第七話:「隠しごと」③
「わし、先にいぬる!」
その日の授業が終わり、宗平くんが恭介くんに言い残してさっさと教室を出ていったのは、ぼくの目を引いた。
いつもなら、今日はどこで遊ぶかなどという計画を話し合いながら下校するか、下校時間まで校庭で遊んでいるのが日常だからだ。
ぼくは、直感のようなものを感じて、後を追った。
しかし予想を外れて、鞄を背負った宗平くんは下駄箱に向かっていた。靴も履き替えて外へ出たので、慌てて追いかける。本当に帰るつもりなのか。
玄関を出て正門にあるかと思われた彼の姿は、途中で立ち止まり、なにやら、学校の校舎側に消えていった。
校舎の側面に回ったのだろうか、と追いかけようとした足をとめ、ぼくはすぐに、下駄箱に取って返した。
彼が消えたあたりには、保健室があるのを思い出したからだ。彼は、そこから校舎の中に取って返したに違いない。
下駄箱から靴を取り去って、自分がもう帰ったと思わせるためだろう。
ぼくは、上履きをはいて、こっそり廊下の様子を窺う。
すると宗平くんがちょうど、廊下に出て、二階へ向かうところだった。
二階へ向かう階段に、宗平くんの姿が消えてから、ぼくは彼が飛び出してきた廊下まで、そろそろと進んだ。やはり、そこは保健室だった。
二階に上がると、国木田先生と亜里沙ちゃんが、宗平くんに引っ張られるようにして職員室から出てくるのと、ばったり遭遇した。
「おー……よう。慎二」
気まずそうな顔をしたのは一瞬のことで、彼はすぐ笑みを浮かべていた。
「ぼくも、手伝うよ」
宗平くんはぽかんとして、先生と亜里沙ちゃんも、何事なのか分からない様子で顔を見合わせていた。
でも、宗平くんはすぐ、呆れたような笑い声を上げた。
「ほうじゃあ、慎二も来い」
宗平くんは、生徒指導室、という誰が使っているのか見たこともない部屋に、ぼくらを促した。
部屋の中は、普通の教室の半分くらいの広さで、四つの勉強机が対面してくっつけられているだけの、寂しい部屋だった。
「まず、わしがここに来たゆうことは内緒じゃ」
四人が椅子に座ると、宗平くんは開口一番そう言った。
国木田先生は呆れた顔をしている。
「そもそも、おめえは何しにきたんじゃ」
「のうなった亜里沙のもんを、探すに決もうとります」
「……そんなことじゃろうとは思おたわ」
国木田先生は、やれやれといった顔をする。
「上履きはわからん。じゃけど、教科書はもしかしゆうと、亜里沙の家に……」
「まず、ないです」
宗平くんは言い切る。
「でも、わたしが忘れただけかも」
亜里沙ちゃんが、申し訳なさそうに呟いた。
ぼくの視線は、ちらと、亜里沙ちゃんに移った。
睫毛が長くて、その顔は外国のお人形さんのように白く、すらりと整っている。
お母さんが外国の人だという話は訊いたことがあった。
札幌五輪で氷上の妖精と言われたのがジャネット・リンなら、亜里沙ちゃんは雪の妖精というべき、解け消えてしまいそうな脆さと可愛らしさがともにある。
ぼくはどきどきして、亜里沙ちゃんを見ていたことを誤魔化すために慌てて口を開いた。
「それは、ぼくもないと思う。亜里沙ちゃんが忘れ物をするっていうのは、ないんじゃないかな」
ぼくは小学一年生の頃、亜里沙ちゃんは小学二年生の頃に、それぞれ関東地方から引っ越してきた。
長い付き合い、といってもこの学校で出会った三年ばかりであるが、彼女が忘れ物をしたことは一度も無かったように思う。
「まあ、わしもそねえ思おとるんじゃが……。じゃけえ、お前らええか。
間違いのねえ人間ゆうはおらん。どえれえ完璧に見える人間も、今か昔か、一つも間違い犯してねえちゅうことは、ありえんのじゃ」
国木田先生は、太い眉を動かすと、ぼくたち一人一人の顔を見回して語りかけた。その言葉は、先生の経験から由ってくるもののようにも思えた。
「わかりました。ほうなら、上履きだけでも、探させてください」
先生の話を聞いても、やっぱり亜里沙ちゃんのことだから、忘れ物なんてしないだろうと思ったぼくと裏腹に、宗平くんは、あっさりと引き下がった。
「探すって、どこを探すの? 学校を、くまなく?」
ぼくの言葉に、宗平くんは首を振った。
「そらあ、無理じゃ。放課後じゃし、上履きはもう学校の外に持っていかれたかもしれん」
「じゃあ、どこを探すの?」
宗平くんの目が、きらりと光る。
「アリバイを探すんじゃ」
アリバイ。不在証明である。
宗平くんは、よく推理小説を読んでいて、ぼくにも何冊か貸してくれたことがあった。第三者の発言などで、犯行現場にいなかったことを証明するものだ。
