肆、大歯鮫
≪登場人物≫
瀬川流司郎:陸の人間、十七歳。潮の流れを読むことが出来る。海に落ちた後、プランチーに助けられた。
胡蓮花:陸の人間、十九歳。流司郎の幼馴染で姉のような存在。一緒に流司郎と海に落ちた、昏睡中。
プランチー:海の人間。十にも満たない子供の見た目をしている。海に落ちた流司郎達を助けてくれた。
セルトナドア:海の人間。五十路ほどの小父さん、急に血相を変えてプランチーの所へ転がり込んできた。
リンキア:大歯鮫に連れて行かれたというセルトナドアの息子。プランチーよりは年上の様子。
≪用語≫
竜人:海に住む人間が自分たちを指して言う呼称。
虎族:陸に住む人間に対し、竜人が使う呼称。蔑称の意味も持つ。
竜王:海の世界を統べる王様。竜宮城と言う場所に住んでいるようだが、誰も姿を見たことは無い。
扉から外に出て行ったプランチーとセルトナドアの様子を、流司郎は小屋の窓を開けて見送った。
陸上と変わらず息を吸う事はできるのだが、自分たちが現在いるのは水の中という不思議な状態の為、陸の上で普通通りに動こうとしても水の抵抗があり、上手く歩こうとしても浮いてしまうため上手に動けない。
窓を開けるのですら一苦労だった。
「……何なんだ、この世界は」
先程ある程度この世界の事について説明は受けたとはいえ、まだここが夢の中の世界なのではないかとすら思う。
そもそも、俺はなぜ水の中で普通に息が出来ているのだろうか、気を失う前にプランチーが何か言っていた気がするが、それどころではなかったのであまり覚えていない。
「ううっ……」
「蓮花!」
後ろで蓮花の小さい呻き声が聞こえた。
慌てて駆け寄れば、蓮花は苦しそうに顔を歪めて汗を大量に搔いていた。
どうにも、まだ目覚める気配はない。
「…すまない、蓮花。大丈夫だから……」
安心させるために声を掛けるしか、今の俺には出来なかった。
息はしているし、呻いたという事はまだ意識はあるという事ではあるが、それにしてもずっと目が覚めない。陸の上の爺ちゃんや、村も大丈夫なのだろうか、まず、海の中に入ってどれだけの時間が経ったのか、数時間程度なのか一日なのか、はたまた数日経っているのかすらわからない。
結局は、自分の力ではどうしようもないので、プランチーの言っていたように竜王とやらに会わないと話は進まないのだろう。
それにしても、先程から変な潮の流れを感じる。
停滞するようにゆっくりと水が自分の周りを流れているのだが、それに交じって時折強い水の流れが混ざっているのだ。どうにも異質なその海流に、流司郎は眉を顰めた。
それはまるで、水位が崖の真下まで迫っていたあの時と、そうして過去に不思議な少女と出会ったあの日の海と同じ流れをしているように見えたからだ。
「プランチー!あそこだ!!」
窓の外から叫ぶ声が聞こえた。
開け放った窓から顔を出し、声がした方に向けば、そこには今まで見た事のない光景が広がっていた。
「……………な、なんだ……あれは…………」
息をするのすら、忘れてしまう程の光景だった。
水中に浮いている刺又を手にしたプランチーと、その下で指をさしているセルトナドアの人差し指の方向、プランチーより五米程離れた水中で悠々と泳ぐその巨躯は、口裂け女程の大きな口に、それぞれが独立した鋭い刃のような歯を持ち、鰭の大きさ一つでもプランチーの背丈を超えそうなほどの体躯をした、大きな魚。
大歯鮫、そう呼ばれていたのがあの魚だとすれば、それはまるでとんだ怪物のように見える何かだった。
陸上で、あれに匹敵する何かは今まで目にしたことがなかった。
まるで自分の住んでいたボロ小屋一軒でも足りない程の大きさをした怪物が、合わせて三匹、プランチーの前でこちらを威嚇するように歯をかちかちと鳴らせていた。
その前で対峙するプランチーは、あの魚の口の大きさ程の背丈しかなく、一口で呑み込まれてしまうだろう。
しかし、プランチーは特に慌てる様子もなく、恐怖も感じられない声色で大歯鮫に声を掛ける。
「ヒトデ村に棲む海の主よ、人の子をどこへ連れて行ったのですか」
それは、先程までの訛りの強い口調ではなく、どこか違う人物が話しているかのような声色だった。
――かちかち…
