14
居酒屋を出たふたりを夜風が包んだ。
酔いの残る頬に冷たい空気が心地よくて、キャシーは深く息を吸い込む。
「……騒がしかったな」
クラウスが苦笑する。
その声は落ち着いているのに、どこかぎこちない。
さっきの嫉妬を思い出しているのかもしれない。
「でも楽しかったよ。みんな優しかったし」
「……俺は、あんまり楽しむ余裕がなかった」
「え?」
クラウスは少し俯き、キャシーの方を見られずにいる。
「……君のことばかり見てたから」
その一言がふっと胸に落ちた。
温かくて、少し切なくて、足元が浮くような感覚が広がる。
「クラウス……」
もう、誤魔化す必要なんてどこにもなかった。
キャシーも彼を気にしていたし、あの視線が嬉しかった。
それなのに、ずっと“契約”に守られた距離のまま、素直になれなかった。
彼も同じだったのだと思う。
「もう少し、歩かないか」
「うん」
ふたりは静かな石畳を並んで歩く。
月の光が屋根を照らし、家々の窓から灯りが漏れ、夜はやわらかい気配をまとっていた。
ふと、クラウスの指がキャシーの指に触れる。
それだけで脈が跳ねてしまう。
離れようとして――離れられなかった。
クラウスの指がそっと絡まる。
逃げ道をふさぐようにではなく、確かめるように。
「……キャシー」
「……なに?」
「今日は離したくない」
言われた瞬間、心臓が熱くなる。
それなのに、不思議と怖くなかった。
ずっと、こうなるのをどこかで望んでいたから。
「……うん」
自分の声が少し震えて聞こえた。
クラウスの目がわずかに揺れ、次の瞬間、強く抱き寄せられた。
夜の静けさの中で、ふたりの影が重なる。
抱きしめられた肩が熱くて、鼓動が近くて、もう何も考えられなかった。
「キャシー……」
名前を呼ばれるたびに、体の奥まで痺れるように甘くなる。
唇が触れた瞬間、足から力が抜けそうになる。
キスはゆっくりで、優しかったのに、触れれば触れるほど熱が上がっていく。
“契約”なんて言葉がどこかに消えてしまう。
互いに惹かれていることは、とっくに知っていた。
けれど今までは怖くて、言葉にできなくて……ただ距離を置いて誤魔化していた。
今夜は、もうその必要がなかった。
「……キャシー、嫌じゃないか?」
「嫌なわけ、ないよ。私……」
胸に手を置くと、クラウスの鼓動が早くなっていた。
「……クラウスといたいって、ずっと思ってた」
その言葉に、彼の呼吸が止まり――
次の瞬間、強く抱き寄せられる。
部屋に戻るまでの道のりは、ほとんど覚えていなかった。
ただ、手を離さずにいたことだけは確かだ。
扉を閉めると、クラウスの表情が揺れ、葛藤が走る。
「……本当に、いいんだな」
「うん。あなたがいいから」
それだけで十分だった。
ふたりは静かに距離を失い、夜はゆっくりと深まっていった。
――はじめて触れる温度。
はじめて知る、名前では呼べない甘さ。
契約では説明できない感情が、溶けるように溢れ出す。
言葉より先に、身体が正直になっていく。
その夜、ふたりははじめて素直になれた。
***
翌朝、柔らかな光がカーテン越しに差し込む。
キャシーは瞬きをし、昨日の出来事が一気に蘇って顔が熱くなる。
(わ、私……クラウスと……!)
ベッドの横では、クラウスが目を覚ましかけていた。
寝起きなのに、彼の表情はどこか優しい。
「……おはよう、キャシー」
低い声が胸に響き、キャシーは慌てて布団に潜り込む。
「お、おはよう……」
「……そんなに恥ずかしいか?」
「は、恥ずかしいよ! 普通に!」
クラウスは小さく笑った。
いつもの彼よりずっと柔らかい。
「俺は……後悔してない。むしろ……嬉しかった」
その言葉に、キャシーの心臓が跳ねる。
「……私も、後悔なんてないよ」
静かな朝の光の中で、ふたりは目を合わせた。
気まずさもあったけれど、それ以上に甘さが勝っていた。
――“契約結婚”の話。
互いに触れないままの問題はまだ残っている。
けれど、昨夜のぬくもりは、それが“義務”ではなく
“ふたりが選ぶ未来”として語られるべきだと、静かに告げていた。




