16
王宮の大広間は、きらめくシャンデリアと鮮やかな装花に彩られ、夜会の準備を整えていた。重厚な音楽が流れ、来賓たちはゆるやかに談笑しながら開宴を待っている。
キャシーはクラウスの横に立ち、緊張して胸の前で手をそっと組んでいた。
「大丈夫だ。俺が隣にいる」
クラウスが小さく囁く。その穏やかな声だけで、全身がふっと楽になる。
「ありがとう。……落ち着いた」
「無理に笑わなくていい。自然でいろ」
「うん」
クラウスは相変わらず仏頂面だったが、その声には優しさがあった。
――この人、本当に変わったな。
そんなことを思いながら、出席者に軽く会釈を返す。貴族たちの視線は何となくキャシーに集まっている。噂になったドレスのこともあるのだろう。
やがて王家の紋章旗が掲げられ、開宴を告げる太鼓が鳴り響いた。
「王太子殿下、ご入場!」
盛大なアナウンスとともに、王太子ライナルトが姿を現す。均整の取れた体躯に、柔らかな金髪。穏やかな笑みを浮かべ、周囲に気さくに挨拶を返していた。
――その瞬間、空気が変わった。
耳の奥で、ひゅ、と何かが切り裂くような音がした。
悲鳴が上がった。
黒い影が、王太子へ向かって一気に飛び込んだ。
クラウスが反射的にキャシーの肩を抱き寄せる。
「下がれ!」
鋭い声とともに、一瞬で剣を抜く高位騎士たち。しかし影はあまりにも速く、白刃の間をすり抜ける。
「まさか――刺客!?」
王妃の悲鳴が響いた。王太子の護衛二名が間に立ちはだかる。しかし影は軽やかに剣を弾き、王太子の胸元へ短剣を突き立てる。
「殿下ッ!!」
赤い飛沫が舞い、大広間が凍りついた。
王太子は膝から崩れ落ちる。胸元の深い傷から血が溢れ出し、床を赤く染めていく。
(……ダメだ)
(このままだと――死んでしまう)
その瞬間、キャシーの足が勝手に前へ走り出していた。
クラウスが思わず手を伸ばす。
「キャシー!! 危険だ!」
「大丈夫、行く……!」
自分でも信じられない声だった。震えも恐怖もあったのに、それ以上に身体が動いていた。
刺客はすでに周囲の騎士に押さえつけられている。
キャシーは血溜まりに膝をつき、震える王太子の胸に手をかざした。
――どうして動けたのか、分からない。
ただ、頭の奥で誰かが叫んでいた。
守らなきゃ。
助けなきゃ。
「殿下、意識を……!」
「血が――止まらない!」
騎士たちの焦りが耳に刺さる。キャシーは拳を握りしめ、深く息を吸った。
(お願い……!)
胸の奥にある魔力が、ふつふつと熱を帯びる。
回復魔法。
ずっと隠していた、誰にも見せてこなかった力。
指先が光る。
白光が、花びらのように広がった。
「……っ!」
あまりの眩しさに視界が白に染まる。
周囲の騎士たちが息を呑む音が聞こえた。
光は王太子の傷口に吸い込まれ、深くえぐれた肉がみるみる元に戻っていく。
血の流れが止まり、青白かった王太子の頬に少しずつ赤みが戻った。
「なん……だ……これは……?」
「傷が……塞がっていく……!」
「まさか……回復魔法……!? この規模を、一人で……?」
ざわめきが、波紋のように広がっていく。
しかしキャシーは周囲の声を聞いていなかった。
(まだ……もう少し……!)
魔力がどんどん流れ出し、手足がしびれていく。だが、止める気はさらさらなかった。
王太子の呼吸が安定し、胸が規則正しく上下し始めたとき――
キャシーは糸が切れたようにその場に倒れ込んだ。
「キャシー!」
抱きとめたのはクラウスだった。
腕の中に引き寄せ、強張った声で叫ぶ。
「無茶をするな……!」
「だって……放っておけなかった……」
息が荒い。だが王太子は助かった。それだけで十分だった。
沈黙に包まれていた大広間に、誰かの声が震えながら落ちた。
「……聖女だ」
騎士のひとりが呟く。
そのひと言は、あまりにも重すぎた。
「聖女……?」
「あの治癒光……記録にある“聖女の祝福”そのものだ!」
「王太子の致命傷を数秒で……!」
ざわめきは一気に広がり、まるで巨人の足音のように大広間を満たしていく。
「聖女様……?」
「この国を救う――本物の……!」
「伝承の……!」
視線が、いっせいにキャシーへ向けられた。畏敬と、驚愕と、祈りにも似た眼差しが降り注ぐ。
キャシーは戸惑い、震え、胸に抱き寄せるクラウスを見上げた。
「わ、私……そんなつもりじゃ……」
「分かってる。お前は、ただ助けたかっただけだ」
クラウスの手が、キャシーの後頭部にそっと添えられる。
その温度だけが確かだった。
「クラウスさん……」
「大丈夫だ。何があっても、俺が守る」
騎士たちは膝をつき、王妃でさえ涙を流しながらキャシーに深く頭を下げた。
その光景は、キャシーから“普通の人生”という概念を一瞬で奪った。
――この瞬間、彼女は“聖女”と呼ばれる存在になった。




