伍、かわひらこの君
「はあー、美味しかった。ありがとう、プランチー」
「いえ、こちらこそ…助げでけでありがとうございます…」
「いやいや、大歯鮫三匹も相手に一人で闘うなんて、大したもんだよ」
大歯鮫との死闘から半刻後、真珠色の髪の青年はプランチーの小屋で水を一杯貰っていた。
というか、水中にいるのに水を飲むというのは一体どういう状態なのかと思うが。
部屋の奥では蓮花が眠っている寝台の横で、リンキアが寝かされており、その傍でセルトナドアが心配そうに顔を覗き込んでいる。
この青年、年齢は同い年くらいに見えるが、何とも中性的な顔立ちをしている。身なりも、色が少なく質素な装いではあったが、プランチーの着ている衣服よりかは手入れが行き届いているように見える。
(まるで紋白蝶のようだな)
真珠色の生糸のような長い髪と、合わせたかのように衣服も全体的に白い。
不躾にも上から下まで眺めていれば、青年の茜色の瞳がこちらを向いた。
慌てて目を逸らすが、既に遅かったようだ。
「それにしても、陸の人間が何でこんなところに?君、さっき大歯鮫と闘っていたよね?」
「…あ……えっと、それは…」
あまり自分の事を安易に喋るのもよくないのかもしれない。
先程セルトナドアから向けられた目線で、海の人間から陸の人間がどれだけ嫌がられているのかは、少しわかったので。
とは言え、この青年からはそのような気配は感じないし、そもそも恐らくは見た目で陸の人間だという事がばれている。
答えに窮していると、奥の方でリンキアの看病をしていたセルトナドアが「そうだ!」と言いながら音を立ててその場に立ち上がった。
「そうだ!プランチー!虎族がこの場に居るとは一体全体どったことだ!」
「セルトナドアさん…それは…」
「海の中さ虎族がいるなんで言語道断!見つけだっぎゃ即憲兵さ突き出すて捕縛だ!」
セルトナドアは当初出会った時よりも、激しい憎悪を込めた眼でこちらに人差し指を向けてきた。
「落ち着いでげれ…」
「汚い虎族のガキに海の中さ荒らされるってだけでも勘弁なんねえ。今すぐにでも憲兵さ突き出すだ!」
プランチーの言葉も耳に届いていない様子で、セルトナドアは髪の色と同じくらい顔を真っ赤にしてまさに怒り心頭だった。
怒り心頭のまま、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせ掛けてくる。
海の中の人間が陸の人間にどのような思いを抱いているのかは知ったことではないが、見ず知らずの人間にそんな言い方をされる憶えはない。
ほぼ初対面の人間にそんな事を言われれば、誰だって気分は悪くなる。俺も段々と腹が立ってきた。
「…そこまで言う必要ないんじゃないですか、俺と貴方は初対面ですよ」
「ンな事ぁ関係ねぇ!おめが虎族ってだけでおらは虫唾が走んだ!触りたいどすらも思わねが、おらがそのまま憲兵さ突き出すでやっが?!」
「……」
あまりの会話の成り立たなさに俺は開けた口を閉ざしてしまう、最早口を開くことすら億劫だ。
これは対話にならない、この小父さんは一方的に陸の人間を敵視しているようだ。
黙り込んだ流司郎を見て気分を良くした様子のセルトナドアは、そのままずんずんとこちらに歩いてくる。
「セルトナドアさん!」
「プランチー、おめが優すい子ってごどはわがるが、手を伸ばす人間は区別すねばまいね」
「……区別って」
「何か言うたか、口答えする権利などねぞ。おめがここさいるだけで立派な侵入者なんだ」
セルトナドアの敵意真っ直ぐな眼がこちらに向き、そのまま右手が流司郎の腕を掴もうと伸びてくる。
「父さん!!」
そんな時、部屋の奥からリンキアの声が響いた。
「リ、リンキア起きだが!」
その声にセルトナドアははっと振り返り、今まで憎悪むき出しで流司郎の腕を掴もうとしていたのが嘘だったかのように、転げるようにしてリンキアの元へと駆けて行った。
まるで変わり身の術かのような変貌ぶりに半目を向ければ、寝台から身体を起こしたリンキアは、先程のセルトナドアの怒り心頭具合を優に超えた般若のような表情で実の父親の顔を睨み付けていた。
「ど、どうすた…リンキア、調子悪いが…」
「父さん」
「そ、そうだよな、起きたばっかだすな、どこか具合悪いとこはねが?水飲むか?」
「父さん!!」
おろおろと息子の周りで手をうろつかせる父親だったが、息子の叫ぶような声でぴたりと動きを止めた。
リンキアは薄浅葱の瞳を細めた。
「謝ってください」
「…え?」
「流司郎さんに、謝ってください!」
リンキアの言葉にセルトナドアは目を白黒とさせる。
「あ、謝るって…何をだ? …悪いのはあの虎族だ、海の中さ入ってぎてらんだはんで」
「…虎族とか、海の中とか関係ありません!流司郎さんは、身を挺して僕を護ってくださった命の恩人です!その人に対して、父さんは…なんという態度を取ったのですか!!」
怒りと共に泣き出してしまいそうな程張り詰めた瞳をして、リンキアは叫ぶようにそう言っていた。
思わず、セルトナドアは喉から出そうとした言葉を呑み込む。
「流司郎さんがあそこで助けに来て下さらなければ、僕は今頃ここにはいません…彼は僕の命を助けてくれたんです…」
