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王太子襲撃事件から一夜。キャシーは王宮の一室――客間としては破格に広い、ほとんど“姫宮”のような部屋に留め置かれていた。
厚手のカーテン、ふかふかの絨毯、香草の香りのする寝具。何もかもが上質で、どこか現実離れしている。
(……帰りたいなあ)
朝陽が差し込む窓辺で、キャシーはぽつりと呟いた。
昨夜、王妃と宰相から直接「当面は王宮に滞在してほしい」と頭を下げられたのだ。
『聖女様の安全確保が何より大事です』
そう言われてしまえば断れなかった。
――でも、私は“聖女”なんかじゃない。
(ただ魔法を使っただけなのに。回復魔法が珍しいのは分かるけど……)
胸の奥に、不安だけがどんどん積もっていく。
ノックもなく扉が開き、侍女が三名、列を成して入ってきた。
「聖女様、本日の朝食をお持ちいたしました」
「身支度の用意も整っております。髪はどうお結いしましょう?」
「本日の予定は、侍従長付きの執務官による“回復魔法の再現実験”となっております」
「え、え、待ってください! 一度に喋らないで!!」
キャシーが両手を振ると、三人の侍女は見事にぴたりと同時に口を閉じた。
(こ、怖い……プロすぎる……)
王宮の侍女の仕事っぷりは、細かさも、丁寧さも、圧倒的だった。
キャシーは慣れない距離感にそわそわしながらパンを口に運ぶ。
(美味しいけど……なんていうか……)
落ち着かない。
誰もが丁寧すぎて、まるで自分が別の人間になってしまったようだ。
「聖女様、ドレスのお直しが完了しております。本日はこちらを」
「え、これ……昼間から着るんですか?」
「ええ。“聖女様らしい装い”をとの王妃様のご意向でございます」
(聖女様……聖女様……)
自分の名前を呼ばれなくなって、三日目。
その響きに怖さを覚え始めていた。
用意されたドレスに袖を通し、侍女に導かれて大廊下を歩く。向かう先は、王宮騎士団の詰所付近にある訓練場だ。
(クラウスさんに……会えるかな)
期待と不安で胸がぎゅっとなる。
しかし――
「……あ」
廊下の先に、第二騎士団の団員が数名見えた。見知った顔ばかりだ。
キャシーはほっとして声をかけようとした。
「あ、あの――」
しかし彼らは、揃って歩みを止めた。
そして頭を下げる。
「聖女様」
その声は、いつもの朗らかさとはまったく違う。
敬意と、畏れが入り混じった、固い響き。
「聖女様が通られます。道を開けろ」
「っ……そんな、普通に……!」
困って戸惑うキャシーをよそに、騎士たちは壁際へぴたりと寄る。距離はまるで“触れてはいけない存在”のようだった。
(いつもみたいに、笑ってくれない……)
胸がぎゅうっと縮み、視界が揺れる。
(クラウスさんにも……こう見えるのかな)
そんな不安が頭をかすめた。
昨日、彼は抱きしめるように支えてくれた。けれど、あれは緊急時だったからこそ――。
(職務中のクラウスさんは……近づけない立場だし)
距離を置かれた現実が、ひどく寂しかった。
やがて訓練場に着く。
そこには、第一・第二騎士団の面々が整列し、王宮魔術士、執務官たちも待機していた。
キャシーが入ると、その場にいた全員が一斉にひざまずく。
「聖女様に、敬礼!」
「っ……そんな、頭を上げてください!」
広すぎる敬意が、逆に胸を締めつける。
視線の海に溺れそうだった。
(クラウスさん……)
探すと、列の端に彼がいた。
第二団隊長としての装い。顔は凍ったように無表情。職務中のそれ。
キャシーの胸がどくん、と跳ねた。
――目が合った。
けれど彼は、一瞬だけまばたきし、何もなかったように姿勢を正す。
(……そっか。そうだよね)
彼は王宮騎士団の隊長。
“聖女”への礼儀を欠けば問題になる。
分かっている、分かっているのに。
涙がにじみそうになる。
執務官が恭しく近づき、書類を差し出す。
「聖女様。本日は先日の奇跡のご様子を、再度ご確認させていただきたく――」
「待て」
鋭い声が響いた。
クラウスだった。
「治癒魔法を強制するつもりか。聖女様は一晩の拘束で疲労している。再現を求めるのは時期尚早だ」
訓練場の空気がぴりりと張り詰める。
「だ、隊長……! しかし王妃陛下のご指示が――」
「だからと言って、無体な要求を通す理由にはならん」
冷え切った声。
“氷の騎士”と呼ばれる所以が、そのまま形になったような眼差し。
(クラウスさん……)
誰よりも距離を取らなきゃいけない立場の彼が、
誰よりも強く、キャシーを守ろうとしている――。
胸が温かくなり、同時に締めつけられる。
(会いたい……声が聞きたい……)
(でも、近づけないんだ)
聖女として扱われるほど、クラウスとの距離は広がる。
皮肉にも、彼を救いたいと思った結果が、二人を遠ざけてしまった。
その後、再現実験は中止となったものの、キャシーはずっと王宮内で“保護”され続けた。
会話は、侍女や執務官の丁寧すぎる言葉ばかり。
騎士たちは皆、壁のように距離を取る。
クラウスも職務中は近づけない。
夕食も一人。
寝るときも、一人。
(……クラウスさん、帰ってくるかな)
窓の外を眺めても、彼の姿は見えない。
(会えないの……こんなに……寂しいんだ)
胸の奥が、じんわり痛む。
彼と過ごした新居の日々が、こんなにも温かくて優しかったなんて――今になって気づく。
回復魔法を使ったあの日から、世界が変わってしまった。
(私のせいで……クラウスさんにも負担がかかってるかもしれないのに……)
「……会いたいよ」
ぽつりと、声が漏れた。
しかし返事はない。
豪華な部屋は静まり返っているだけだった。
深夜。
眠れずにベッドから出たキャシーは、窓辺に寄り、小さくため息をついた。
(聖女なんて……違う。私は、ただの付与師で……)
あのとき助けたのは、本当にただの“反射”だった。
けれど一度でも“聖女”と呼ばれたら、もう元には戻れない。
侍女たちが敬語で距離を置くたびに、
騎士たちが膝をつくたびに、
自分がどんどん“キャシー”じゃなくなっていく気がした。
(クラウスさん……どう思ってるんだろう)
問いかけても答えはない。
そのとき――
外の回廊から、小さな足音が聞こえた。
「……?」
近づいてくる。
軽い、静かな、けれど落ち着いた足音。
キャシーは思わず扉へ向かう。
心臓が高鳴る。
(まさか――)
扉の向こうに、彼がいる気がした。
会いたい。
今すぐにでも。
でも、扉の取っ手に触れたその瞬間――
「聖女様。お休みのところ失礼いたします」
現れたのは、執務官だった。
胸の奥で、期待がしぼんだ。
「明日、王妃陛下とのお話し合いがございます。ご準備を」
「……はい」
扉が閉まる。
静寂が落ちた。
(……会えないんだ)
その事実が、胸に深く沈んだ。




