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白い結婚の契約書がほぼ完成し、婚姻届も提出した。
ふたりは具体的な準備へと動き始めていた。その最初のステップが――新居探しだ。
キャシーは仕事場兼自宅をそのまま残す予定で、クラウスも寮を引き払い、二人で新しい家を借りて「外向けの夫婦生活」を演出することにした。
「予算は……七万ルークくらいを想定してます」
キャシーが小さなノートをめくりながら言うと、隣を歩くクラウスがきょとんとした。
「……七万? 本気か?」
「え? 高かったですか?」
「いや……逆だ。安すぎる」
キャシーの足がぴたりと止まる。
「え、ええ〜!? だって七万ルークですよ!? この王都で七万なら、十分綺麗な物件が……!」
「無理だ」
即答だった。
「王都の中心で安全性の高い物件を探すなら、最低でも十万ルークからだ。ましてや二人で住むとなると、広さも必要だろう。七万は部屋が狭すぎる」
「うっ……それは……」
確かに、以前働いていた付与店の店主も言っていた。
“王都の家賃は高い。安全性を買うと思え”と。
だが、キャシーは元が田舎育ちで節約家だ。七万は高い方だとすら思っていた。
「じゃ、じゃあ……クラウスさんの希望は?」
「――十二万だ」
「じゅっ……じゅうに!?」
キャシーが本気でのけぞった。
「十二万って……王都でもかなり良いところですよ!?」
「そりゃあそうだ。寝室が分けられる広さが必要だろう?」
「え、えぇ……まぁ、確かに……」
白い結婚――すなわち「夫婦だけど恋愛関係には干渉しない」契約。
そこはキャシーも理解していた。
「それに、来客用のスペースも欲しい。王宮関係の人間が立ち寄ったとき、あまりに狭いと不自然に思われる」
「うっ……」
クラウスの言うことはもっともだ。
「十二万は家賃としては高いが、俺が払う。君に負担はかけない。……だから、安全で広い家に住もう」
「…………」
キャシーは口を引き結んだ。
クラウスの提案は正論だ。
正論なのだが――
(私、贅沢な暮らしに慣れてないのよね……)
七万と十二万の差は、キャシーにとっては“広さ”ではなく“生活レベル”の差だった。
それでも、迷っているとクラウスが優しい声で言った。
「無理をしなくていい。嫌なら別の案を考える」
「……いえ。クラウスさんの言う通りにしましょう」
ややぎこちなく笑うキャシー。
そして新居探しは、クラウスの提案を軸に進むことになった。
王都の大通りから少し入った、静かな高級住宅街。
クラウスが紹介した物件は――広い。
「わぁ……! リビング広っ!」
「寝室も二つある。収納も大きいし、玄関も安全だ。魔術警報も最新式だぞ」
クラウスは淡々と説明するが、キャシーは圧倒されっぱなしだった。
(……十二万って、こんな世界なのね)
「キッチンも広いぞ。キャシーは料理をするんだろう? 動線が良い方がいいだろうと思って」
「えっ……クラウスさん、料理するんですか?」
「時々な。まぁ、君の方が得意だろうが」
(……なんか、自然に“二人の生活”を考えてる……)
少しだけ胸がくすぐったくなった。
家の雰囲気は申し分ない。
しかしキャシーが一番感動したのは――
「お風呂が大きい……!」
「そこか?」
「大事ですよ!? 疲れたときにゆっくり浸かれるお風呂は贅沢です!」
クラウスが少し笑った。
「君って本当にしっかりしてるのに、変なところで子どもみたいに目を輝かせるな」
「なっ……子どもじゃありません!」
そのやり取りに、不思議な温かさが生まれる。
物件がほぼ決まり、次は家具と内装選びだ。
「まずはカーテンだな。寝室もリビングも必要だ」
「私はピンクがいいです。落ち着く色だし、優しい雰囲気になります」
「俺は青だな。寝室は落ち着く色の方がいい」
「ピンクも落ち着きます!」
「青の方が落ち着く」
「ピンクです!」
「青だ」
「む〜っ!」
まさかカーテンでこんなに白熱するとは、店員も驚きだった。
「お客様……カーテンでしたら、ベージュも人気ですよ?」
「「ベージュ……?」」
ふたりが同時に振り向き、それから同時に言った。
「「まあ、ベージュでもいいか……」」
店員がほっと安堵したような顔をした。
「価値観をすり合わせるとは、こういうことだろう?」
クラウスが微笑む。
その笑みが、胸にぽっと温かい灯をともす。
(……この人となら、案外うまくやっていけるのかも)
「最後に生活費の話だ」
「はい」
「家賃は俺が負担する。君は食費を頼みたい」
「わかりました。食費なら私がやります。節約もできますし」
「ありがたい。料理も任せるが……俺もできる時は手伝う」
「えっ、手伝ってくれるんですか?」
「当たり前だろう。共に暮らすんだ。全部を君に押しつけるつもりはない」
(……やっぱりこの人、誠実だ)
キャシーは自然と微笑んでいた。
家賃十二万の広い物件。
ベージュのカーテン。
家賃はクラウス、食費はキャシー。
契約上の夫婦としての生活が、着実に形を帯びていく。
ふたりは玄関の前で立ち止まり、軽くうなずき合う。
「これで……準備は整ったな」
「はい。これから、よろしくお願いします……クラウスさん」
「こちらこそ。キャシー」
小さく交わされた笑顔は、まだ恋ではない。
けれど、優しい相性のようなものが確かに芽生え始めていた。