「……で、でもな」
「どこの人間だとか、関係ありません。父さんの言葉を借りるのであれば、陸の人間である流司郎さんが海の人間である僕を問答無用で助けようとしてくれた、そちらの方が今の父さんより数倍も…数十倍も格好いいですよ…」
「……」
リンキアの大きな瞳から零れ落ちた涙と、その言葉を受けて、セルトナドアはぴたりと背筋を伸ばした。
そうして、くるりとこちらに振り向き、その場に膝を着き、額が床に擦り付きそうな程頭を下げた。
「すまねがっだ!! 息子の言葉でこの身を思い知らされるなど親として恥ずかしい事この上ねえが…リンキアの言葉通りだ…許してげれどは言わんが、本当にすまねがっだ…リンキアだけは許してやっでげれ…!」
今更そんなに首を垂れたところで何かが変わるわけではない。
手のひらを反すように首を垂れた様子にはあまり好感は持てないし、そもそも最初の発言から既に好感度は最底辺に居たのでこの小父さんに対してどうと思う事ももう無かったが。
「…そもそも、リンキア君は俺に対して何も暴言は吐いていないので気にしていませんよ」
奥でこちらを見ながら必死に頭を下げているリンキアに免じて、ここはこれ以上は何も言わないで置いた。
「……まあ、セルトナドアさん。顔さ上げて」
「プランチー…すまねえ、本当に」
頭を床に擦り付けたままのセルトナドアの肩に手を置いて、プランチーが顔を上げさせた。
「リンキアの様子はおらが見てっがら、セルトナドアさんは周辺の偵察さしでぐんねえが?」
「お、おらが…?」
「んだ。今おらもリンキアも出られねえし、あの大歯鮫が次いつ来るがわがんねえ。また来たら直ぐ呼んでげれ」
「……わがっだ」
そう頼まれたセルトナドアは、そのまま小屋の外へと出て行った。
***
セルトナドアが小屋からいなくなり、残った面々は脚の長いテーブルというらしい机に集まり、それぞれ椅子に腰をかけて顔を突き合わせていた。
リンキアはその後も頻りに謝ってきていたが、俺が「もう大丈夫だよ、気にしてないから」と言うと安心したのかそのまま眠ってしまった。
「いやーホント、肝が据わってるよね君」
テーブルに頬杖を突きながらこちらをキラキラしい眼で見てくる青年は、興味深そうに俺の事を眺めていた。
「俺も陸の人間に会ったのは、記憶しているうえでは初めてなんだけど。こんなに堂々としているとは思わなかったよ。そもそも君はどうやってここに来たんだい?」
青年は聞きたいことがたくさんある様子で、茜色の瞳を輝かせてこちらに身を乗り出してくる。
「いや、えっと……」
「あ、安心して。俺はさっきの小父さんみたいに、君たちについて酷い差別意識を持っている人間ではないからさ、どちらかと言えば興味ある方だしね!」
「…はあ」
プランチーと似た匂いを感じる。
そのプランチーは、俺の隣に座って俺の顔と青年の顔を交互に見比べながらおずおずと声を発する。
「あの…そもそもなんですけど…」
「ん?何だい、プランチー」
随分と人懐っこい奴である、一度会っただけの人間にここまで接近できるのは中々出来た技ではない。悪い言い方をすれば馴れ馴れしい。
「貴方の名前…聞いていないのですが…」
「ああ、名前ね」
そろりそろりと聞くが、その質問は御尤もである。
まるで忘れていたかのように呟いた青年は、そのまま少し間を置いてからすっと人差し指を上げた。
「俺の名前は、クレイオ。導師見習いでね、修行の旅をしているんだけど、このヒトデ村に立ち寄った時に村人が『大歯鮫が』と言っているのが聞こえてね。気になったから来ちゃったってわけさ」
馴れ馴れしいに付け加えて胡散臭い奴なのかもしれない。
導師だのなんだのと聞き慣れない単語がまだあったが、その前に全体的に軽々しい口調が気になる。
「あー導師様なんだすか…成程、それでさっき…」
「そう、さっきそこの…えっと、流司郎君?がやられそうになっていたじゃない、危ない!って思って、急いで来たってわけ」
「…俺じゃなくてリンキアじゃないか?」
「まあ君もリンキアもどっちもじゃない、俺は催眠系の導師だからね、多分あの大歯鮫は今錯乱中ってところかな」
導師と言うのは巫女様とか、呪術使いみたいなもののことを指すのだろうか。
クレイオは天井を指したままくるくると所在なさげに円を描いていた人差し指を、そのままするりと下ろしてにっこりと人の良い笑みを浮かべた。
「じゃあ俺の話はこれで終わり。俺は自分の事喋ったからさ、次は君の事が知りたいな」
「…え」
「俺だけちゃんと喋ったのに、言い損じゃないか。ここで会ったのも何かの縁だしさ、陸の事とか教えてよ」
有無を言わせない表情だった。
どこか中性的な、女性とも男性とも取れる均整の取れた顔立ちをしているクレイオだったが、退路を阻むかのような物言いからはどこか強い覇気を感じた。
そのまま両肘をテーブルについて手を組み、顎をその上に乗せてにこにこと笑顔を向けるその底知れなさが、逆に恐怖すら感じてしまう程だった。
(何なんだ、こいつ……)
得体のしれない何かに目を付けられてしまった。そんな気すらしていた。