その言葉に対する反応は三者三様で、亜里沙ちゃんは何のことだか分からないようで首を小さく傾げているし、先生は額に手を当てていた。
「宗平。おまえは、本の読み過ぎじゃ」
「まあまあ、見ゆうてください。わしがこの事件、たちどころに解決してしんぜましょう。差し当たっては、夏休み前に」
急に痛みを覚えたみたいに、先生の顔が曇った。
「……そうか、もう夏休みじゃ。それを、忘れよったわ」
「でしょう。もやもやしたまま休みに入れんけえ、わしは宣言する。あと二日で解決じゃ」
「二日!」
宗平くんの宣言に驚いて声を上げたのは、ぼくだけではなかった。
亜里沙ちゃんが、ぱちぱちと瞬きをして、ぽかんと開けた口から困惑交じりの声を漏らした。
「そんなに、早く?」
「もちろん。犯人の目星もついちゅう」
「だ、誰なの?」
ぼくは思わず、身を乗り出した。自信満々といった様子で、宗平くんは胸を張った。
「そりゃ分からん」
「え?」
「目星はある。犯人は、この学校におる。たぶん、百人ぐらいのうちの誰かじゃ」
急に気が抜けた。それは、目星と言えるのだろうか。
「誰かが外から、盗みに入ったとは考えられんか?」
先生が、腕を組んで訊ねる。
「そねんことは、ない思います。手際が良すぎるんじゃ。
校舎の北側には保健室が、南側にはプールがあるけえ、おかしな人間が来ゆうならすぐ見つかるじゃろう。
四年生の教室は四階やし、なんで三階の学年教室を無視して四階に登ったんか……犯人は、四年生が水泳の授業で教室が空なんを知りゆう人間じゃ思います」
「でも……校舎の裏は、山林になってる。一階の窓が空いてたら、誰にも見つからずに入れたじゃないかな」
といっても、校舎裏は薄暗くじめじめしていて、とても近寄りたいと思える場所ではないので、ぼくは見たことがない。
実際にそういうことが可能かどうかは、分からないが。
宗平くんは、考え込むようにして首を傾けた。
「うん、例えばそねんことがあったとしよう。じゃけえ、今日は、一年生の合唱を一階広間でやりおうた。広間からなら、上の階に向かう階段が丸見えなんじゃ。
一年生の担任の先生か、生徒から、そのへんの話は聞けるじゃろう」
先生が頷いた。
「もう聞いとる。久住のスリッパを職員室に取りに行きゆうときに、教頭に話して、聞いてもろうたんじゃ。
それも、一年生だけじゃのうてな、どの学年の先生に聞いても、怪しい人は見よらん、生徒からそねん話も聞いとらんじゃと」
一年生や二年生は、五時間目が終われば帰りの集会を開いて帰ってしまうので、六時間目の途中のタイミングで、なんとか聞き取りが間に合ったらしい。教頭は聞き込みを急いだとのことだった。
それを聞くと、宗平くんは満足げに頷いた。
「うん。もし犯人が外から侵入したんなら、行きも帰りも、同じ道をたどうたじゃろう。誰も見とらんゆうことは、やっぱり犯人は一階から侵入しとらんゆうことじゃ。
犯人の気持ちを思えば、確かにあれだけ騒がしい一階から入ろうとは、思わんじゃろ」
「そうなるとやっぱり、怪しい人間は学校の中に、ゆうことか……。気いが、重うなるな……。
久住、どねんする? おめえがもうええ、ゆうなら調べん。おめえ次第じゃ」
先生が、豊かなに茂った眉を寄せて、気づかわしげな眼を亜里沙ちゃんに向けた。
ぼくは先生の言葉にどきりとした。先生はどうして、そんなことを言うんだろう。犯人をこのまま逃がしてしまってもいい、みたいなことを。
さあっと思い浮かんだのは、小室澤山小学校という名前だった。
その学校の先生の一人が、遠足のお金をこっそり盗んで、使い込んだというニュースだ。
以来、その学校にテレビや新聞の記者が押しかけ、しまいには校長先生やその他、二、三の先生が土下座をして謝っていたのを、テレビで見た。
ふつふつと、苦い唾が湧いて来た。先生はやっぱり、そういうことを避けたいんだろうか。
何もなかったということに、したいんだろうか。
「……わたし、探します。二人と、一緒に」
先生に問われ、伏せがちだった亜里沙ちゃんの視線が、定まった。
今は、先生からの視線を正面から迎えうっている。
国木田先生は、そうか、と呟くと、何か言いたそうな口元を引き締めて、小さく頷いた。
すると、宗平くんが、さっと立ち上がった。
「ほうなら、善は急げじゃ!」
「ど、どうするの?」
「決もうとる。聞き込みじゃけ」
うろたえたぼくに、宗平くんは、満面の笑顔を浮かべた。