとは思わなくてな……!」
(立派……?)
クラウスは一瞬だけ苦笑した。
「どうぞ、どうぞ。遠慮なく入ってくれ」
館の中は家庭的で温もりがあふれていた。
壁には家族写真、暖炉、木の香り。
王都の貴族屋敷とは対照的な、どこか懐かしい空気だ。
そして――家の奥から香ばしい匂いが漂ってきた。
「……これは?」
「うち自慢のチーズよ。絶品だから楽しみにしてて!」
キャシーが胸を張る。
やがてテーブルには、焼きたてのチーズとパン、牛乳、サラダ、そしてチーズを使ったスープが並んだ。
クラウスは一口食べて、目を見開いた。
「……これは、すごいな」
「でしょ!」
普通のチーズよりも濃厚で、香りが深い。
コクの中にほのかな甘みがあって、食べた瞬間に心がほぐれるようだった。
「王都のどの店よりも……いや、比べられないほど美味い」
その率直な感想に、ガードナー子爵は目を丸くした。
「そ、そうか!? いやぁ……そんなに褒められると照れるな……!」
食卓は和やかに進み、笑い声が絶えない。
キャシーは子供のころの話をされて頬を赤くし、クラウスは時折それに驚きながらも楽しそうに聞いていた。
ガードナー家の温かさは、クラウスにとってどこか眩しかった。
(……家族と疎遠、か)
そうキャシーに言ってきたが、胸の奥に刺さる痛みはごまかせない。
本当に疎遠ではない。
むしろ――クラウスの家族は、王都有数の名家。
その重圧から逃げているだけなのだ。
キャシーは気づいていない。
だが、ふとした瞬間――彼女がクラウスの横顔を見る目が少しだけ鋭くなることがあった。
(クラウスって……家族の話をすると、少し目をそらす?)
キャシーの胸の奥で、小さな疑念が生まれる。
それはまだ、言葉にできないほどの小さな違和感。
けれど――確かに芽吹いた“何か”だった。
帰りの馬車の中、キャシーが柔らかな声で言った。
「クラウス、今日はありがとう」
「こちらこそ。……良い家だった」
「へへ、でしょ。田舎だけど、私は好きなの」
クラウスは窓の外の景色をゆっくり見ながらつぶやいた。
「ああ……ああいう家族も、悪くない」
その言葉には、確かに温かさがにじんでいた。
キャシーはその横顔を見つめ、ふと胸が温かくなる。
(……この人、やっぱり優しいな)
しかし同時に、ふと刺さる。
(でも……なにか隠してる。たぶん、家族のこと)
問いただすのは今ではない。
けれど――確かに心に残った。