「…私たちと貴方は不可侵の掟があったはずですが、どうしてこちらへ入ってきたのでしょう」
しかし、大歯鮫はプランチーの言葉には返事をすることはせず、その真っ黒な眼をぱちぱちと瞬きし、真っ直ぐプランチーへと向けていた。
ずっと歯をかちかちと鳴らしており、先程セルトナドアが言っていたように、非常に興奮しているように見えた。
「リンキア!!」
不意に、セルトナドアが叫ぶ。
大歯鮫達の真ん中で、彼らの巨躯に隠されるようにして一人の少年の姿が見えた。
セルトナドアの声に、少年はぴくりと反応をして顔をこちらに向けた。
遠くてよくは見えなかったが、薄群青の髪をした男の子で、背丈からしてもプランチーよりも年上に見えた。
「父さん!プランチーさん!ダメだ、こっちに来たら!」
リンキアがセルトナドアとプランチーを見てそう叫ぶ。どうやら二人は父子のようだ。
必死の形相でそう叫ぶリンキアだったが、その声に気付いた大歯鮫の一匹がリンキアを尾鰭で強く叩き、その衝撃でリンキアは気を失ってしまった。
「リンキア!!」
「……それ以上手出しをすれば、竜王の怒りを買う事、しっかりと分かっているのでしょうね!」
そう言い放つと共に、プランチーが刺又を構えて大歯鮫の群れに突進して行った。
(嘘だろ……)
流石に体格の違いがありすぎる、俺は思わず窓から身を乗り出してその様子を見た。
しかし、その予想は大きく外れることとなった。
目にも留まらぬ速さで自分の数倍も背丈のある大歯鮫に近付いていったプランチーは、その刺又を巧みに使い、一匹一匹巨躯を刺又に封じ込め、思いっきり遠くの方へ飛ばしていく。
大歯鮫も食いちぎろうと、刃が何本も揃った口を大きく開けてプランチーへ向かってくるが、それら全てを刺又一本で全て往なしていた。
「…どうなってんだ………」
宛ら忍者かのように、ちょこまかと俊敏に水の中を泳いでは向かい来る大歯鮫を刺又で遠くへ飛ばす。その小さな身体からは想像出来ない程の力量に、俺は目を疑った。
刺又には対象を傷つける様な武器は付いていない、ただ単純に先端が二つに割れた道具の間に対象を挟んで言う事を利かせる道具だ。警吏が使っているのを陸上でも目にしたことがあったが、まさか海の中でこんな子供が巧みに使っているとは、想像もしなかった。
目にも留まらぬ速さで、プランチーは三匹の大歯鮫の相手を全て一人で賄っていた。
大歯鮫も、俊敏に動き回るプランチーを見て、段々と簡単には倒せない事を悟ってきたようだった。
しかし、飽くまでも刺又は対象を捕縛する道具、その対象が言う事を聞く気がなければ、一生同じことを繰り返さなければならない。
それに、例えプランチーが俊敏な動きで大歯鮫を対処出来ているとはいえ、流石に三対一は圧倒的に分が悪すぎる。
セルトナドアは流れ弾の鮫に気を遣う事で手一杯な為、加勢することはできないだろう。
「リンキア!!」
そうしているうちに、プランチーを倒すことを諦めた大歯鮫の一匹が気を失ったリンキアに近付いていた。
セルトナドアの大声が響き渡るが、プランチーは残り二匹の大歯鮫に気を配っていてそちらに向かえそうにない。
「くっ……血迷ったが!大歯鮫!」
プランチーは何とか助けようと、リンキアに近寄る大歯鮫に刺又を投げつけるが、尾鰭に叩き落される。
――そのまま、この状況を黙って見過ごすことは出来なかった。
何が自分に出来るかなんて、分からないし、何か力になれるとも思わなかったが、それよりも先に体が動いてしまった。
気付けば、俺は懐から短刀を出し、リンキアへ向かう大歯鮫の元へと向かっていた。
「流司郎兄ちゃん?!」
「こ、虎族!!??」
驚く二人の声を背中に、俺は思いっきり地面を蹴って一直線へリンキアの元へと向かう。
初めて、こんなに速く水の中を泳いだ気がした。川泳ぎですら、まともにしたことがなかったのに。
「おらああ!!離れろ!!!」
短刀を構えて大歯鮫へと向かう、対人間以外で闘ったことなど無かったが、そんなことを言っている暇もないだろう。
流司郎が向かってきている事に気付いた大歯鮫はこちらに向かって尾鰭を振り落とすが、海流の流れでそれに気づいた流司郎は瞬時に身を屈め、そのまま大歯鮫の体躯へと短刀の切先を突き上げる。
