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春の風が、王都ラディアの大通りを軽やかに吹き抜けていた。
露店には色とりどりの果物、焼き菓子、魔具の小物が並び、昼下がりの柔らかな陽射しの中で、人々はゆったりとした時間を楽しんでいる。
「……あ、いい天気。今日は魔石の買い付けも順調に終わったし、早めに帰って夕飯でも作ろうかな」
淡い栗色の髪を揺らしながら歩くキャシー・ガードナーは、肩にかけた革の鞄を押さえた。
中には仕事で使う魔石がぎっしり――といっても、安物の石ばかり。
彼女は付与師だが、客の依頼を丁寧にこなしつつも、自分の正体を“盛らない”よういつも気を遣っている。
(だって、本気で魔法を込めたら目立つし……。そうなったら、また変な縁談持ちかけられるのがオチだし)
ため息をひとつ。
田舎子爵の娘であるキャシーに、それなりに期待を寄せてくれる家もある。
けれど、キャシーが望むのは静かで穏やかな生活――政略結婚など、心底ゴメンだった。
「さて……今日は肉、買っちゃおうかな。ちょっと高いけど」
そんな小さな贅沢を考えていた、その時。
――ダッ!
人混みの向こうから、焦ったような足音が響いた。
次の瞬間、キャシーの視界の端を黒い影が横切った。
「うわっ!?」
そして。
「そこの女! どけぇぇ!」
「なっ……!」
鞄をひったくられたのを、理解するまで一瞬だった。
黒装束の男がキャシーの腕から鞄を乱暴に引き剥がし、そのまま全速力で駆け出す。
(……あ。やられた)
呆然としている暇はなかった。
キャシーは反射的に、自分の腰に結ばれたポーチを開け、別の小さな布袋を取り出した。
その中には、安価な魔石がいくつも入っている。
――攻撃魔法は得意じゃないけど、これくらいなら。
「ちょっと止まりなさいってばぁぁ!!」
振りかぶって袋をぶん投げた。
スパンッ!
袋が男の背中に命中。
バキッッ!
キャシーの本命の鞄男の手から落ちて、魔石が地面に落ちて散乱した。
「ええぇぇぇぇ!? 魔石がぁ!?」
どうやら落下の衝撃で留め具が砕けたようだ。
「あぁぁ……っ、せっかく補修したばかりなのに……!」
魔石が散らばり、通行人が避けるように足を止める。
ひったくり犯は、袋の衝撃でよろけつつも、まだ走って逃げていた。
キャシーが呆然としていると――
「そこのお前、止まれ!」
冷たい声が響いた。
次の瞬間、銀色の影が通りを駆け抜けた。
(……え?)
刹那の出来事だった。
銀髪の青年が人混みをすり抜け、ひったくり犯を追っていく。その動きは、まるで風が形を持ったように滑らかで、速い。
「な、なにあの人……速っ……!」
キャシーが見ている前で、青年はひったくり犯の足を払い、あっさりと地面に押さえつけた。
「っぎゃあ!?」
「暴れるな。これ以上罪を重ねる気か」
青年の声は淡々としているのに、妙な迫力があった。
周囲からどよめきが起きる。
「王宮騎士団じゃない?」「あれ、第二団の隊長じゃ……」「氷の騎士……?」
キャシーは耳を疑った。
(こ、氷の騎士……!? あの、むちゃくちゃ怖いと噂の!?)
噂はさんざん聞いている。
「冷酷無慈悲」「笑わない」「女を寄せ付けない」と悪評めいたものばかり。
まさかそんな人が、こんなところでひったくり犯を捕まえているとは。
青年――クラウス・セラフィスは、騒ぎを見計らい衛兵に犯人を引き渡すと、ゆっくりとキャシーのほうに歩いてきた。
(うわ、くる……どうしよう……)
逃げるべきか悩む間に、すでに目の前に立っていた。
「……お前の鞄だな?」
低く落ち着いた声。
ただ、それは噂で聞いていた“冷酷”という印象とは違い、柔らかささえ感じた。
「は、はい……あの、助けてくださってありがとうございます!」
キャシーが深々と頭を下げると、クラウスは小さく首を振った。
「礼はいらん。怪我は?」
「いえ、大丈夫です! ちょっと鞄が崩壊しただけで……」
視線を向けると、仕切りも留め具も壊れて、魔石たちが哀れに転がっていた。
クラウスはしゃがみ込み、落ちた魔石をひとつひとつ拾い始めた。
「えっ、あ、あの、騎士様にそんなことさせられません!」
「俺が勝手にやっている」
冷たいようでいて、実は優しい言葉に聞こえる。
その落差にキャシーは少し戸惑った。
「家は近いか?」
「え? あ、はい……歩いて五分ほどですが」
「……壊れた鞄では持ち帰るのも大変だ。送る」
きっぱり。
断る余地がないほど自然な流れだった。
「えっ、その……ご迷惑じゃ……」
「さっき俺はお前の魔石を踏みかけた。迷惑は互い様だろう」
(な、何この人……怖いって聞いてたのに、普通に優しい……!)
キャシーは心臓が少し早くなるのを感じながら、こくりと頷いた。
「……あの、本当にありがとうございます。助かります」
クラウスは無言で、しかしどこか穏やかな目つきで頷いた。
二人は散らばった魔石を袋に詰め終えると、連れ立ってキャシーの家へと向かった。
春風が再び二人の間を通り抜けていく。
ひったくり事件――
それは偶然でありながら、二人にとって運命の第一歩だった。