しかし、大歯鮫も勿論一筋縄ではいかない、動き回る流司郎の動きをしっかりと把握して尾鰭で叩き落そうとしてくる。懐に入り込み、逃げられ、叩き落されそうになり、逃げる。
リンキアへの注意力はこちらに向けられたようだが、これではどちらかの体力が切れるまでの持久戦になる。そうなった場合確実にこちらの分が悪いだろう。
なんとか掠りでもしないものかと短刀の切先を向けるが、どうにも掠りそうな気もしない。
「流司郎兄ちゃん!大歯鮫は、傷つげぢゃダメだ!」
「はあ?!」
そんな折、刺又が無い状態でなんとか大歯鮫の猛攻を耐えていたプランチーからそう声を掛けられる。
「傷つけちゃダメって…それじゃ埒が明かないだろ!」
そんなの、今の時点で不成立だ。
大歯鮫はリンキアを襲おうとしていたのだから、敵対しているだろう。
「おら達はそうやって…海の生ぎ物ど均衡保ってぎだ!その…生態系を…崩すぢゃダメだ!!」
「……くっ」
そう言われるとこちらも手出しが出来ない。
陸にだって同じような言い付けがある、無闇矢鱈に殺生をすればその周囲の動植物の環境を崩すことになる。この世界は全てが緻密な平均台の上で成り立っているのだから、それらを一つでも損なう事があればその均衡は容易く崩れ、豊かな自然が失われる。
無駄な殺生もいけなければ、その環境で一つの生き物だけがのさばるのも良くない。程よい均衡を常に保つことが、世の中で人間と動植物が共存する掟なのだ。
(……んなこと、わかってるけど…でも、こんなのどうしたら……!)
そんなこちらの心情など知る由もない大歯鮫は、真っ直ぐにこちらを噛み殺そうと向かってくる。
羆が突進してくるかのような速さに、こちらも必死になって避けるが水の中なので思うようにいかない。何とか、水の流れで次の動きが予測出来るものの、予測に対して体が瞬時に付いていけるものでもなく、何度か尾鰭に叩き落されそうになり、その度短刀を構えてなんとか威力を往なす。
「…くそ…全然収まんないぞ……」
何とか、気を失ったリンキアには向かって行かないよう、彼の目の前に立って大歯鮫に対抗するが、一匹を相手にするので手一杯だ。
それなのに、二匹を相手に、しかも先程唯一の武具である刺又を失った手ぶらの状態で立ち会っているプランチーには頭が上がらない。
(あいつ、本当に何者なんだ……)
大歯鮫でも追えない程の速さで海の中を縦横無尽に動き回る。
出会った時とは違い、畏敬の念を込めて少年の姿を目で追っていれば、不意に大きな影が背中に迫る気配がした。それと同時に、強い海の流れが迫ってくる。
「う、嘘だろ……」
絶望したセルトナドアの声が聞こえた。
振り向くとそこに、俺の真後ろにいたのは、にいっと不気味に口を歪める四匹目の大歯鮫の姿だった。
(くっそ…こんなところでかよ…!!)
完全に死角を突かれた。
リンキアと俺の間には二米程の間があって、まさに今すぐにリンキアを食い殺そうと大口を開ける大歯鮫にはどう足掻いても届かないだろう。
何とか助けようと、短刀を構えた俺の鼻に、また違う潮の匂いがした。
――その匂いは、かつて小さい頃に嗅いだ潮の匂いと、同じものだった。
「……え?」
気が付いた時には、俺の目の前に、別の人間の姿があった。
全身を白い服で身に纏い、先が二つに裂けた股引のような履物を履いて腰には皮のような生地の硬そうな布地を巻き、そこに刀身の長い打刀程の剣を携えている。背丈は俺より少し低いくらいで、長い真珠色の長い髪を項で一つに結い、俺の前に立ったその人物。
俺に背中を向けたままリンキアを今にも食べようと大口を開けている大歯鮫に対峙したその人物は、鈴が鳴る様な声でこう言った。
「去りなさい」
その、小さいけれど、その空間を掌握してしまう程澄んだ声を聴いた途端に、まるで蜘蛛の子を散らすかのように大歯鮫は四匹ともその場を逃げるように去って行った。
唖然とその場を見詰める事しか出来ない俺の目の前で、その真珠色の髪をした人物は、長い髪を棚引かせてこちらへくるりと振り向いた。
茜色の、夕暮れの太陽のような目の色をした、青年だった。
「大変そうだったから、間割っちゃった。ごめん!」
快活そうな笑顔を見せて、鈴のような声で青年はそう言った。
不思議な、御伽噺の主人公のような青年だった。